Novelis
← 目次

関わるな、と老人は言った

第1話 第1話

第1話

第1話

線香の匂いが、どうしても鼻の奥から抜けなかった。

 軽トラの荷台に段ボール五箱を積んで砂利道を登りきった先に、その家はあった。築九十年と告げられた木造の日本家屋は、瓦のところどころが黒く変色し、軒先に蜘蛛の巣が張っている。鍵を受け取ったのは二時間前、麓の不動産屋の事務所でのことだ。玄関の引き戸を引くと、留守のはずの屋内から、いましがた焚き消したばかりのような細い残り香が流れ出てきた。

 菊と、白檀。

「……誰か、管理頼んでたのか、祖父さん」

 独りごちたが、返す声はない。三月の山間部は、街で思っていたよりずっと冷える。ダウンの前を合わせなおして、俺は土間に荷物を下ろした。段ボールの底が、固めた三和土にごつ、と鈍い音を立てる。その音が、家の奥、廊下のずっと向こうから、一拍遅れて返ってきたように思えた。空き家というのは、こんなにも反響するものだったか。

 三百二十万。俺が背負っている借金の残高だ。消費者金融に追われ、勤めていた弁当屋を飛ぶように辞め、叔父から「宗助じいさんの家、いらんか。税だけ払うてくれたら、ただでやる」と電話を受けたのは先月のことだった。祖父は昭和三年生まれ。俺が幼い頃に一度だけ会った、痩せた鋭い目の老人で、二年前に九十四で死んだらしい。葬式にも呼ばれなかった。

 上がり框に腰掛け、スニーカーを脱ぐ。足裏に伝わる板の間は、春先だというのに氷を踏んだように冷たい。八畳、六畳、納戸、台所、風呂、廊下を挟んで仏間が一つ。間取り図の通りに歩きながら、俺はどの部屋でもまず天井を見上げた。理由はわからない。何か、上から見られている気がしたのだ。黒ずんだ梁の木目が、どの部屋にも違った顔で張りついている。節の丸みが目のように窪み、ひび割れが口のようにひらいて、こちらの一挙一動を黙って追っているように感じた。

「こんにちは」

 庭先で声がして、心臓が一度だけ強く跳ねた。

 振り返ると、縁側の向こうに皺深い小さな老人が立っていた。紺の作業着の袖に土がついている。隣の畑を耕していた、と指差した先に、確かに鍬が一本刺さっていた。

「宗助さんの孫御さんかね」 「はい。今日から、ここに」

 老人は頷きもせず、しばらく俺の顔を見ていた。白内障なのか、左目が薄く濁っている。やがて、ひび割れた唇をひらいて、囁くように言った。

「悪いことは、言わん。関わるな」 「……関わるな、って」 「この家に、あんたが関わるな。住んでも、いかん。蔵は、絶対に、開けるなよ」

 言葉の一つひとつが、乾いた喉を無理に通してきたように掠れていた。老人の右手の指先が、まるで何かを払うように、空中でごく小さく震えている。俺は「どういう意味ですか」と問い返したかったが、口を開きかけた瞬間、老人はもう背を向けていた。

 老人は一方的にそれだけ言い、踵を返して畑の方へ歩いていった。作業着の背中には、くっきりと影がのびている。なのに俺は、その影が地面に落ちた瞬間、一拍遅れてついてきたように見えた気がした。見間違いだ、と自分に言い聞かせ、俺は縁側に立ちつくした。

 庭の奥、杉の木の陰に、黒く押し黙った土蔵が見える。観音開きの扉には、素人の目にもいびつに感じる錠前が三つ、縦に並んでかけられていた。鍵穴の一つは錆で埋まり、もう一つは、新しい南京錠が無理やり重ねられていた。ふしぎと、蔵の周りだけ、庭の下草が枯れて土が剥き出しになっている。

 夕飯はコンビニで買った稲荷寿司と、缶の緑茶で済ませた。布団は納戸に一組だけ畳まれて仕舞われていた。やけに重く、線香の匂いがしみついている。仕方なく六畳間に敷き、電灯の紐を引いた。裸電球の黄色い光が、畳の目を薄くなぞる。天井の木目が、じっと人の顔の形をしているように見えて、慌てて目を逸らした。

 仏間を覗いたのは、寝る前に一度だけだった。

 鴨居の中央、ちょうど仏壇の真上にあたる位置に、褐色の染みが残っていた。雨漏りにしては形がおかしい。縦に長く、下の縁が波打っている。爪先立ちで指を伸ばし、そっと触れると、染みの表面だけがひやりと湿っていた。指を離し、明かりの下で見つめる。指先に、何もついてはいない。

「……雨漏りだろ」

 声に出して言うと、自分の声の軽さが不自然に耳に残った。

 仏壇を閉じ、電気を消して、俺は布団にもぐりこんだ。スマホの充電ランプが一つ、暗闇のなかでちいさく光っている。午後十一時四十七分。吐く息が白い。目を閉じた途端、耳の内側に、誰かの遠い足音のような心拍が聞こえはじめた。

 それが、始まりだった。

 最初は、自分の体の音だと思った。

 次に、隣の家の物音だと思った。けれど隣家は、畑を挟んで二百メートル先だ。届くはずがない。

 音はすぐ、輪郭を持った。

 畳を、擦る音だった。

 ざ、ざ、と、足の裏で草を踏むような、平たい靴下で板間をなぞるような、そういう音。一歩。二歩。間を置いて、三歩。廊下ではない。階段でもない。階下——俺が寝ている六畳の、すぐ斜め下にあたる、仏間の方角だった。

 息を止めた。

 心臓の鼓動で、布団が微かに震える。その震えと、ずれた律動で、音はまた歩いた。ざ、ざ、ざ。仏壇の前を横切り、鴨居の染みの真下で、不意に止まる。静寂が、耳の奥で膨らむ。空気そのものに重さがあり、胸骨の上にしずかにのしかかってくるのがわかった。首の後ろで、髪の一本一本が産毛まで立ちあがっていく。俺は、自分の歯が鳴っていることに気づいた。噛み合わせが、かち、かち、と、誰かに操られているみたいに震えている。

 歯を食いしばる。腹に力を込める。掌に爪を立てる。痛みで意識を繋ぎとめながら、俺は必死に考えた。野良猫。鼬。古い家は音を立てる。木が軋む。風が鳴る。そう思おうとした。いや、そう思いこまなければ、次の一息すら吐ける気がしなかった。布団の縁を掴んだ指が、いつの間にか関節の色を失って白くなっている。足先は、布団の重みが消えたみたいに感覚がなかった。

 思おうとした、ちょうどそのとき。

 ちりん、と、仏壇の鈴が、一度だけ鳴った。

 布団の中で、全身の毛が総毛立つのがわかった。鈴は、指で押さえたら鳴る。息を吹きかけても鳴らない。金属の椀を、木の棒で叩かなければ、あの音は出ない。なのに、鳴った。たった一度、澄んだ音が天井の梁にぶつかって、余韻だけが長く尾を引いている。その残響が完全に消えきるまで、俺は息を吐くことも吸うこともできなかった。

 足音は、もう聞こえない。

 代わりに、線香の残り香が、閉め切ったはずの仏間の方から、すう、と細く流れてきた。夕方に嗅いだ、菊と白檀。けれど今夜は、そこに、もう一つ混じっている気がした。甘くて、重くて、錆びた鉄に似た、どこか具合の悪くなるような匂い。嗅ぐほどに舌の奥に後味が残り、唾を飲むと、喉仏のあたりに鉄の粒を押しこまれたような冷たい違和感が落ちていった。

 枕元のスマホを掴んだ。画面が光る。午前三時十二分。

 眠りに落ちた覚えがない。時計が飛んでいる。

 俺は布団の上に起き上がった。廊下に面した襖が、わずかに、一寸ほど開いている。閉めて寝たはずだった。その隙間の向こう、真っ暗な廊下の奥——仏間の方角から、こちらを、じっと見ている気配がある。目ではない。息でもない。もっと湿った、指先のような気配。畳の上に手をついたまま、俺は動けなかった。掌の下の畳の目が、呼吸に合わせてかすかに上下しているように感じる。この家そのものが、息をしている。

 見てはいけない、と本能が言った。

 見なければいけない、と借金取りに追われてきた三年間の俺が言った。

 襖の隙間を、俺は、掴んだ。

 明日、蔵を見に行く。

 そう思った。関わるなと言った老人の、白く濁った左目が、瞼の裏によみがえる。畑に戻っていくあの背中に、一拍遅れてついてきた影のことも。祖父がなぜ、俺を葬式に呼ばなかったのかも、今の俺にはまだわからない。ただ一つだけ、もう疑いようがない事実があった。

 この家には、俺のほかに、何かがいる。

 襖を、一息に、引き開けた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ