第3話
第3話
塀の上で、足の裏が滑った。 瓦が一枚剥がれ、夜の庭土に落ちた。俺の右肩に当たって跳ねる。痛みが背中を駆け上がる。声は出さなかった。出した瞬間、リビングの窓越しに四つの影が振り向く。 家の中で、足音が止まった。 玄関から廊下へ。廊下からリビングへ。靴底のゴムが板を踏む音まで読み取れる。三年、こういう足音だけを録音し続けてきた耳だ。 塀の影に体を畳む。塀の表面に、妻が植えた朝顔の枯れた蔓が巻いていた。指がそれに触れる。蔓は乾いて脆く、指の腹で簡単に砕けた。妻が春に新しい種を蒔くつもりで、わざと残していた蔓だ。指を、無理にそこから引き剥がした。
「リビング、確認」 男の声。低い、訓練された発声。 「死体二、回収済み。標的不在」 別の男。無線越しに、桐谷へ報告する声色だ。 息が止まった。 ——回収。 妻と娘の体が、いま、運び出されようとしている。 証拠隠滅だ。明日の朝、家には誰も住んでいなかったことになる。氷室透という名前の家族は、書類上、最初から存在しなかったことになる。 膝が、勝手に家の方へ向きかけた。 止めた。 戻れば、四人と心中する。心中して、桐谷の絵を完成させるだけだ。 俺は妻と娘の死体を、置いていく。 置いていく以外に、二人を弔う方法がない。
奥歯を噛んだ。頬の内側を、また切った。鉄の味が、家の血の匂いと混ざる。 裏路地の軽トラまで、塀を二つ越えた。二つ目の塀の上で右脚が抜けた。地面に落ちて、転がって、起きた。膝の関節が嫌な軋み方をした。骨は折れていない。歩けるなら走れる。三年前、訓練教官の声がそう言った。今夜は、その教官と同じ組織から逃げている。
エンジンをかけずに、サイドブレーキだけ外した。 緩い下り坂。タイヤが鳴らずに転がり出す。三十メートル先の角でクラッチを繋ぎ、エンジンが目を覚ました。バックミラーに、家の方角の街灯が四つ揺れて、それから消えた。 ワイパーが軋んだ。ゴムが劣化している。妻が「そろそろ替えなきゃ」と言ったのは、半年前だ。俺は替えなかった。半年後の自分が、このワイパーで逃げる夜になるとは思わなかった。替える時間はいつでもあると思っていた。「いつでも」という言葉の嘘を、半年後の今夜、ガラスの軋みから知らされる。 信号機の赤で停めた。 ジャケットの内ポケットから、本部支給のスマホを取り出す。GPS、暗号通信、ICレコーダー、すべて詰まっている。三年、これが俺の命綱だった。今夜から、これは俺の墓標になる。
桐谷は、いま、二つの座標を追っているはずだ。 一つは埠頭の発信機。海に沈めた、ベルトの方。 一つは、俺のスマホ。 本部のシステムは単純だ。二つの座標が離れた瞬間、片方を「装備の遺棄」と判断する。逆に、両方を持ったまま海に消えたなら、システムは「対象死亡、装備ごと水没」と読む。 死体が上がるまで、判断は保留される。 保留の四十時間で、俺は別の人間になる。
ハンドルを左に切った。 港湾倉庫地区の北側に、廃船の解体場がある。三年前、潜入準備の段階で下見に行った場所だ。岸壁から二十メートル沖に、半分海中に沈んだ貨物船の鉄屑が浮いている。船底に穴が開き、機関室まで海水が入っている、鉄の棺だ。あれの機関室に、スマホを沈める。鉄壁が電波を減衰させ、信号は「機関室内、停止」を発信し続ける。電池が切れるまで四十時間。四十時間の保留を稼げば、本部は俺の死体を埠頭から拾えない。死体が出ない死亡通知ほど、組織にとって面倒なものはない。書類が止まり、葬儀が止まり、内通者処理の絵筆が止まる。その間に、俺は顔を変える。
軽トラを岸壁の死角に停めた。降りる瞬間、運転席のシートに自分の血が黒い溜まりを残しているのが見えた。エンジンを切らずに、ニュートラルに入れる。アイドリング音が、夜の埠頭に紛れる。 スマホを、潜入装備の防水ジップロックに納める。皮肉だった。三年前、桐谷の手から渡されたやつだ。「水中作戦時の通信維持に」——あの日の桐谷の事務調が、耳の奥でまだ鳴っている。 解体船の腹に、足から滑り込む。海水が腰まで来た。塩が右脚の傷口を噛んだ。視界が一瞬、白く飛ぶ。歯を食い縛って耐えた。腰、胸、首。鉄屑の縁を伝い、機関室の入り口を見つけた。海水と油の膜が、舌の上で混ざった。鉄屑の凹凸が手の甲を裂いた。指先は海水と油でぬめり、感覚が一枚ずつ剥がれていく。 床下、鉄板の隙間にスマホを押し込み、瓦礫で蓋をした。 俺は、自分の墓穴を自分で掘り終えた。
岸壁に這い上がる途中、ジャケットの内ポケットから一つ、鍵を出した。 妻が使っていた、玄関の合鍵。三年前、妻が「あなたの分」と言って、紐を通してくれた銀色の鍵。紐は赤い、娘が結んだ蝶結び。 握り締めた。 掌に、紐の蝶結びの結び目が食い込んだ。娘の小さな指がこの紐を通したのだと、結び目の凹凸が指紋のように告げてくる。鍵の冷たさよりも、結び目の方が熱を持っているように感じた。 握り締めてから、海に投げた。 銀色は、夜の海面で一度光って、沈んだ。 これで、戻る家はなくなった。
時計を見た。二時三十二分。 香港行きの貨物船「海星号」は、第七埠頭、二時四十分出港。 八分。 右脚を引きずり、コンテナの陰を縫った。一歩ごとに、靴の中で生暖かいものが鳴く。検問所の警備は二人。三年、この港の警備シフトを頭に入れてきた。今夜の組は、火曜の夜勤。窓際の若い方が二時三十五分に煙草を吸いに出て、年配の方が二分遅れて出る。三年前、桐谷から「現場の生活時間を全部覚えろ」と言われた。覚えた。覚えた知識が、今夜は桐谷から俺を逃がす方に働いている。 二時三十五分、若い男の煙草の匂いが裏口から流れた。マイルドセブン。妻が嫌っていた銘柄。匂いだけで、妻が眉を寄せる顔が瞼の裏に立った。立てて、すぐに消した。 俺はその陰で、年配の方が出るまでの二分、コンテナの隙間に体を畳んだ。靴の外縁に、自分の血が滲んで黒く広がる。コンテナの鉄壁が背中を冷やしていく。 二時三十七分。年配の方が出た。 詰所の窓に貼られたシフト表を、内側から覗いた。 「海星号」、行き先・香港葵青コンテナターミナル。間違いない。
埠頭に滑り込んだ。 「海星号」のコンテナが、クレーンに吊られて積み込まれている途中だった。冷凍コンテナのうち、扉のタグに「葵青」と印字されたものを選ぶ。封印は仮締め。本締めは出港五分前。 タグを切った。 扉を開ける。 凍ったマグロの匂いが、顔に被さった。マイナス十八度。 鼻の奥で、血と魚と氷の匂いが同じ温度に揃い、境目が消えていく。 中に滑り込み、扉を内側から押さえた。閉まる瞬間、外のクレーンの黄色いランプが、扉の隙間で一度だけ光って消えた。
凍った魚体と氷の塊に挟まれて、体温が秒単位で奪われていく。右脚の血が、内股で凍り始めた。濡れたジャケットを脱ぎ、上半身に巻き直す。震えが来る前に、呼吸を浅く整えた。冷気が肺の奥で霜に変わる。一呼吸ごとに、俺の中の熱が、コンテナの中の魚と同じ温度に近づいていく。 四十時間。 意識が薄れたら終わりだ。低体温は眠気の顔をして来る。腿のベルトを外し、傷口の上を強く締めた。痛みが視界を覚醒させる。痛みは、生きるための時計だ。 妻の指が、いつかの夜に傷口を消毒してくれた感触が、ふいに蘇った。台所の蛍光灯の下で「動かないで」と低く言った声。今夜、その声を上書きするのは、ベルトの革が血で軋む音だけだ。 肺の中の空気が、白く凍って胸の奥に溜まっていく。
クレーンの鉤が、コンテナの天井をがちゃりと噛んだ。 持ち上げられる。降ろされる。また持ち上げられ、船倉の底に積まれていく感触。鉤の振動でコンテナが二度揺れる。揺れの中で、隣のコンテナの角が壁越しに当たった。鉄が鉄を叩く乾いた音が、肋骨にまで届く。 低い汽笛が一度、鉄壁ごしに体を貫いた。 出港の合図だ。 鉄壁の向こうで、海星号が動き始める。エンジンの低周波が、骨を通じて伝わってきた。
俺は、コンテナの中で声を出さずに笑った。 笑い方を、忘れかけていた。 氷室透は、解体船の機関室で水死した。 これから香港の岸に降り立つのは、まだ名前のない、別の何かだ。
肩を震わせながら、ジャケットの内ポケットを探った。 指先が、ラミネートの身分証に触れた。「内通容疑により抹消」——印字された一行を、暗闇の中で指の腹で読んだ。 妻の頬の温度を、指がまだ覚えていた。 娘の前歯の隙間が、瞼の裏で笑った。 赤い革靴の、いちごのマーク。 明日の朝、桜が満開になる。
桐谷。 王を撃った別班。 そして、桐谷の上の、まだ顔のない誰か。 三つの輪郭を、凍る息と一緒に、胸の奥に押し込めた。この三つに、必ず名前と顔をつける。 航路は南。香港まで、四十時間。 俺は目を閉じた。 眠るためではない。 氷室透という名前を、最後に一度だけ、喉の奥で呼ぶためだった。 呼んで、捨てた。