第2話
第2話
倉庫の床に、男の影が長く伸びていた。
玲司はUSBを受け取らなかった。鉄パイプを握ったまま、男の目を見た。月光の角度。瞳孔は開いていない。動揺の色はない。嘘をつく人間の目ではなかった。だが、嘘をつかない人間ほど、上手に嘘をつく。三年間、それを叩き込まれてきた。目の奥の温度、まばたきの間隔、呼吸が詰まる一瞬の段差。男の呼吸は均一だった。落ち着いている、というより、覚悟が済んでいる呼吸だった。
「桐生が、生きてる」
玲司は確認するように言った。声が掠れた。喉の奥が、三年分の埃を一度に吐き出したように渇いていた。死んだはずだった。墓石の冷たさを掌で覚えている。骨壺の重さも、拾い上げた小さな白い破片の感触も。あれが本当に桐生の骨であるはずがないと、心のどこかでずっと疑い続けてきた。その疑いを、自分でずっと押し殺してきた。押し殺さなければ、三年間を立っていられなかったからだ。
「生きてる」
男は繰り返した。「三年前、あんたを撃ったあと、桐生は組織に潜った。中から崩すために」
「組織」
「警察の中だ」
短い言葉だった。倉庫の空気が一段、重くなった気がした。警察の中、という言葉の意味を、玲司は誰よりも知っていた。三年前の銃声が、なぜ内部の捜査資料にすら残らなかったのか。なぜ自分の左肩の傷だけが、書類の上では存在しないことになっていたのか。なぜ桐生の名が、殉職者リストの後ろの方に、付け足しのように静かに置かれていたのか。その答えが、たった一言で輪郭を持った。輪郭を持った瞬間、それは三年分の質量で玲司の胸を押した。
天井の梁から落ちる埃が、月光の筋の中で、奇妙にゆっくり踊っていた。玲司は鉄パイプを握り直し、半歩前に出た。USBに手を伸ばす。指先が男の掌に触れる前で止まった。掌は乾いていた。汗ひとつかいていない。それが、かえって男の本気を物語っていた。
「証拠は」
「USBの中だ」
「読める状態か」
「半分は読める。残り半分は、神尾に当てれば復元できる」
神尾。三年前、桐生と玲司が逮捕寸前まで追い込んだ違法整備士。今、玲司の改造車を布で眠らせている男。この使いは、それを知っている。桐生が、本当に動いている。三年間、墓石の前で線香をあげてきたあの男が、地下のどこかで息をして、こうやって駒を動かしている。背筋を、冷たいものが這い上がった。怒りなのか、安堵なのか、自分でも判別がつかなかった。判別する必要もないのかもしれなかった。三年間ずっと胸の底に沈めていた感情が、名前の付かないまま、ただ熱だけを上げていた。
玲司はUSBを掌で受け取った。焦げた角が指の腹を引っ掻く。プラスチックは熱で歪み、コネクタは黒く煤けていた。本物だ、と直感が告げた。偽物を作るのに、ここまで雑に焼く必要はない。むしろ、火の中から拾い上げてきた、と言われた方がしっくりくる温度の残り方だった。
「どうして、あんたが運んできた」
「桐生が信用できる人間は、もう三人しか残っていない」
「俺と、あんたと」
「あと一人。それは、まだ言えない」
男の声が、ほんの一瞬だけ揺れた。守るべき名前を抱えている人間の声だった。玲司はそれ以上聞かなかった。聞けば、男はおそらく答えてしまう。それくらいの覚悟で、ここに立っている。覚悟の重さは、追い詰めて引き出すものではないと、三年前のどこかで桐生が言っていた気がした。
外で、エンジン音が増えていた。さっきまで三つ。今は四つ、五つ。倉庫街の路面が低く震えている。あの重さはSUV。装甲化された車体。覆面じゃない。組織の私兵だ。タイヤがアスファルトの目地を踏むたび、わずかに沈み込む。重量級の補強が入っている証拠だった。
玲司はUSBを胸ポケットに押し込んだ。布越しに、まだ余熱が伝わってくる気がした。
「桐生は、なぜ俺を撃った」
声が、自分でも驚くほど平らに出た。三年間、夢の中で何度も繰り返した問いだった。それを今、生身の人間に向けて吐き出している。問うた瞬間、左肩の古傷が、何かを察したように小さく疼いた。
男の口元が、わずかに緩んだ。何かを言いかけた。喉が動いた。最初の音が、たしかに発された。「あれは──」
その瞬間、男の額が弾けた。
音は、後から来た。乾いた、遠い銃声。倉庫の窓の高い位置、ガラスの一枚にひびが走り、男の身体が崩れる前にもう一発、胸を貫いた。血が玲司の頬に飛んだ。生暖かい。錆の匂い。鼻の奥にこびりつく、忘れたはずの匂いだった。三年前、自分の左肩から流れたあの血と、同じ匂いだった。
男は倒れた。倒れる途中で玲司の袖を掴もうとして、掴めなかった。指先が空を切り、シャツの繊維をかすめて、そのまま床へ落ちた。その指の角度を、玲司はおそらく一生忘れない。
「──」
玲司は声を出さなかった。出せなかった。代わりに身を低くして、コンクリートの柱の影に飛び込んだ。鉄パイプは床に転がった。要らない。ここからは銃の世界だ。
窓の外で、ヘッドライトが三組、同時に灯った。
白い光が倉庫の壁を切り裂き、床に伸びた男の死体を、舞台のように照らし出した。SUVが三台。半円形の包囲。逃げ道は、入ってきた鉄扉だけ。その先にはたぶん徒歩の追手がもう配置されている。
柱の影で、息を整えた。三年ぶりの感覚だった。捜査官だった頃の脳の回り方。視野が狭くなり、音が研ぎ澄まされる。心臓は早い。だが手は震えていない。むしろ、三年間ずっと冷えきっていた指先に、ようやく血が通い始めた感覚だった。生きるための血だ。
懐から携帯を抜いた。画面の光を掌で覆い、外に漏らさない。神尾。一言だけ、打ち込む。
「車を起こせ。十五分後」
返信は来ない。神尾は寡黙だ。来ない返信が、了承の合図だった。三年前と、まったく同じ流儀だった。
倉庫の天井裏に、配電盤がある。三年前の内偵で位置を頭に叩き込んでいた。玲司は身体を起こし、柱から柱へ、低く走った。靴底のゴムが、コンクリートの粉を噛む。ヘッドライトの光が、玲司のいた場所を一拍遅れてなぞる。狙撃手は隣のクレーン上。SUVの位置取りから逆算した。包囲は完成しているが、屋根の上は手薄だ。あの男たちは、的を箱の中に追い込むことは知っていても、箱の上が抜けていることに気づくまで、もう数十秒かかる。
配電盤の蓋を、コンクリートのかけらで叩き割った。火花。倉庫の外灯が一斉に落ちた。SUVのヘッドライトだけが残る。光源が三つに絞られた瞬間、影の数も読みやすくなる。柱の裏、コンテナの陰、フォークリフトの下。包囲側の人影が、自分たちの光に焼かれて、輪郭を露わにし始めた。
床の死体に戻った。男の内ポケットを探る。指先がまだ温かい肋骨に触れた。財布なし。身分証なし。代わりに、小さな金属片。倉庫裏、搬入口の鍵だった。男は最初から、ここから玲司を逃がす段取りで来ていた。死ぬ予定はなかったはずだ。だが、死んだ。死ぬ予定はなかった人間の死体は、こんなにも軽い。名前すら聞いていなかった、と気づいたのは、鍵を握り込んだあとだった。名乗らせる時間も、与えなかった。与えなくていいと思っていた。今になって、それが妙に喉に引っかかった。
「──借りた」
玲司は男の額を一度だけ拭い、鍵を握って走った。指先に残った血を、走りながらシャツの裾になすりつけた。
搬入口は倉庫の裏側、運河に面している。SUVの包囲の死角。鉄扉に鍵を差し込み、回す。錆びた音。外、潮の匂い。コンクリートの斜路が、運河の暗い水面に向かって落ちていた。湿った夜風が、頬の血を冷やしていく。
斜路の脇に、古い貨物車が放置されている。タイヤは空気を残している。鍵は陽光板の下。三年前、内偵で何度も使った車だった。桐生は最初から、この受け渡し場所を選んでいた。逃げ道までこちらに用意していた。──まるで、三年前から今夜のことを想定していたみたいに。
エンジンをかけた。一発で掛かる。古い四気筒が不機嫌そうに咳をした。玲司はギアを叩き込み、運河沿いの路地へ車を放った。
バックミラーにSUVのヘッドライト。一台が回り込んできた。残り二台は倉庫を制圧中。狙撃手は屋根を降りる時間がいる。間に合う。
胸ポケットの中で、焦げたUSBが心臓の真上にあった。重さはほとんどない。だが、熱を持っている気がした。桐生は生きている。死んだはずの男が、生きている。三年前のあの一発は、俺を殺すための弾じゃなかった。──そう思いたいだけかもしれない、と頭の片隅で冷たい声がした。だが、それでも構わなかった。今は走るための理由がいる。それが嘘でも、走り出してから確かめればいい。
ハンドルを切る。路地が狭まる。バックミラーのSUVが、すぐ後ろまで詰めていた。前方、首都環状の合流レーンの標識が、ぼんやり蛍光に光っている。
撃たれた左肩が、今になって、ずきりと熱を持った。
三年間黙っていた古傷が、今夜、何かを思い出そうとしていた。