第1話
第1話
サイレン。
バックミラーが赤く染まる。響堂玲司は舌打ちひとつでギアを落とし、アクセルを踏み込んだ。廃車寸前のセダンが甲高い悲鳴を上げる。
首都高湾岸線、深夜二時。前方の車線は空いている。後ろには三台の覆面、黒のクラウンが扇形に展開していた。プロの追尾。等間隔の車間。素人が撒ける配置ではない。
「またかよ」
助手席のクーラーボックスが滑った。中身は問わない約束で運んでいる。問わない代わりに、捕まれば全部自分が背負う。それが運び屋という稼業の値段だった。
針が百八十を越える。エンジンが熱を吐く。シフトノブが汗で滑った。三年前まで、玲司はこの道を反対の側から走っていた。覆面のハンドルを握り、逃げる側を追い詰める方の人間だった。
合流レーンが近い。玲司はミラー越しに距離を測る。先頭の覆面、車間五十。次が八十。最後尾は九十。完全に手順通り。連携が取れている。
「警視庁、二課の動き方だ」
呟きが、自分でも意外なほど低く出た。古巣の手の内が、今は自分を狩る側として迫ってくる。配置の癖、ブレーキの踏み方、車間の刻み方──全部、かつて自分が部下に教えた型だった。誰が指揮を執っているのか、顔が浮かびそうで浮かばない。浮かびそうで、奥歯がきしんだ。
ハンドルを切る。タイヤが金切り声を上げ、車体が真横に流れる。中央分離帯のコンクリートをサイドミラーが削り、火花が散った。鼻の奥に焦げたゴムの匂いが刺さる。バックミラーの中で先頭の覆面が、ブレーキを踏み損ねた。後続が追突する。鈍い金属音。一台が白煙を吐いて減速していく。
道路が空く。
玲司は前を向き直った。掌の中で心臓が脈打っている。アクセルから足を離さない。残り二台。生きている。三年ぶりに、生きている実感がある。指先まで血が回る感覚。死にかけている人間が、皮肉にも一番、生を噛みしめる。
レインボーブリッジのループに差し掛かる。傾斜がきつい。遠心力が左肩を窓に押しつけた。三年前、銃弾を受けた肩。夜になると鈍く疼く部位。今夜は痛みすら感じなかった。アドレナリンが古傷を黙らせている。
無線機が振動した。違法配送の元締めから。
「響堂、生きてるか」
「生きてる」
「ブツは」
「無事だ」
「廃倉庫に届けろ。場所は前と同じだ。落とせば、お前の命で払ってもらう」
「承知してる」
通話が切れた。玲司は無線機を助手席の足元に放った。命で払う、か。安い命だと思った。三年前、捜査二課のエースだった頃に死んでおけばよかった命だ。
汚職事件、最終局面。立件直前の夜、玲司は相棒の桐生と組んでターゲット宅を張っていた。容疑者が現れた瞬間、桐生が銃を抜いた。玲司ではなく、玲司に向けて。左肩。一発。火薬の匂い。コンクリートに崩れ落ちる視界の中で、桐生の顔は無表情だった。
「すまない」
桐生はそれだけ言って、闇に消えた。三日後、桐生は別件の銃撃戦で死亡したと発表された。証拠ファイルは押収後に焼失。玲司は監察に呼ばれ、辞表を書かされた。理由は怪我の後遺症。誰も真相を聞かなかったし、玲司も語らなかった。語れば、自分まで消されると分かっていた。
ミラーに新たな赤色灯。覆面が二台、合流レーンから滑り込んでくる。総勢四台。玲司は前歯を噛み締めた。
今夜の仕事は、いつもの仲介人を通じて受けた普通の便だったはずだ。クーラーボックスの中身も、麻薬か拳銃か、せいぜいその程度のはずだった。なのに警視庁の覆面が四台。数が合わない。組織犯罪対策ですらこの規模で動かない。
「中身か」
玲司は左手をボックスに伸ばし、片手でロックを外した。緩衝材に包まれた金属の箱。指先で触れる。冷たい。中で電子音が、低く唸っている。
発信機ではない。記録機だった。
中身が、玲司にとって意味のある何かだ。仲介人ですら知らない何か。指先が、勝手に震えた。三年間、麻痺させていたはずの感覚が、皮膚の下で目を覚ましていく。逃げているのか、それとも、引き寄せられているのか──自分でも判別がつかなかった。
アクセルを踏み込む。針が二百を越えた。エンジンが咆哮する。廃車寸前と侮られていた車体が、今夜だけは牙を剥いた。
九号深川線への分岐標識が前方に浮かぶ。玲司は最後の瞬間でハンドルを切り、出口に滑り込んだ。覆面四台が直進してから気づき、急ブレーキを踏む音が背後に響く。タイヤの焦げる匂いが、開いた窓から流れ込んだ。距離が開く。だが時間はない。連中はすぐに次の出口で折り返してくる。
地下道に潜る。トンネル。ヘッドライトの光が壁を切り裂く。玲司は無灯火に切り替えた。赤色灯の残光が消えた瞬間、暗闇の中でセダンの輪郭が消える。
出口を抜け、運河沿いの旧倉庫街へ。ここから先は地図にない裏道だ。三年前、汚職事件の内偵中にこの一帯を歩いて頭に叩き込んでいた。捜査官だった頃の財産が、今夜は逃走経路として機能する。皮肉な話だった。あの頃、自分が踏んだ路面の癖、雨水が溜まる凹み、街灯の死角──すべてが、今は自分を匿う側に回っている。
第三埠頭の廃倉庫。受け渡しの場所だった。
玲司はセダンを倉庫の影に滑り込ませ、エンジンを切った。耳鳴り。さっきまで二百キロで走っていた身体が、急に止まる。指先が震えた。アドレナリンの抜け道が見つからない。深く息を吸う。鉄錆と海水の匂い。遠くで貨物船の汽笛が一度、低く尾を引いた。汽笛が消えると、潮の満ちる音だけが闇の底に残った。三年前、桐生と最後に張り込んだ晩も、この匂いがしていた気がする。
クーラーボックスを引きずり出した。重い。中の金属箱を取り出し、脇に抱える。拳銃はない。三年前に返納した。代わりに、運転席の下から鉄パイプを抜いた。長さ四十センチ。握りに布を巻いてある。馴染んだ重み。
倉庫の鉄扉は半開きだった。ヒンジの錆が夜気に滲む。玲司は息を整え、扉の影に身を寄せた。中の気配を探る。
人がいる。
ひとり。
足音は立てていない。だが息は隠せない。低く、規則的な呼吸。素人ではない。玲司は鉄パイプを握り直し、扉の隙間から内部を覗いた。
倉庫の奥、月明かりが差し込む位置に、人影が立っていた。背格好は中肉中背。コートの裾が風で揺れる。顔は逆光で見えない。両手は腰の前で組まれている。攻撃の構えではない。だがそれは、武器を持たないという意味でもなかった。
玲司は半歩だけ倉庫の中に入った。月明かりが自分の顔の半分にかかる。男もこちらを見ている。互いに動かない。湿った床のコンクリートが、靴底に冷たく張りついた。心音だけが、やけに大きく耳の奥で響く。鉄パイプを握る掌が、汗で布地に張りつく。男の影が、月光の中で一ミリも揺れない。訓練された人間の静止だった。
「響堂玲司」
低い男の声だった。玲司の知らない声。だが、こちらの名前を知っている。今夜の配送伝票に、響堂の名は出ていないはずだった。
「鉄パイプを置け。撃ちに来たんじゃない」
男の右手が、ゆっくり胸元に伸びた。玲司は鉄パイプを引いた。男の指先が抜き出したのは、拳銃ではない。月明かりに浮かんだ小さな黒い四角。USBメモリ。表面が焦げて、角が溶けかけている。
玲司は鉄パイプを下ろさなかった。
「誰だ」
「使いだ」
「誰の使いだ」
風が止まった。男の口が、ゆっくり開く。
「あんたの、元相棒の」
倉庫の空気が、一瞬で重くなった。玲司は自分の喉が鳴る音を聞いた。耳の奥で、三年前の銃声が、今になって遅れて響いた気がした。肩の古傷が、しびれるように熱を持ち始める。
「桐生は──三年前に死んだ」
「死んでない」
男は静かに言った。差し出された焦げたUSBが、月光の中で小さく揺れる。
「これを受け取れ。三年前、あんたが握り潰されたファイルの、写しの一部だ」
玲司は動けなかった。鉄パイプを握る指先が冷えていく。三年間、夜ごと夢に見た無表情。撃った男。死んだはずの男。
外で、エンジン音が低く唸った。一つではない。三つ。重なって地響きになっていく。
まだ遠い。
だが、近づいてくる。
玲司の指が、焦げたUSBに伸びた。沈めたはずの炎が、内側から喉を焼いた。