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女帝〈蓮〉——氷室透は二度死ぬ

第2話 第2話

第2話

第2話

縄梯子に左手をかけたまま、動けなかった。 鉄錆と海藻の臭いが鼻に張り付く。船腹に貼り付いた右脚から、塩水と血が梯子の段板を黒く染めていく。一段目に靴底を載せ、二段目で止まった。 妻子は別班が処理済み。 あの一行を、俺は信じたのか。 信じるな。 頭の奥で、三年前の桐谷の声が反芻する。「現場で受け取った情報は、誤報の確率が四割。確認できるなら確認しろ」——教科書の通りだった。教えた本人が今、誤報で俺を動かそうとしているなら、なおさらだ。妻と娘の体に、まだ温度があるかもしれない。

縄梯子から手を離した。 水面が下から殴ってくる。塩水が太腿の傷口に咬みつき、頭蓋の内側まで痺れた。海中で軍手を口にくわえる。塩で舌が痺れる。それでいい。痺れていれば、考えなくていい時間が一秒延びる。 潜ったまま岸壁の影を伝い、積み下ろしクレーンの脚に取りついた。コンクリの欠けに指を食い込ませ、四メートルを這い上がる。右脚が言うことを聞かない。膝が外側に外れる感覚があった。腿の弾は貫通している。骨は折れていない。歩けるなら走れる。 時計を見る。二時十七分。家まで車で十二分。徒歩は選べない。

埠頭裏の駐車場で、軽トラの運転席に潜り込んだ。配線を二本剥いてショート。エンジンの音が腹に響く。アクセルを踏みながら、ジャケットの内ポケットに指を入れた。妻が三年前に縫ってくれた、内布の補修跡。指の腹がそれを撫でたとき、喉の奥がぐっと詰まった。 家までの十二分を、速度違反で潰した。

郊外の住宅街は寝静まっていた。 街灯がオレンジ色に滲み、裏路地の塀沿いに軽トラを停める。エンジンを切ると、雨音と遠くの犬の声が戻ってきた。 家の門灯は、点いている。 妻はいつも、俺が帰る夜は門灯を点けたまま寝る。 喉が鳴った。

裏木戸の鍵は、植木鉢の下の二つ目の石の裏。三年前、潜入が始まる前に妻と決めた場所だ。「あなた、夜に変な時間で帰るかもしれないでしょ」——妻はそう言って、自分で石を選んでいた。鉢を持ち上げる。土の匂いが立ち上り、ダンゴムシが指の縁を逃げていった。妻は石を選ぶとき、「角の取れた、踏んでも痛くないやつ」と言って、五個並べて一番丸いのを選んだ。あの夜の妻の指の動きを、俺はまだ覚えている。石を裏返す。鍵があった。指が、鍵を握れない。三度落として、四度目に拾った。三度目に落としたとき、鍵は土に半分埋まり、爪で掻き出した土が爪の間で黒く固まった。

裏口の鍵穴に差し込む。 湿った金属の音。回す指先が、自分のものとは思えないほど軽い。

ドアを開けた瞬間、鉄の匂いが顔面を殴った。 雨の鉄錆ではない。新しい血の、生暖かい鉄。

靴のまま土間を踏んだ。廊下の電気はついていない。だが、家の中の歩数は全部覚えている。玄関から廊下まで七歩、廊下からリビングまで五歩、リビングから娘の部屋まで四歩。

リビングに入って、足が止まった。

妻がソファの脇に倒れていた。 左胸に二つ、額に一つ。プロの撃ち方だった。三年、現場で見続けてきた撃ち方だ。倒れた角度から、撃ったのは玄関側に立った人間。妻は右手をテレビのリモコンに伸ばしたまま死んでいた。チャンネルを変える前に殺された。画面では、音を消した深夜の天気予報が、明日の晴れを伝えている。気象予報士の口だけが動き、桜のマークが地図の上を流れていた。明日、桜が満開になるらしかった。娘が、桜の下で写真を撮りたいと言っていた。

俺は妻の前に膝をついた。 頬に手を当てる。 冷たい、ではなかった。 ぬるい、でもなかった。 体温というものが、もうそこに存在しない、という感覚だった。指先の神経が、何の情報も拾わない。妻の頬は、室温と同じ温度のものに変わっていた。耳の後ろの、いつも妻が「ここ撫でられると眠くなるの」と言っていた窪みに、指を滑らせた。そこも、室温と同じだった。妻の髪に、シャンプーの匂いだけがまだ残っていた。柑橘の、安いやつ。妻はずっと、その安いシャンプーを使い続けていた。

「奈緒」 名前を呼んだ。 返事はなかった。

娘の部屋の扉を、押した。

ベッドの脇に、明日のための赤い革靴が並んでいた。底のいちごのマークが、月明かりに白く光っている。妻が選んだ靴だ。明日の朝、娘はこれを履くはずだった。 靴のすぐ横で、娘が丸まっていた。 左こめかみに一つ。 眠っていた子供を、起こさずに済ませる撃ち方だった。

娘の額に手を置いた。 半分開いた口元に、前歯の隙間が見えた。 笑い声は、聞こえなかった。

膝の力が抜けた。 床に手をついた瞬間、右手の下で何か硬いものが滑った。 拾い上げる。 ラミネートされた、プラスチックの身分証。 氷室透。警察庁特別捜査部、潜入捜査班——本人の身分証だ。だが、俺はこれを家には持ち込まない。三年間、一度も。家族の生活圏に身分証が転がる事故を防ぐため、家には偽造の運送業者IDしか置いていない。 このカードは、今夜、誰かがここに置いた。 顔写真の俺は、三年前の俺だった。髪が今より短く、目に光があった。あの撮影の日、妻が玄関で俺のネクタイを直しながら「写真うつり、笑ってね」と言った。俺は笑わなかった。職員証の写真で笑う警察官はいない。妻はそれを知っていて、それでも言った。

カードの裏に、印字された一行があった。 「内通容疑により抹消」 警察組織の内部通信文書のフォーマット。日付欄に、今夜の日付。発信元は、桐谷直属の管理課。

頭の中で、二本の線が繋がった。 俺は内通者として処理される。妻と娘は、内通者の家族として処理された。物語はもう完成している。明日の朝、ニュースが流れる。「警察内部の腐敗、潜入捜査官が組織情報を売却、家族を道連れに自殺」——筋書きはそれで通る。死体は俺と妻と娘の三つで揃う。あとは俺の死体を埠頭から拾えば、絵が完成する。 そのために今夜、二人は殺された。

両手で顔を覆った。 覆った手のひらに、妻の頬と娘の額の温度が、まだ残っていた。残っているはずがないのに、皮膚はそれを覚えていた。

頭の奥で、何かが沈黙した。 泣け、と命じても、涙が出てこない。叫べ、と命じても、喉が動かない。代わりに、別の場所が動いた。 指先が、床のカードを摘み上げた。 ジャケットの内ポケットに、それを納めた。 証拠だ。証拠を持って逃げる。 逃げるための判断が、悲しみより先に立ち上がった。それを認めた瞬間、俺は氷室透ではなくなった。氷室透なら今、ここに座り込んで二人の名前を呼び続けた。立ち上がっているこの人間は、別の誰かだ。

リビングに戻り、机の引き出しを開けた。 家族のパスポート、現金、引き出しの底に貼った封筒——三年前、潜入を始める時に「最悪の場合のために」と妻に渡した、二百万円。妻は使わなかった。使わずに、そこに残していた。妻はずっと、最悪の場合は来ないと信じていた。 封筒を握り締める。 関節の白い色を、自分のものではない誰かの指のように見ていた。

立ち上がる。 妻と娘の死に顔を、もう一度焼き付けた。 背を向けた。

そのとき、門の向こうで、車のドアが二つ、続けて閉まる音がした。

足音。 四つ。 ゴム底の、訓練を受けた歩幅。

息を止めた。

玄関の三和土に四つの靴影が映る前に動いた。リビング西側、娘の部屋の窓——三年前、俺自身が補強した格子。外から押されても破れない。内側からは一秒で外れる。妻が「子供が閉じ込められる家は嫌」と言ったから、そう作った。三年前の妻の一言が、今夜、俺の命を伸ばす。

格子を外す。 窓を押し開ける。

玄関のチャイムは鳴らなかった。 鳴らさない人間が来ているという意味だ。

窓枠に足をかけた瞬間、玄関の鍵が外側から回された。 回している人間は、家の鍵を持っている。 桐谷が三年前、「妻に渡す合鍵を一つ、預かっておく。緊急時のために」と言って受け取った合鍵だ。

窓の外に飛び降りた。 夜の庭土が、右脚の傷を刺し抜いた。 痛みを噛み殺し、塀を越える。

明日は娘の七歳の誕生日だった。 今夜から、娘の七歳を奪った人間の数を、一人ずつ数えにいく。

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