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視える俺は、置き去りにされた夜に

第1話 第1話

第1話

第1話

鍵が、外から回された。

乾いた金属音が鉄扉の向こうで二度鳴って、それから廊下に遠ざかる笑い声が続いた。誰かのスマホのライトが、閉まりかけの扉の隙間で一瞬だけ白く揺れた。俺はその白を、眼底に焼き付けるように見ていた。 「ちょ、鍵かけんなって、冗談だろ」 自分の声が、コンクリートの壁に吸われて死んだ。返事はなかった。代わりに、踊り場の方から「ウケる」という誰かの声と、機材用のキャスターがガラガラと転がる音が聞こえた。それが、階段を上に向かって遠ざかっていく。 もう一度、鍵、と呼んだ。声が震えた。その震えを自分の耳で聞いてしまって、俺は余計に情けなくなった。扉の向こうで誰かが笑った気がしたが、気のせいかもしれなかった。 俺は、鉄扉のノブに手を置いたまま、しばらく動かなかった。指先に、錆の匂いが移っていた。握りしめた掌が冷たい汗で濡れていて、それが鉄の温度と混ざって、どちらが自分の体温かわからなくなっていた。

廃団地、四号棟。築五十年、取り壊し待ちで十年放置されたコンクリートの箱。窓は板で塞がれ、非常灯だけが申し訳程度に赤く点いている。昼間の下見のときは、こんなに赤くはなかったはずだ。 昼間は、板の隙間から差し込む光のせいで、廊下はもっと白っぽくて、埃だけが主役だった。今はその埃までもが、赤く染まって死んだみたいに浮いている。空気が重い。肺の底に、ざらりとした粉が沈殿していくような重さだった。 スマホを取り出す。電波のアンテナは、一本も立っていない。 「……嘘だろ」 Wi-Fi自動接続のアイコンが、見つからないまま弱々しく回り続けていた。画面の時計は、午前一時十三分。 俺の息が、白くなった。四月のはずだった。 桜が散り切ったばかりの、生ぬるい夜だったはずだ。上着を脱いで助手席に放った記憶がある。それなのに、この廊下は、肺の内側から霜が下りるように冷たかった。首の後ろから、鎖骨の下まで、薄い膜を貼られていくような冷え方だった。

だいたい、こうなるのはわかっていたのだ。 配信者、と名乗るあいつらは、登録者が三万人いるらしかった。大学のサークルのOBだという上級生に「面白い奴連れてこい」と言われて、俺はその「面白い奴」ではなく、「画面に映っていても誰も違和感を持たない奴」として呼ばれた。賑やかしですらない。背景だ。人数合わせですらなく、心霊ロケの、画面の隅で怯えて見える人影。 大学でも職場でも、俺はだいたいこの役だった。ゼミの飲み会で皿の数が合わなくて、俺の分だけ来ない。バイト先のシフトが一人分ぶん抜けていて、店長が「あれ、今日お前いたっけ」と笑う。いても、いなくても、同じ。それに慣れてしまったから、今夜の誘いも「ああ、そうか」と思っただけだった。 断る理由を探すほうが、疲れる。嫌だと言うには、俺は、相手の中で、嫌がる権利すら持たされていなかった。断れる人間というのは、相手の想像のなかで「いる」人間のことだ。想像のなかで薄い人間は、断ることすら、相手に届かない。 置き去りにされる予感は、車を降りたときからあった。だから鉄扉の音にも、実は、そんなに驚いていなかった。 驚かなかった自分に、驚いた。そちらのほうが、よほど怖かった。

ただ、一つだけ計算外があった。 出口は、この鉄扉だけではなかった。

廊下の奥に、地下へ降りる階段があるはずだ。下見のときに見た。緑のペンキが剥げたガイド表示と、錆びた手摺り。非常灯の赤が、そこだけぽつんと途切れて、黒くなっていた。たしか下には、倉庫と、裏口に通じる通用口がある。そちらから出れば、塀を乗り越えて、幹線道路に出られる。 幹線道路に出さえすれば、深夜でもトラックは走っている。手を振れば、誰かは止まってくれるはずだ。そこまで、たぶん五分。走れば三分。大丈夫だ、大丈夫だ、と俺は声に出さずに自分に言い聞かせた。言い聞かせる、という行為そのものが、すでに大丈夫ではない人間の所作であることには、気づかないふりをした。 俺はライトを点けて、歩き出した。 足音が、やけに大きかった。 スニーカーの底が、コンクリートに張りついた湿気を剥がしながら進む。一歩ごとに、ぴちゃ、という音が、足裏と床のあいだで小さく鳴った。その音が、壁にぶつかって、何拍か遅れて自分のほうに返ってくる。返ってきた音が、もう一人分の足音に聞こえる瞬間があって、俺は何度か振り返りそうになった。振り返らなかった。振り返ってしまったら、たぶん、もう前に進めない。

廊下の床は、昔の子供が描いたらしい白墨の跡が、雨水の染みと混ざって奇妙な模様になっていた。ケンケンパ、と書いてあるようにも見えたし、違うようにも見えた。ライトを向けると、乾いた虫の殻が光を反射した。 蛾か、蜂か、もはや判別のつかない翅が、風もないのに、ふ、と一枚だけ、床の上で起き上がるように裏返った。その動きを、俺は見なかったことにした。見なかったことにしたものは、見なかったことになる。そうやって今日まで、いろんなものを処理してきた。 俺は、さっきのあいつらの顔を思い出していた。 カメラマンの男の、白い歯。女二人の、ピンクに塗った唇。リーダー格の男が俺を振り向いたときの、こちらを見ていない目。あの目が、一番嫌だった。こちらを見て、こちらを見ていない目。「居ても、居なくても同じ」を、ずっと浴びせられてきた目。 写真に撮られるとき、シャッターの瞬間に一歩下がってしまう癖が、俺にはあった。そうすると、ピントが後ろの景色に合って、俺だけが少しだけボケる。ボケていれば、「いなくてもよかった」ことが、後から言い訳できる気がした。自分からボケに行く人間が、真ん中に映れるはずもないのに、そういう仕方でしか、俺は自分を守る方法を知らなかった。

階段の前で、足が止まった。 暗い。 想像していたより、ずっと暗い。非常灯の赤が届かない。下から、何かの匂いが上ってきていた。

湿った鉄の匂いに混じって、焦げた砂糖のような、甘い匂いがした。

──なんだ、これ。 口の中に、いやな唾がたまった。昔、祖母の家の仏壇で線香を焚きすぎて、蝋燭の蝋が溶けて、饅頭の砂糖が焦げた日の匂い。あれに似ている。けれど、もっと古くて、もっと内臓に近い。鼻の奥ではなく、喉の奥に、じかに張りつく匂いだった。 呼吸をするたび、その匂いが舌の裏側に溜まっていく気がして、俺は口を閉じた。閉じても、だめだった。鼻腔から、頬骨の裏を伝って、こめかみの奥まで、匂いは染みてきた。肌の表面ではなく、頭蓋の内側の空洞を、ひたひたと満たしていく感じ。吐き気と、なぜか懐かしさが、同時に込み上げた。懐かしい、と思った自分が、一番ぞっとした。 ライトで下を照らす。光が、途中で薄まって消える。階段は、三段目から先が見えなかった。 光が、呑まれる、という言葉が浮かんだ。闇が光を吸うのではなく、闇のほうが、口をあけて、光を啜っている。そんな暗さだった。家の夜の闇とも、山の闇とも違う。何か、生きているものの内側に似た闇だった。 俺は、手摺りに触れた。 氷のように、冷たかった。 指先が、触れた瞬間に張りつく。離そうとすると、ほんの一瞬、皮膚が手摺りに引っかかる感覚があった。凍った鉄にうっかり触れたときの、あの感触だった。四月の夜に、あるはずのない感触だった。

そのときだった。 上で、鉄扉の錠が、もう一度、回った。

ガチャ、ガチャリ、と二回。 今度は、さっきよりもゆっくりと、確かめるように。 俺は振り向いた。廊下の奥、非常灯の赤い光の底で、閉じられた鉄扉が、静かに揺れていた。外にいる誰かが、ノブを握って、こちら側の施錠を、わざと確かめている。 ──戻ってきたのか。 一瞬、そう思った。あいつらが、冗談だったと言って、笑いながら開けてくれる。 「お前の反応、最高だったわ」とリーダー格が言って、カメラマンの男が撮れ高を確認しながら笑う。女のどちらかが、悪びれずに俺の肩を叩く。そういう絵が、一瞬だけ、頭の中に浮かんだ。そして、その絵のなかの俺が、たぶん、少しだけ笑っているのも見えた。 思った瞬間、自分が情けなくなった。 そんなことを、まだ期待しているのか。

鉄扉の向こうで、足音は、しなかった。 ただ、ノブだけが、もう一度、回った。 内側から鍵はかけていない。かけられない。内側には鍵穴すらない。それなのに、ノブは、回った先で、ごとん、と重たい音を立てて止まった。外から、何かが、ストッパーを噛ませた音だった。 扉の隙間の白が、消えた。

俺は、階段の方へ、一歩、後ずさった。 手摺りを握った指が、自分のものとは思えないくらい硬かった。 甘い匂いが、さらに強くなった。下から、押し上げられるように。下から、何かが、俺に向かって、息を吐きかけているような匂いだった。饅頭と線香と、それから、もうひとつ、思い出したくないものの匂いが混じっていた。思い出したくない、と思ったのに、舌の奥が勝手にそれを「知っている」と答えた。知っているものに向かって、俺はいま、背中を向けて後ずさっている。 階段の闇の、もっと奥で、何かが、小さく、息を、吸った。

ライトが、ちかちか、と点滅した。

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