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視える俺は、置き去りにされた夜に

第2話 第2話

第2話

第2話

ライトが、ちかちか、と点滅して、三度目の明滅のあとに、ひとつ下の段まで光が戻った。戻った、と言っていいのかはわからなかった。光の芯が、さっきより一段細くなっていた。電池のせいだと思いたかった。思いたいと願うことと、そうであることは、別だ。 俺は、その細い光を頼りに、階段を一段降りた。踵に伝わるコンクリートの震えが、直前の一段よりも、わずかに湿っていた。染み出した水が、段の奥から手前へ、ゆっくりと広がっているのが、光の縁でわかる。湿りの先端が、俺の靴のほうに、じわり、と近づいてきているように見えた。見えている、というよりは、そう感じた、のほうが正しかった。靴底のゴムが、湿気を吸って、踏み込むたびに、きゅ、きゅ、と、ちいさく鳴った。鳴らないでくれ、と思ったが、鳴った。鳴ってしまうたび、俺の存在が、この階段に、ひと筋ずつ、書き込まれていく気がした。 手摺りの錆が、掌にこびりつく。握っている指に、力が入りすぎていて、第二関節が白い。白いのに、冷たい。血が、先のほうで止まっている感覚があった。指を緩めようとしたのに、緩まなかった。緩めたら、足のほうから、力が抜けてしまいそうだった。錆の粉が、掌の皺に入り込んで、汗と混ざって、赤茶けた泥のように、てらてらと光っていた。 二段目。三段目。甘い匂いが、肩のあたりまで上がってきた。饅頭と線香と、それから古い石鹸。古い石鹸、と思った瞬間、なぜか、祖母の家の風呂場を思い出した。タイルの目地が黒ずんで、木の椅子の裏側にぬるつきが残っていた、あの風呂場。そんな場所とこの階段が、鼻の奥でつながってしまったことが、俺は、どうしようもなく嫌だった。嫌だったのに、思い出は、勝手に膨らんでいった。風呂場の窓から差していた、夕方のオレンジ色の光。蛇口を捻ったときの、最初のひと吹きの、錆の臭い。祖母の、痩せた指が、俺の頭にお湯をかける、その指の節くれだち。なぜ今、こんなものを思い出すのか。思い出してしまったら、もう、戻れない気がした。 ライトの光が、四段目の手前で、ふっ、と一度沈んだ。沈んで、また戻った。戻ったとき、下のほうで、何か、ぴちゃ、と水の跳ねる音がした。 誰か、いるのか。 ──いるわけがない。 そう思ったすぐ下の階で、もう一度、ぴちゃ、と音がした。

倉庫の扉は、開いていた。 鉄の扉が、ちょうど人ひとり分、斜めに口を開けて、その奥に黒い空気を溜めていた。閉めるだけの意志を持った人間が、ここに最後に立ったのは、いつなのか。蝶番は赤茶けていて、扉の端に、爪で引っかいたような縦の筋が、いくつも走っていた。筋の深さは、上から下へ、ばらばらだった。深く彫り込まれたものもあれば、表面を撫でただけのような、頼りない線もあった。頼りない線のほうが、なぜか、見ていて、つらかった。 足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。 廊下より、息が、重い。 喉の奥に、湿った布を一枚、押し当てられたような感覚があった。吸っても、吸っても、肺の底まで届かない。届く前に、何かに、吸い取られているような気がした。 ライトを回すと、光の帯の中を、埃が雪のように、上から下へ、ゆっくりと降りていった。風はないはずだった。それなのに、埃は、降りていた。降りきらずに、空中で一瞬だけ止まり、俺の顔のほうへ、ほんの数センチ、ずれて近寄ってくるものもあった。鼻先をかすめたひと粒が、唇に張りついた。舌で払おうとして、払えなかった。払う前に、別のひと粒が、まつ毛の先に、降りた。 倉庫の奥には、スチールの棚が三列、背中合わせに並んでいた。段ボール箱は、もう箱の形を失っていて、底が抜けて、中身の古い雑誌や、錆びた缶や、名前のわからない子供のおもちゃが、床にこぼれていた。ウサギの顔をした、プラスチックの水筒。片方だけの、赤いビーチサンダル。ビーチサンダルのストラップに、小さな歯の跡のような、半月のくぼみがあった。くぼみの縁に、黒ずんだ何かが、ほんのわずかに、詰まっていた。 俺は、光を、そのサンダルから、すぐに逸らした。 逸らした先の壁に、黒い染みがあった。背の高さで、滲んでいた。 ──なんの染みだ、これ。 問いは、口には出さなかった。出してしまうと、この倉庫のなかの誰かが、答えてしまう気がした。 そう思ったときだった。 息の音が、した。 棚の、いちばん奥。 ライトの光が、ぎりぎり届かない、黒くて四角い隙間のあたりで、ふっ、ふっ、と、短い呼吸をする音が、聞こえた。 俺の呼吸ではなかった。俺は、息を、とめていた。とめていたはずなのに、それでも、音はあった。吸って、吐く。吸って、吐く。小さな鼻から、ゆっくり、うすい空気を出し入れしているような、細い呼吸だった。 気のせいだ、と、頭の中の冷静な部分が言った。 気のせいじゃない、と、喉の奥が、ひりつくように言い返した。 呼吸は、続いていた。一拍。二拍。三拍。いつやむか、と俺が数え始めたことに、向こうも気づいたように、一度だけ、ひゅ、と息の切れ目が入った。切れ目のあと、さっきより、ほんの少し、大きな吸い込みがあった。吸い込みの底で、舌の根が鳴るような、かすかな、ねっとりとした音が、確かに、あった。

俺は、後ろに下がろうとして、壁に背中をぶつけた。 背中に触れた壁が、冷たかった。冷たいだけではなかった。ざらついていた。 ざらつき、というには、規則的すぎた。指を這わせると、それは、引っ掻き傷だった。 ライトを、ゆっくりと背中のほうに向けた。 向けて、息を、のんだ。 壁一面に、無数の、細い線が、彫られていた。 それは、何度も何度も、同じ場所を、同じ向きに、爪か、スプーンか、何か先の細いもので、削って、削って、削り込んだ痕だった。線は、一本ではなかった。四本、五本、ひと塊になって、一つの文字を形づくっていた。文字。たすけて、と、読めた。 その下に、もうひとつ。たすけて。 その下に、もうひとつ。たすけて。 右へ、左へ、上へ、下へ。光を動かすたびに、新しい「たすけて」が浮かび上がってきた。ひとつひとつの高さが、ばらばらだった。大人の背よりも高いところにも、しゃがまなければ触れられないほどの低いところにも、同じ文字が、同じ筆跡で、震えながら刻まれていた。 同じ、筆跡で。 俺は、声を出しそうになって、口を、手で塞いだ。塞いだ手のひらに、自分の唇の震えが、ぬるく伝わってきた。歯の根が、勝手に、こつ、こつ、と鳴った。鳴る音を、止められなかった。止めようとすればするほど、奥歯が、互いを探すように、強く、ぶつかった。 俺の指が、そのうちの一文字の、「す」の結びの丸い部分をなぞったとき、指先に、かすかな湿りを感じた。ずっと前に刻まれたものではないような気がした。ずっと前に刻まれて、それでも、まだ、湿っているような気がした。湿りは、指の腹に、ほんのわずかに、移った。指を引いて、ライトに当ててみた。指の腹に、薄い、赤いものが、にじんでいた。錆だ、と、自分に言い聞かせた。錆だ。錆以外の、何だと言うんだ。 ──この人は、いつまで、これを、彫っていたんだろう。 そう思った俺の脳裏に、なぜか、映像が走った。暗闇のなか、膝を抱えて、壁に背を向けて、爪の先を一本ずつ削りながら、同じ字を彫り続ける、小さな背中。顔は見えなかった。顔は、壁のほうを、向いていた。背中の、肩甲骨の浮き方が、子供のものだった。子供の、痩せた、肩甲骨。その肩が、彫るたびに、ひとつ、ひとつ、上下していた。 棚の奥の呼吸が、ひとつ、ゆっくりと、長く吐かれた。 吐き終えたとき、ライトの光が、また、ちかちか、と揺れた。

揺れた光の縁で、倉庫の床の埃に、新しい足跡が、ひと筋、浮かんで、消えた。 俺の足跡ではなかった。俺よりも、ずっと、小さかった。 足跡は、棚の奥のほうから、こちらへ、向かって、ついていた。一歩、二歩、三歩。三歩めの輪郭だけが、まだ消えずに、ライトの光の中に、残っていた。残っているうちに、四歩めの埃が、ふっ、と、内側から、へこんだ。 棚の、奥。 闇のなかから、今度は、呼吸ではない音が、届いた。 細い指が、壁を、ゆっくりと、なぞる音だった。 たすけて、の、「て」の、最後の一画を、今まさに、彫っているような、乾いた、きしむ音だった。

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