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復讐回路 NEMESIS

第3話 第3話

第3話

第3話

ハンドルが軽い。

タイヤが半分浮いている。古い貨物車の四気筒は、悲鳴を上げながら運河沿いの路地を縫っていた。玲司はギアを四速に叩き込んだ。エンジンが咳をする。吸気の悪いキャブレターが、夜気を必死に飲み込もうとしていた。オイルの焦げた匂いが鼻を突く。メーターの針は赤帯ぎりぎりで震えていた。荷台に積まれた空のコンテナが、段差のたびに低く吠える。冷えたハンドルの感触だけが、現実の手触りを保ち続けていた。

バックミラーのSUV。ヘッドライトの白が、ミラーいっぱいに膨らむ。距離五メートル。次に四メートル。装甲化された鼻先が、貨物車の後尾にキスをしようとしている。白光がフロントガラスに反射し、玲司の網膜を一瞬焼いた。眩しさで瞳孔が縮み、視界の隅が黒く落ちる。耳の奥で、自分の鼓動と、SUVのターボがうなる低音とが、同じテンポで重なった。

「来やがれ」

ハンドルを左に切った。タイヤが鳴る。路地の角を、後輪を流して曲がる。SUVが遅れて追う。重量級の宿命。同じ角で同じ速度は出せない。だが、加速で取り戻せる重さでもあった。

胸ポケットの焦げたUSBが、シャツ越しに肋骨を押している。ほとんど重さはない。それなのに、内臓を引きずるような重力があった。桐生は生きている。三年前の一発は、俺を殺す弾じゃなかった──と思いたいだけかもしれない男の声が、頭の奥でしぶとく息をしていた。

路地が開けた。片側二車線。前方の電光板に「首都環状 合流レーン 五百メートル先」。

携帯が震えた。神尾。短い文字列。

『合流手前、工事規制あり』

玲司の指先が一瞬、ハンドルから離れかけた。

工事規制。深夜二時半。昼の打ち合わせで、首都環状の規制カレンダーは無印だった。

「罠か」

声に出すと、確信に変わった。

ミラーのSUVが、少し下がった。

下がった、ことの方が嫌だった。プロは獲物を仕留める直前、必ず一度距離を取る。発砲か、追い込みか、どちらかの態勢を作るために。教えたのは、ほかならぬ玲司自身だった。捜査二課で後輩を集めた研修の、いちばん最初の頁に書いた一行を、いま、自分が逆側から読まされている。玲司はアクセルを緩めなかった。緩めれば、相手の予定通りに走らされる。

合流レーンの標識が近づく。三百メートル。二百五十。

その瞬間、視界が、白く飛んだ。

三年前。

雨だった。アスファルトの上に水膜。湾岸倉庫街、容疑者宅の張り込み。覆面のセダンの中で、玲司は缶コーヒーを握っていた。冷めていた。指先に伝わる金属の冷たさが、手のひらの汗を吸い取っていく。助手席に桐生。無言。三時間、ふたりとも一言も発していなかった。フロントガラスを伝う水滴の数を、玲司は無意識に数えていた。十二、十三、十四。数えきれなくなったあたりで、桐生の喉仏が一度、ゆっくりと動いた。横顔の輪郭は、街灯の青白い光を浴びて、まるで蝋でできた仮面のように動かなかった。あの夜、桐生の右手が膝の上で、何度か拳を握って開いていたのを、玲司は覚えている。覚えているのに、当時は意味を読み取れなかった。

「来た」

桐生の声。低く、掠れていた。ターゲットが現れた。傘も差さずに、コートの襟を立てて。立件には、あの男が金庫を開けた瞬間の写真が要る。玲司はカメラに手を伸ばした。指先がレンズキャップに触れた、その刹那。

その瞬間、桐生が銃を抜いた。

向きが、玲司だった。

「桐生」

桐生は答えなかった。代わりに、ほんの一度だけ、首を縦に振った。小さく。誰かに向けた合図のように。それから引き金を引いた。

左肩。

火薬の匂いが、雨の匂いをかき消した。コンクリートに崩れる視界の中で、桐生は無表情だった。「すまない」と一言、低く言って、闇に消えた。左肩の感覚は、なかった。痺れが鎖骨を伝い、首の付け根まで這い上がってくる。雨粒がまぶたを叩き、視界の輪郭がにじむ。耳の中では、桐生の靴音が遠ざかっていく拍子だけが、やけに鮮明に残っていた。一、二、一、二。等間隔で、迷いがなく、振り返る気配もない拍子。あの拍子を、玲司はその後の三年間、夢の中で何度も数え直すことになる。

三年前のフラッシュバックは、いつもここで終わっていた。

だが今夜、初めてその先が来た。

桐生が頷いた、その視線の先。雨の街路の向こう側、暗い倉庫の屋根。あそこに、誰かいた。シルエットの輪郭すら、雨の幕の向こうで揺れていた。けれど確かに、人の形をした影が、ひとつ。桐生は引き金を引く前、誰かに向かって頷いていた。あの一発は、誰かに「やった」と見せるための弾だった。玲司を殺せていない、という事実を、誰かに隠すための弾だった。

ハンドルが汗で滑る。

合流レーン百五十メートル。前方、規制看板。「↑右側へ寄れ」のオレンジの矢印。深夜二時半。工事員はひとりも見えない。発煙筒だけが、路面に等間隔で置かれている。等間隔すぎる。プロの仕事だ。煙の濃さも、立ち上る角度も、現場で慌てて置いた人間のものではない。あらかじめ風向きを計算して、視界を奪う角度に揃えてある。

玲司はアクセルを緩めなかった。

緩めれば、合流レーン一本に絞られる。一本に絞られた瞬間、前方で待ち構えている何かが、玲司を轢き潰すか、銃で穴だらけにするかを選ぶ。どちらにしても、今夜の朝日は見ない。

通話ボタン。神尾。コール一回で出た。

「合流前、規制の手前、降り口はあるか」

「ある。九号深川線の旧緊急出口。標識なし。コンクリの白線で塞いである。突っ込めば抜けられる」

「距離」

「あと七十メートル」

「了解」

切る。

七十メートル。時速百二十。一秒で三十三メートル進む。残り二秒。判断の猶予はない。喉の奥が乾いて、唾を飲み込もうとしても何も流れない。

ミラーのSUVが、また距離を詰めた。前方、規制看板の手前で、ガードレールの一部が、不自然に歪んでいた。普通の事故痕ではない。新しい削り痕。誰かが今夜、急ピッチで何かを取り付けた跡。ヘッドライトの照り返しに、細い金属の光が一筋走った。鋼線の艶。張りの強さ。素人の細工ではない。

ワイヤーだ。

合流レーンの入口に、低く張られたワイヤー。タイヤを切り裂くか、フロントを跳ね上げる仕掛け。三年前、捜査二課の覆面車を一台、これと同じ方法で潰されたことがあった。あの晩、ワイヤーを張った犯人は、ついに挙がらなかった。──いま、思い出した。あれを潰したのは、警察の中の人間だ、と桐生が酒の席で一度だけ零した。あのとき桐生は、グラスの底をじっと見ていた。氷が溶ける音だけが、ふたりの間に長く残った。玲司は冗談だと思って笑った。桐生は笑い返さなかった。あの夜の桐生の沈黙の意味を、玲司はいま、ハンドルの上で初めて理解した。

ハンドルを左へ。

緊急出口の白線が、ヘッドライトに浮かぶ。コンクリートのバリケード。表面が剥がれかけている。神尾の言う通り、突っ込めば抜けられる重さだ。

アクセルを踏み込んだ。

衝撃。

フロントバンパーが砕ける音。コンクリートのかけらが空に舞う。フロントガラスにひびが走った。だが、抜けた。鼻腔の奥に、冷却液の甘ったるい匂いと、焦げたゴムの臭いが同時に押し寄せた。シートベルトが胸を絞り上げ、肋骨の中でUSBが鋭く尖って肉を刺す。耳の奥で何かがキィンと鳴り続け、その音だけが時間の経過を教えていた。貨物車は速度を半分に落としながら、暗い斜面を転がるように降りていく。

ミラーで、SUVが急ブレーキを踏んだのが見えた。一台は止まれた。後続の二台は止まれず、合流レーンに突っ込んでいく。先頭のフロントが、ワイヤーで一瞬持ち上がった。横転。火花。後続が玉突きで突っ込み、深夜の高速道路に金属の悲鳴が連鎖した。

玲司は前を向き直った。

息が浅い。心臓は早い。だが手は震えていない。三年前、桐生が頷いた相手の顔は、まだ見えない。だが輪郭は見えた。警察の中の人間。それも、捜査二課の上層に近い誰か。

胸ポケットのUSBが、また熱を持った。

斜面を降りきった先、貨物車のヘッドライトが、暗い側道を切り裂いた。

携帯がもう一度震えた。神尾ではない。番号非通知。玲司は片手でスピーカーに切り替えた。

声は、低かった。歪んだボイスチェンジャー。男か女か、年齢も判別できない。

「響堂玲司。USBは受け取ったな」

玲司は答えなかった。沈黙の隙間で、相手の呼吸音すら拾えない。完全に処理された音声。背筋を、冷たいものが滑り落ちた。

「いま降りた出口の三百メートル先、橋脚の裏に、お前の昔の同僚が立っている。武装している。撃たれる前に、左の側道へ折れろ」

通話が切れた。

ハンドルを握る掌に、汗が滲んだ。

橋脚の裏。三年前、玲司自身が後輩に教えた待ち伏せの位置だった。教科書通りの配置。それを今夜、自分が獲物として歩かされている。

側道の分岐が、ヘッドライトの先に浮かんだ。

玲司は左へ、ハンドルを切った。

タイヤが鳴る前に、フロントガラスの右上で、何かが弾けた。

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