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女帝〈蓮〉——氷室透は二度死ぬ

第1話 第1話

第1話

第1話

濡れた鉄錆と海の匂いが混じる。 コンテナの陰で片膝をつき、息を殺した。腰のベルトに縫い込んだ発信機が、皮膚を焦がすように脈打つ。三年だ。三年、本物の名前を捨てて、ここに辿り着いた。 防水ジャケットの内側を、汗が筋になって流れる。胸の下に貼った録音機材が体温でぬるい。雨音は鉄屋根を叩き、足元の油溜まりに丸い波紋を作っては消す。鼻の奥に貼り付く磯の腐臭が、三年間嗅ぎ続けてきた偽の人生の匂いと重なった。

イヤホンにノイズ。 「ターゲット、黒のセダンで三番埠頭に進入。確保後、即離脱。家まで帰してやる、氷室」 本部の指令官・桐谷の声。乾いた事務調。 家、という言葉に喉の奥が動いた。明日は娘の七歳の誕生日だ。プレゼントは妻が選んだ赤い革靴。底にいちごのマークが入っている。三年潜って家にいられた休暇は四十二日。次の四十二日が、明日から始まるはずだった。妻には約束していた。今度こそ土曜の朝、トーストを焼くと。バターは無塩、焦げ目は薄め。娘はジャムを蜂の巣みたいに塗る癖がある。そういう、どうでもいい記憶が、いま指先の震えを抑える錘になっていた。

ターゲットは武器密売組織〈黒蓮〉の幹部、王哲。今夜こいつの身柄を押さえれば、上海支部との連絡網、来月の積荷ルート、すべてが警察の手に落ちる。 俺は氷室透に戻れる。妻のカレーの匂いに戻れる。

セダンのヘッドライトが雨幕を裂いた。 スライドドアが開く。長身の男が降り立ち、煙草に火を点ける。ライターの炎が、男の頬骨を一瞬だけ赤く染める。間違いなく王だ。 呼吸を二回数えた。安全装置を外す。グリップに伝わる体温。引き金にかけた指先が、雨で冷えていた。心拍が耳の奥で鈍く跳ねる。三年のすべてが、この三秒に収束していくのを感じた。

「氷室、確保許可」 桐谷の声。 俺は影から踏み出した。 「動くな。両手を——」

銃声。 三発、立て続け。 俺の銃は構えただけだ。引いていない。

王の体が後ろに弾かれた。胸、首、腹。三発が縫うように貫く。コンテナの壁に血が散り、ライターが地面で転がって雨に消えた。煙草の先の小さな赤い火が、水たまりの中でじゅっと音を立てて死ぬ。男の口が酸素を求めて二度開閉し、それで終わった。

「桐谷。撃ったのは誰だ」 低く、イヤホンに吐いた。 返答がない。 「桐谷、応答しろ」 ノイズだけが耳を撫でる。

王の遺体に駆け寄る——その瞬間。 胸の真ん中に赤い点が滲んだ。 レーザーサイト。一点。すぐにもう一点。心臓と眉間、二本の光が肋骨を這い上がる。 身を投げてコンテナの裏側に転がり込んだ。 銃弾が金属を叩く。乾いた、高い音。北側のクレーン上、二階建て倉庫の屋上、それからもう一人——耳が三方の射線を割り出す。

頭の中で、何かが冷たく整理された。 標的を撃ったのは俺じゃない。 撃った銃口は、いま俺を狙っている。 本部は黙っている。 答えは一つだ。

嵌められた。

口の中に鉄の味が広がった。奥歯を噛み締めすぎて、頬の内側を切ったらしい。三年だ。三年の潜入で築いた信頼、一秒ずつ積んだ報告書、現場で殺した感情の数。それらが今、別の意味に塗り替えられていく。俺は最初から駒だった。〈黒蓮〉を潰すための駒ではなく、〈黒蓮〉と何かを取引するための、消耗品としての駒だ。

膝の下で雨水が跳ねる。 ベルトの発信機を引き剥がし、コンテナの脇に投げ捨てた。あれは俺の位置を本部に送り続けている。本部が俺を消しに来たのなら、あれは俺の墓標だ。 発信機が水たまりに沈むより早く、二発の銃弾がそこを叩いた。 やはりだ。 無線の周波数も特定されている。GPSも、心拍センサーまで。三年前、自分で同意した装備だった。任務中の身の安全のため——そう説明されて。あのとき桐谷は、書類の角を指でとんとんと叩きながら笑っていた。「君を死なせない仕組みだ」と。同じ仕組みが、今夜は逆向きに作動している。

「氷室、応答しろ」 桐谷の声が戻った。芝居がかった慌てぶり。 「位置を知らせろ。応援を回す」 舌の裏に冷たい唾が湧いた。 「応援はもう来てる。三人」 言い切って、イヤホンを引き抜く。耳に残った沈黙が、三年分の重さで耳鳴りに変わった。

走り出すべきだった。だが俺は、王の遺体の方に這い寄った。 ポケットを探る。煙草、ライター、薄いプリペイド端末。 画面を点けると、未送信のメールが残っていた。宛先は伏せられ、本文は二行。

「氷室の処理、完了次第連絡。妻子は別班が処理済み」

世界の音が落ちた。 雨の音も、自分の呼吸も、遠い。 妻子。処理。済み。 四つの単語が、四方から殴りつけてくる。

明日は娘の七歳の誕生日だった。 妻にはカレーを頼んであった。 それが、もう、ない。

家まで帰してやる、と桐谷は言った。 家がもう焼けているのに。

頬を伝うのが雨なのか涙なのか、自分でも判別できなかった。視界の端で、王の死体の指がぴくりと痙攣して止まる。三年、この男を追ってきた。三年、家族の声を録音した古い音声ファイルだけを支えに眠ってきた。その三年が、たった二行の未送信メールで意味を剥がされた。

胸の奥で、何かが鈍い音を立てて折れた。骨ではない。もっと深い場所にあった、戻るための芯のようなものだ。妻の手の温度、娘の前歯の隙間から漏れる笑い声、玄関に並んだ赤い革靴。明日の朝、土曜の窓から差すはずだった光。それらが順番に、頭の中から退場していく。引き止める言葉が出てこない。喉が動かない。代わりに、奥歯の裏で何かが熱を持ち始めた。怒りという名前ではまだ呼べない、もっと冷たい温度の熱だった。

王の端末を握り潰す。指の腹に液晶のひびが食い込んだ。 頭蓋の内側で、何かが切り替わる音がした。 恐怖と悲しみが、同じ温度の別の何かに変わる。喉の奥が乾く。指先の震えが、止まる。

倉庫の屋上。狙撃手は今、俺がコンテナの裏で凍っていると思っている。妻子の二文字を読まされた人間は動けない——そう設計したのは桐谷自身だ。三年前、潜入訓練で俺に教えた。「家族を持つ捜査官の急所は家族だ。情報を見せた瞬間、三秒間は身体が止まる。その三秒で射線を組み直せ」。教科書の通りだ。教えた本人が、教わった本人を仕留めにかかっている。 なら逆に動く。

左の靴底からナイフを引き抜き、コンテナの留め金にねじ込んだ。鉄が軋む。中身が空のコンテナだ。重量バランスは把握している。蹴り倒せば北側のクレーンの足場を塞ぎ、屋上の射線を一瞬だけ切る。 一瞬で十分だ。

体重を乗せた。 コンテナが嫌な音を立てて傾ぐ。 雨水ごと、北側へ倒れていく。 銃声。四発。コンテナの腹に弾かれて散る。

俺は南へ走った。 海へ。 右の太腿に熱が走った。撃たれていた。気づかなかった。雨と血の境目が分からない。一歩ごとに膝の関節が悲鳴を上げ、靴の中で生暖かいものが溜まっていく。それでも止まれない。止まった瞬間、屋上の二人目が射線を引き直す。 埠頭の縁で足を止め、振り返る。倉庫の屋上で人影が動いた。新しい射線を組み直している。

懐から、ラミネート加工された写真を出した。 潜入のために偽装した家族設定の小道具——だと、桐谷は思っている。 本物だ。全部。 妻のカレー、娘の前歯の隙間、明日の誕生日。全部本物だった。

写真を雨に晒し、海に落とした。 氷室透は、今夜ここで死ぬ。

息を吐き、海に飛び込んだ。

水面の冷たさが胸骨を殴った。 銃声が水中で鈍く響く。海面が銀色に弾けるのが遠くに見える。 潜ったまま、沖の貨物船の側面に取りついた。三年かけて頭に叩き込んだ動線。本部が知らない動線だ。 肺が悲鳴を上げる。右脚の感覚が薄い。だが意識は澄んでいた。塩水が傷口に染みて、痛みが思考を研ぐ。海の暗さの中で、妻の手の温度と娘の笑い声が一度だけ甦り、そして遠くへ沈んでいった。沈ませた。沈ませなければ、ここから先の道は歩けない。

頭の中に残ったのは三つの名前。 桐谷。 王を撃った別班。 そしてこの二つを繋いだ、まだ顔のない誰か。

水面に顔を出す。雨が落ちてくる。 氷室透は埠頭で死んだ。 ここにいるのは、まだ名前のない誰かだ。 貨物船の縄梯子に手をかけた。 明日は娘の七歳の誕生日だった。 明日からは、家族を奪った人間の数を数える日に変える。

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