第3話
第3話
壁を、なぞる音が、止まった。 止まって、しばらく、何も、なかった。ライトの芯が、また一段、細くなっていた。光の届く円が、さっきは靴の先の五十センチ先まであったのに、今は、足首のあたりで止まっていた。止まっているのか、俺の目のほうが、もう、そこから先を見たくない、と拒んでいるのか、わからなかった。 俺は、息を、止めていた。止めているのに、口のなかで、唾が、勝手に、ひと呑み、落ちた。落ちた音が、喉の奥で、こくり、と、やけにはっきりと鳴った。 棚の奥から、ひと呼吸分の静けさを挟んで、ふ、と、床の埃がまた、内側から沈んだ。四歩めの埃が、へこんで、そのへこみが、ちいさく、俺の方へ、ひと文字分、ずれた。 俺は、倉庫の扉の方へ、半歩、後ろに下がった。 半歩下がって、もう半歩、下がった。二歩めの靴底が、コンクリートの湿りを、べり、と剥がした。その音だけで、倉庫の空気が、ぐらり、と揺れた気がした。 ライトを、棚の奥に、向け続けたまま、俺は、背中だけで扉を探した。背中にあたる鉄の縁が、さっきより、冷たかった。冷たさが、背骨の一本一本を、上から下へ、数えるようになぞっていった。首筋に、鳥肌が、一列、立った。立ったまま、収まらなかった。 扉の外側まで、どうにか、後ずさりで出た。出てから、初めて、息を、吸った。 吸い込んだ空気のなかに、まだ、焦げた砂糖の匂いが、残っていた。残っているどころではなかった。倉庫にいたときよりも、階段の方が、濃かった。上の方から、もう一度、押し下ろされるように、匂いが、落ちてきていた。 俺は、階段を、駆け上がった。 駆け上がる、という言葉に、足が、追いつかなかった。二段目で、ふくらはぎが、勝手にもつれた。三段目で、右のつま先が、段の縁をこすった。転ばなかったのは、手摺りに縋りついたからで、縋った手摺りの錆が、掌の皮を、ひと皮、持っていった。ひりつく痛みが、ようやく、俺を、俺の体のなかに引き戻した。痛い、と思えたことが、なぜか、救いだった。
廊下の、非常灯の赤が、見えた。 赤、のはずが、ほんの少し、色が、濃くなっていた。血のほうへ、ひと滴、傾いた赤だった。廊下の天井の、蛍光灯の残骸が、割れた破片を垂らしたまま、じ、じ、と、気配だけで鳴っているようだった。音はしていなかった。していなかったのに、耳が、鳴っていると、誤認した。 俺は、廊下を、幹線道路側へ、走ろうとした。走ろうとして、三歩めで、足が、止まった。 廊下の、いちばん奥。俺が駆け上がってきた方向から見て、反対側の、突き当たり。 誰か、立っていた。 俺より、ずっと、小さかった。 背を、こちらへ、向けていた。 肩までの黒い髪が、濡れたように、まっすぐ、背中の真ん中で、止まっていた。肩甲骨の浮き方が、子供の、痩せた、肩甲骨だった。さっき、倉庫の壁の「たすけて」をなぞったときに、俺の脳裏に勝手に浮かんだ、あの背中と、同じ、浮き方だった。 白い、長い寝間着のようなものを着ていた。裾の下から、ふくらはぎの細い線が、半分だけ見えていた。靴は、履いていなかった。裸足の、踵が、こちらを向いていた。踵の、内側の皮膚は、白かったが、外側の縁だけが、黒く、汚れていた。埃なのか、泥なのか、それとも、もっと違うものなのか、ライトの光では、見分けが、つかなかった。 つかないまま、俺は、それを、見てしまった。 見てしまったら、もう、廊下の奥から、目を、離せなくなった。 少女は、動かなかった。呼吸も、していないように見えた。髪の一筋さえ、揺れなかった。こちらが見ていることには、気づいているはずなのに、振り向かなかった。振り向かないまま、ただ、そこに、立っていた。 ──これは、人じゃ、ない。 そう、わかった。 わかったのに、足は、動かなかった。動かなかった理由は、たぶん、怖かったからではなかった。少女の背中の、肩甲骨の上下が、呼吸に合わせてではなく、もっと別のリズムで、ゆっくり、ゆっくり、上がっては、下がっていたからだった。そのリズムが、倉庫の奥で、壁を彫っていた、ひと掻き、ひと掻き、の間隔と、同じだったからだった。
少女が、口を、開いた。 開いた、というより、口の輪郭が、ほんの数ミリ、動いた。顔は、見えない。見えないのに、口が動いたのが、わかった。わかってしまったことが、たぶん、いちばん、だめだった。 「──あの人たち、まだ、上に、いるよ」 声は、俺の耳のなかで鳴った。廊下の向こうから届いたのではなかった。俺の、右の耳の、鼓膜の内側に、ちいさな唇が、直接、当てられて、そこから、囁かれた。耳の穴の、奥のほうで、湿った吐息が、ひと筋、通った。耳たぶが、内側から、じわりと、熱くなった。熱かったのは、一瞬だった。一瞬のあとで、そこが、他のどこよりも、冷たくなった。 少女は、まだ、廊下の奥に、立っていた。 囁いたのに、立っていた。囁きと、立ち姿のあいだの距離が、合っていなかった。合わないまま、俺の脳のなかだけで、つじつまが、強引に、合わされようとしていた。合わせるな、と、頭のどこかが叫んだ。合わせてしまったら、俺は、これを、現実として受け入れることになる。 受け入れられるか、と、俺は、自分に、問うた。 問うた、その答えが、出るより先に。
上の階から、悲鳴が、落ちてきた。
一度目は、誰のものか、わからなかった。男だ、と、最初に思った。けれど、次の瞬間、それは、女の声の、いちばん高いところだけを、誰かが、ちぎり取ったような、歪み方をしていた。声の真ん中が、抜けていた。真ん中が抜けた声は、悲鳴ではなく、悲鳴だったものの、残骸のようだった。 二度目。今度は、はっきり、男の声だった。「うわっ」とも、「ひっ」ともつかない、喉の奥から、押し出されかけて、途中で、何かに、塞がれたような声。塞いだのは、たぶん、その男自身の、手だった。手で、口を、塞いだのに、塞ぎきれなかった、その、滲み、だった。 三度目。 三度目が、来なかった。 来るはずだった。来るべきだった。二度鳴れば、三度鳴る。人間の恐怖は、ひと塊で、鳴る。それなのに、廊下のうえでは、三度目の悲鳴が、来なかった。代わりに、何かが、床を、ずる、と引きずる音がした。機材の、キャスターではなかった。キャスターは、ころころと鳴る。ずる、というのは、輪のないものが、床と直接こすれる音だった。 俺は、階上に、人数を、数えなおしていた。 リーダー格の男。カメラマンの男。女が、二人。配信補助の、後ろで笑っていた、もう一人の男。 ──五人。 五人、連れられてきた。 ──いや。 俺は、凍った。 車を降りたとき、機材バンの後部から、キャリーケースを引き出していた男が、もう、ひとり、いた。顔を、覚えていない。名前を、呼ばれていない。背景のなかに、いた男。俺と、同じ。画面の、端に、映って、誰にも、気づかれない役。 ──六人、いた。 六人で、入ったのに。 いま、上で、悲鳴を、上げているのは。 数が、足りない。 悲鳴の、数が、ひとつ、足りない。
廊下の奥の、少女の背中が、ほんの、ひと揺れ、した。 揺れたのではなかった。呼吸のない背中が、ひと呼吸ぶん、俺の方へ、近づいた。裸足の踵が、コンクリートの床から、ほんの一センチ、浮いて、そしてまた、戻った。戻ったとき、足跡は、残らなかった。 少女は、振り向かなかった。 振り向かないまま、もう一度、俺の耳の内側で、囁いた。 「──ねえ、おにいちゃん。まだ、上に、いるよ。……足りない、ひとりも」 「足りない、ひとり」。 その言葉の、「足りない」の、「り」の発音の終わり方が、さっき倉庫の奥で聞いた、細い呼吸の、ひゅ、と切れる切れ目と、まったく、同じだった。 廊下の天井の、割れた蛍光灯の残骸が、一度だけ、ぱっ、と、白く、点いた。 点いた光のなかで、廊下の奥の少女の立ち位置が、半歩、俺のほうに、詰まっていた。 それなのに、俺の目は、その半歩を、見ていなかった。 上から、ずる、と引きずられる音が、階段の手前まで、近づいてきていた。 引きずられているのは、機材ではなかった。 機材ではない、何か、だった。