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関わるな、と老人は言った

第3話 第3話

第3話

第3話

鈴の音が、耳の奥から抜けなかった。

 夕方の、ちりん、が、夜になっても耳殻の裏側でちいさく尾を引いている。俺は仏間の襖を開けたまま、廊下の板の間に胡坐をかいて、仏壇を睨んでいた。電気は点けた。茶の間から長い延長コードを這わせ、裸電球をもう一つ鴨居に吊るして、二方向から光を当てた。影を、一つも残したくなかった。

 仏壇の扉は閉じてある。鈴は、その中にある。手で鳴らさなければ鳴らないはずの金属の椀が、昨夜に続いて、今日もまた、勝手に鳴った。今度は、はっきりと、こちらに宛てて。

 爪先が、冷えて感覚がない。三月の山の夜は、畳の下から這い上がってくる冷気で、腰の辺りまでが凍みていく。息を吐くたび、白い霧が裸電球の光に透ける。その霧の輪郭が、俺の口から出た瞬間、ほんの一秒だけ、俺ではない誰かの呼吸に寄り添うように、ゆるく、膨らんで見える。

 鴨居の染みを、俺は、見ていた。

 褐色の、縦に長い、下の縁が波打った染み。昨夜、指で触れて、湿りを感じた、あの染み。電球を二つ点けた今、光が側面から当たって、染みのなかに色の濃淡が浮き出ている。中心は、濃い。縁に向かって、薄く、にじんでいる。一度、二度、三度と、上から下へ、何かが流れて乾いた跡だった。

 雨漏りじゃ、ない。

 声に出さずに、そう思った。

 台所から、古いタオルを一枚と、洗面器を取ってきた。水道は今朝ようやく開通したばかりで、金気の強い水が、茶色く濁って三十秒ほど流れ、それから透明になった。その水に、タオルを浸す。冷たさが骨に染みた。絞って、洗面器の縁に掛け、俺は上がり框から持ってきた踏み台に乗った。

 鴨居に、指が届く。染みの表面は、乾いている。昨夜の、あの湿りは、もう、ない。

「ただの、シミだろ」

 声に出した。耳の奥の鈴が、その声を、小さく嘲ったような気がした。自分の声が、裸電球の光の下で、妙に薄っぺらく、頼りなく、反響もしないで、畳に吸われて、消えた。

 タオルを染みの端に当てた。こすった。白かったタオルの端が、じゅん、と湿った音を立てて、色を吸った。鴨居の木肌が、そこだけ、ほんの少し、明るくなる。いける、と思った。ただの汚れだ、ただの、長年溜まった煤とヤニだ。もう一度、強く、こすった。

 二度目に布を離した瞬間、俺は、踏み台の上で、脚を止めた。

 タオルの、染みを拭いた部分が、赤い。

 褐色ではなく、明るい、鮮やかな、ついさっき流れ出たばかりのような赤だった。中央が濃く、周辺が薄く、布の繊維の目に沿って、じわ、じわ、と広がっていく。温かかった。タオルを持つ指先に、体温ほどの、ぬるい湿りが伝わってくる。鼻を近づけると、金属を舐めたときの、あの鉄の味が、鼻腔の奥にまで立ちのぼった。

 踏み台の上で、膝が抜けた。

 タオルを取り落とす。洗面器の縁に、赤いタオルが、べたり、とかかった。水の色が、一瞬で薄紅に変わる。水の表面に、円が広がっていく。その円の広がり方が、どう見ても、水に血を垂らしたときの、あの広がり方だった。

 鴨居を、見上げた。

 拭き取った部分が、もう、元の褐色に戻っている。いや、戻っている、ではない。濃さを、増している。タオルが吸ったぶんだけ、鴨居の染みが、新しく、下から湧き上がってきているようにしか、見えなかった。

 踏み台を降りようとして、足を滑らせた。畳に、尻を強く打ちつけて、俺はその姿勢のまま、しばらく動けなかった。打った骨の芯から、鈍い痺れが背骨を伝い、後頭部まで駆けのぼる。呼吸が、浅い。肺が、冷たい空気を一度に吸いこむことを、拒んでいた。指先が、まだ、さっきの、あの、ぬるい赤の温度を、憶えていた。仏壇が、目の前にある。黒く艶光りした観音扉。中央の、指ほどの小さな隙間から、線香の、あの甘くて重い、錆びた鉄の匂いが、じわ、と、流れ出してくる。今朝、家中のどの仏具にも、線香は立てていない。

 タオルを、拾い上げた。

 赤は、薄くなっていた。というより、布の繊維のなかに、いつの間にか吸われきって、裏まで染み通り、表面が乾きはじめていた。俺は、そのタオルを両手で握りしめ、洗面器を抱えて、台所に走った。蛇口をひねる。水が、いつまでも、透明にならない。何十秒、何分、流しつづけても、指のあいだで絞ったタオルから、うっすらと、赤が、落ちた。

 蛇口の金属に、掌を当てた。真鍮が、指の熱を一方的に奪っていく。底の抜けた寒さだった。水滴が、タオルの端から、ぽた、ぽた、と、流しの縁を鳴らす。その一滴ずつが、さっき鴨居から吸いあげた染みと、同じ色で、同じ粘り気で、排水口の暗がりに吸われていった。俺の咽の奥に、塩気と、鉄の、後味が、いつの間にか張りついていた。唾を飲む。飲みこんだあとも、その後味は、舌の根に、しつこく、残った。

 その夜、俺は仏間で寝ることにした。

 逃げていては、らちが明かない、と思ったのではない。六畳に戻って襖を閉めれば、また、あの畳を擦る音が階下で始まる。だったら、源に、向かい合って、電気を点けたまま、朝を待つほうが、まだ、まし、だと思った。布団を仏間に引きずり込み、仏壇を真正面に据えて、その向かいに布団を敷いた。枕を廊下側に置く。仏壇に、背を向ける勇気はなかった。

 布団の綿は、湿っていた。背中につく面だけが、冷たく、皮膚から熱を吸っていく。仰向けになると、天井の節が、目の真上にあった。節の木目の渦が、どう見ようとしても、瞬きをしない片目のかたちに、見えた。視線をずらしても、ずらした先に、また別の節が、あった。

 スマホで、ラジオを流した。深夜の、気の抜けた音楽番組。DJの笑い声が、空虚に天井の梁を跳ねていく。電球は二つ点けたままだ。目を瞑らないと決めた。壁の掛時計の秒針だけが、動いていた。

 午前二時過ぎ、ラジオが、不意に途切れた。

 電波が、と最初は思った。山間だ。電波は弱い。画面を見ると、通信は三本立っている。ラジオのアプリだけが、読み込みのまま、ぐるぐると、回っていた。

 仏壇の扉が、開いていた。

 いつ、開いたのか、わからない。観音の、片方だけが、ほんの一寸、内側に傾いで、ちょうど誰かが中から指で押し開けたような、そういう開き方をしていた。中の、位牌と、写真立てと、鈴が、裸電球の黄色い光に、鈍く照らされている。

 鈴は、動いていない。

 けれど、動いていないのに、鳴った。

 ちりん、と。

 一拍おいて、もう一度、ちりん、と。

 三度目、ちりん、ちりん、と、続けて二度。金属の椀の縁が、誰かに棒の先で、意志を持って、叩かれていた。そういうリズムだった。音そのものは、小さい。けれど、その小ささのなかに、含み笑いのような、間が、あった。叩いて、こちらを確かめて、また、叩く。誰かが、俺の反応を、楽しんでいる。そういう、間合いだった。それも、子どもが初めて鈴を鳴らすときの、遠慮がちな、手首の弱い、あの叩き方だった。

 俺は、布団の上に座ったまま、動けなかった。

 掌の爪が、掌の肉に食い込む。痛みが、むしろ、ありがたかった。ここが現実で、俺がまだ生きている側の人間だ、と、その痛みが教えてくれていた。鈴の音が、止んだ。止んだ、と思った瞬間、位牌の列の、一番端の位牌が、ほんのわずか、こちらに、傾いだ。木が擦れる、ごく小さな、ぎ、という音を立てて。

 俺は、確信した。

 いる。

 この家には、俺のほかに、誰かがいる。気のせいでも、古家の軋みでも、鼠でも、風でもない。昨夜の畳の音、今朝の蔵の含み笑い、鴨居の染み、赤く染まったタオル、そして、今、この、鈴。全部が、ひとつの、意志を持った何かの、手で、鳴らされ、動かされている。そいつは俺を、仏壇の、あの細く開いた扉の、隙間の奥から、じっと、見ている。

 裸電球が、一つ、音もなく、ぷつ、と消えた。

 もう一つの電球の光だけが、鴨居の染みの上に、斜めに落ちている。染みは、もう、縦に長い形をしていなかった。下の縁の波打ちが、すこし、伸びていた。肩の、輪郭のように。そこから、細い、縦の筋が、二本、畳の方へ向かって、だら、と垂れはじめていた。髪の、毛束のような、そういう、筋だった。

 台所の方で、湯呑みが、ひとつ、倒れる音がした。

 振り返る勇気は、なかった。明日の朝、あの湯呑みのそばに、誰かの足跡が残っていないことを、俺は祈った。祈りながら、もう、祈りが届く相手は、この家のなかに、いないのだ、ということも、わかっていた。

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