第2話
第2話
襖の桟を握った掌に、脂汗が滲んでいた。
一息に引き開けた廊下には、ただ黒い空気が詰まっているだけだった。畳の目を擦るような音も、湿った気配も、嘘のように消えている。六畳間から漏れる裸電球の光が、廊下の板を三尺だけ黄色く切り取って、その先は何も見えない。仏間の襖は閉まったままで、けれど、隙間の下の暗がりだけが、呼吸のために膨らんだり萎んだりしているように見えた。
俺は立ち上がれなかった。
膝に力が入らず、布団の上に座ったまま、ただ廊下の奥を睨んでいた。スマホの時計は、午前三時十三分を示している。さっき見たときから、一分しか経っていない。たった一分のあいだに、俺は一生分の冷や汗を絞り出していた。
襖を閉めるために腕を伸ばす。その腕が、自分のものじゃないみたいに重い。指先で桟を引くと、木と木の擦れる音が廊下の奥へ転がっていき、一呼吸おいて、戻ってこなかった。反響が、どこかで吸い込まれている。
電気は点けたまま、布団の上に胡坐をかいた。背中を壁につけ、スマホの画面を凝視しつづける。画面の向こうの現実——昨日まで俺が泥を吐きながら生きていた、借金と弁当屋と雨漏りのアパートの現実——にしがみつくように、俺はコンビニのレシートを財布から出して皺をのばし、並んだ数字を口のなかで読み上げた。稲荷寿司二百八十円、緑茶百二十円。何度も、何度も、そう読んだ。
夜が明けたのは、嘘みたいな普通の速度だった。
障子の向こうが薄青く滲みはじめ、鴨の鳴き声が山の方から降ってくる。雀の羽音。どこかのトタン屋根を叩く朝露の粒。世界が勝手に動き出したことが、にわかには信じられなかった。夜のあいだ、この家のなかで起きていた何もかもが、日の光で丁寧に塗りつぶされていく。俺はようやく息を吐き、それから、自分の膝が笑っていることに気づいた。
顔を洗うために台所に立って、最初に目が行ったのは裏庭の蔵だった。
磨りガラスの窓ごしに、黒い輪郭が杉の陰からぬっと突き出している。昨日見たときよりも、もう一回り、家に近づいているような気がした。気のせいだ、と口のなかで呟く。家は動かない。蔵も、動かない。当たり前のことが、当たり前でなくなっている。
長靴を借りて、俺は庭に出た。
三月の朝の土は、霜が解けきらずに柔らかい。杉の根方を抜け、下草の枯れた更地をまたぐ。蔵の前に立つと、改めて、その扉のつくりが奇妙なことに気づいた。観音開きの鉄扉。その合わせ目に、上から順に三つの錠前。一番上は江戸期の和錠のような造りで、古錆で固まり、もはや鍵を差し込めそうもない。真ん中は昭和の丸鍵錠。一番下には、真新しい黒い南京錠が、細い針金で無理やり巻きつけられていた。三つの時代が、ひとつの扉の上で重なっている。まるで、代々の誰かが、ここを開けさせまいとして、錠を継ぎ足してきたみたいに。
扉の縁に、指を這わせた。
鉄の冷たさが、指紋の谷に染み込んでくる。昨夜の布団の縁を掴んだ指の記憶が、ふっと蘇った。俺は慌てて手を引いた。蔵の四隅には、塩の小山だったらしい痕が、雨に溶けて灰色のしみになっていた。榊の枯れた束も、根方に転がっている。誰かが、ごく最近まで、ここで祀っていた。
家のなかへ戻り、祖父の遺品を片端から引きずり出した。
仏壇の下の引き出しには、古い預金通帳と、黄ばんだ年金手帳。茶箪笥の奥には、ほどけかけた数珠と、セピア色の軍隊手帳。押入れの天袋からは、昭和二十年代の焼き印が残る木箱が落ちてきて、中身をぶちまけた。祖父の若い頃の写真が、何枚か、畳の上に散らばる。背広姿、工場前、神社の鳥居の前。どの写真でも、祖父は無表情でこちらを見ていなかった。視線の先に、俺の知らない何かがあって、それを見ないよう、注意深く顔を背けているふうにも見えた。
鍵は、出てこなかった。
和簞笥の一番下、畳紙に包まれた祖母の単衣の奥に、ようやく鍵束が一つ転がっていた。錆びた真鍮の、小さな鍵が七本。嬉しさよりも先に、指が重くなる。勝手口。玄関。裏木戸。蔵。一本ずつ眺めていくうちに、全部が、家の建具のものだとわかった。蔵の錠に合いそうな形は、一本もない。
冷えた麦茶を立ったまま飲んで、俺は茶の間の畳に胡坐をかいた。
鍵がない、ということは、祖父は最期まで、蔵を開けさせなかった、ということだ。開けさせなかった、のか。開けられなかった、のか。老人の「絶対に、開けるなよ」が、掠れた声で耳の内側を撫でていく。関わるな、と言った口の、唇のひび割れまで鮮明に思い出せた。
それでも——と、俺は茶碗の縁を握る。
三百二十万を背負った人間に、関わらない、という選択肢はない。この家は担保だ。売るにせよ、住み潰すにせよ、蔵の中身がわからないまま手放すことはできない。古い骨董のひとつも出てくれば、俺の人生は、今日この瞬間に、少しだけ延命される。
午後二時、俺はもう一度、蔵の前に立っていた。
手には、家のなかから掻き集めてきた道具を入れた買い物袋。マイナスドライバー、プライヤー、五寸釘、ライター。鍵が見つからないなら、一番下の南京錠だけでも、なんとかできないかと思った。壊すわけじゃない。針金を外すだけだ、と自分に言い訳する。
しゃがみこんで、南京錠に針金を掛けた根元を覗きこむ。黒い南京錠は、想像より新しい。五年と経っていない品に見えた。ということは、祖父は晩年——九十を過ぎた体で——この扉に、新しい錠をもう一つ、わざわざ足した、ということになる。
なぜ。
疑問が喉の奥で固まったとき、背中の毛穴が、一斉にひらいた。
蔵のなかから、声が、した。
声、としか言いようがなかった。鉄扉を隔てた向こう側、三つの錠のうち真ん中の、丸鍵錠の、鍵穴の、向こう——。
くす、と。
子どもの、含み笑いだった。
女の子の、たぶん小さな子の、口を両手で押さえて、肩をふるわせるような笑い。ごく短い一息。たった一度きり。それが、鍵穴の直径ほどの隙間から、温度のある息と一緒に、ふっ、と吹き出してきた。頬に、その息の湿り気がかかった、気がした。鼻の奥で、甘ったるい、子どもの唾液のような匂いが、ほんの一瞬、ひらいて消えた。
俺は尻餅をついた。
ドライバーが土の上に跳ねる。プライヤーが、その上に重なって鈍い音を立てる。心臓が喉まで上がってきて、胸骨を内側から叩いていた。呼吸が、喘ぐみたいに浅い。ジーンズの膝の部分が、湿った土の色に染まる。その染みが、仏間の鴨居の染みと、まったく同じ形をしている気がして、俺は膝を引き寄せた。
鍵穴から、もう、音はしない。
けれど、鉄の扉の向こうで、誰かが、口に手を当てたまま、こちらの様子を窺っている気配だけが、はっきりと残っていた。笑いを噛み殺すために、奥歯を噛んでいる。そういう種類の気配だった。誰かに見つかってはいけない遊びを、ずっと続けている子ども。かくれんぼの、見つけてほしい側の、呼吸。
俺は地面を後退りに四つん這いで離れ、杉の幹に背中がぶつかって、ようやく止まった。鉄扉の表面に、午後の光が斜めに差しこんでいる。そのなかで、真ん中の鍵穴だけが、黒く、欠けた歯のように、ぽっかりと空いていた。覗こうと思えば、覗けてしまう位置。目を近づければ、向こうの暗闇が、こちらの瞳を、舐めてくるだろう。
覗いては、いけない。
それだけは、はっきりとわかった。
俺は立ち上がった。膝が、また笑っていた。土で汚れた掌を、ジーンズの尻で拭い、道具を拾い集めて袋に戻す。指先が震えて、マイナスドライバーが二度、指のあいだをすり抜けた。その一度目と二度目のあいだにも、俺は、鍵穴の向こうから誰かが呼吸を殺している、あの気配を、背中で感じていた。
家のなかに戻り、勝手口の鍵を二重にかけた。意味がないことは、わかっていた。昨夜、畳を擦って歩いていた何かは、扉の内側にいたのだ。外から鍵をかけても、家の内側と蔵のなかは、きっと、どこかで繋がっている。それでも、俺は、かけた。
茶の間に座り、膝を抱える。
鍵穴から漏れた、あの含み笑い。子どもだった。それも、あの家の、あの蔵の、暗がりで、長いあいだ、誰かが聞きつけてくれるのを、今か、今かと、待っていた子どもの声だった。気がした、では済まなかった。そういう声だと、俺の耳が、確かに、判じた。
夕方、仏間の鈴が、また、ちりん、と鳴った。
昨夜とは違い、今度は、はっきりと、俺に、宛てられていた。鈴の残響のなか、俺はもう、関わってしまった側の人間なのだと、静かに理解した。