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呪喰いの覚醒、廃療養所にて

第2話 第2話

第2話

第2話

扉の向こうの青白い光が、拓也の影を、輪郭ごと舐めた。俺の足は、まだ走っていた。三歩分の床が、やたらに長い。タイルに張りついた靴底が、ぷつ、ぷつ、と糸を引きながら剥がれる。

「拓也、下がれっ」

 俺の声は、手術室の前で、薄い膜にぶつかったように潰れた。距離は五メートルもない。なのに、言葉だけが、間に挟まった何かに吸われていく。真昼が俺の背中を押した。沙耶と美結の懐中電灯が、壁に当たって、ぶるぶると細く震えていた。

 拓也の後頭部が、扉の内側に入った。肩が、背中が、薄い影の束に包まれていく。光は、病院の手術灯のそれではなかった。青白く、甘ったるくて、霧のようにゆるく流れている。中を覗き込もうとした瞬間、鉄の味が舌の奥で爆ぜた。古い血と、消毒液と、煮詰めた骨の匂い。俺は思わず口を押さえた。掌の下で、歯ががちがち鳴っていた。喉の奥に、指を突っ込みたくなるほどの吐き気が、食道を逆流してくる。拓也、と呼ぼうとした唇が、自分の唾液でくっついていて、開かなかった。

 拓也が、振り返らずに、右手を上げた。いつものあいつの、軽薄で、意味のない、バイバイの仕草だった。中学の下校時、高校の教室の戸口、昨日の夜、ラーメン屋の暖簾の前。あいつはいつも、こっちを見ずに、ひらひらと、掌だけで別れを告げた。そのたびに俺は、ちゃんと見ろよ、と舌打ちしていた。舌打ちしていた自分を、俺は、これから一生許さないと思った。

 その手が、指先から、黒く、乾いていった。

 乾く、というより、内側から空気に変わっていく、という方が近かった。肘のあたりで皮膚が薄紙のように反り、肩のラインで影が崩れ、頸の後ろが、かさ、と一度だけ鳴った。俺はその一音を、今でも耳の奥に押し込まれたまま生きている。紙を丸めるときの、あの乾いた摩擦音。あれが、友達一人の輪郭が消える音だとは、誰も教えてくれなかった。

 拓也の身体があった場所に、ひと山の灰が、積もっていた。

 膝の高さにも満たない、黒く湿った灰。あいつの背丈に対して、あまりに少なかった。人ひとり分の質量が、そこには、残っていなかった。灰の表面に、まだ、拓也のパーカーの繊維が溶け残っていた。胸のあたりにあったはずのブランドロゴの刺繍だけが、燃えずに、ぽつんと、白い糸を立てている。その白さが、やけに鮮やかで、俺は、その一点だけを見ていれば、他の全部を見なくて済むような気がした。

「……え?」

 沙耶の声が、遠かった。美結の懐中電灯が、ごと、と落ちた。真昼が俺の腕を両手で掴み直した。爪の下に、皮膚の細胞が潰される痛みがあった。痛みが、唯一、現実だった。痛みだけが、今この廊下で起きていることを、「起きている」と俺に教えてくれていた。

 灰の脇に、一台のスマホが転がっていた。拓也のだ。ケースの角の傷を、俺は覚えている。先週あいつが自販機にぶつけて割った、その傷のある画面が、まだ、点いていた。

 俺は屈んで、拾った。

 温かかった。人肌よりも、少しだけ。さっきまで、あいつのポケットにあった温度が、そっくりそのまま、掌に移ってきた。握りしめると、拓也の体温が、もうここにはない身体の代わりに、俺の指の節に染みこんでくる。俺はその温度を、絶対に冷まさないでくれ、と、誰にともなく祈った。この温度が消えた瞬間、拓也は本当に、この世界から計上されなくなる気がした。

 画面には、動画の録画マークが、赤く、脈打っていた。

 拓也は、ここへ来る直前に、録画を始めていた。ポケットの中で。何を残そうとしたのか。なんで、俺たちにも言わずに。あいつは、何かに気づいていたのか。気づいていたなら、なぜ先に入った。なぜ、俺たちじゃなく、自分だったのか。問いが喉の奥で折り重なって、どれも声にならなかった。

「拓也……?」

 美結が、一歩、踏み出した。灰に、近づこうとした。

 床の染みが、増えていた。

 手術室の入り口から、廊下を挟んで俺たちの足元まで、人型の染みが、点々と、濡れたまま並んでいた。ひとつ、ふたつ、みっつ。数える気もなくなるほど。新しい染みのふちは、まだ脈を打っている。誰かがそこに倒れて、吸われ、たった今、また一つ、足されたような。染みの一つひとつに、指の形、髪の広がり、膝の折れ曲がりが、わずかに残っていて、それが「人だったもの」の残滓だと、俺の背骨が、先に理解していた。

 拓也の灰の向こう、手術室の奥の闇で、甘い声が、笑った。

「ひとり、ごちそうさま」

 女の声でも、子供の声でもなかった。誰のものでもない、歯と歯の間で擦られた、湿った息だけの笑いだった。耳の穴の内側を、濡れた舌で、ゆっくり舐め回されるような笑い方だった。聞いた瞬間、俺の尾てい骨から首の付け根まで、冷たい水がひと筋、垂直に落ちた。

 美結が、ひ、と息を吸って、後ろに下がった。踵が、人型の染みを踏んだ。踏んだ瞬間、美結の足首に、染みの輪郭が、湿ったハンカチのように、巻きついた。

「嫌っ、嫌あっ」

 美結の身体が、後ろへ、ぐん、と引かれた。背後の壁は、実在していた。はずだった。壁紙の継ぎ目が、縦に裂け、その奥に、暗い水飴のような黒が、ぽっかり口を開けていた。壁の中から、無数の指が、美結の肩、腕、髪、腰に絡みついていく。指は、白く、ふやけていて、爪が、剥がれているものと、ないものがあった。指のひとつひとつに、爪半月や、皺や、薬指の結婚指輪の跡まで残っていて、どれも、かつては誰かの手だったのだと、俺はその一瞬で理解させられた。

「美結っ」

 沙耶が飛びついた。両手で美結の手首を掴む。二人の叫び声が、廊下を往復した。俺は真昼の腕を掴んだまま、凍っていた。いや、違う。凍っていたんじゃない。動けなかった。膝の裏を、さっきの見えない手が、もう一度、確実に、掴んでいた。ふくらはぎの筋が、誰かの指の形にへこんで、そのへこみが、ゆっくりと奥へ、引き絞るように力を込めてくる。踏み出そうとした右足は、床に釘で留められたように、一ミリも上がらなかった。

 沙耶の引く力と、壁の向こうから引き込む力が、美結の身体を、水平に、伸ばしていく。肩の関節が、ごり、と嫌な音を立てた。美結の目が俺を見た。まつ毛の涙が、光の粒になって、落ちた。その一粒が、スローモーションのように、俺の瞼の裏に焼きついた。俺が助けなかった、という事実の形に、その涙はなっていた。

「たす、たすけ、たすけて響介」

 壁が、呼吸した。

 裂け目が、大きく、開いた。美結の背中が、水面に吸い込まれる紙のように、ずっ、と消えた。次に、沙耶の手首が。沙耶は自分が巻き込まれていくことに気づかなかった。気づいたときには、もう肘まで、壁の中に入っていた。

「や、やだ、違う、違うっ、違うって……!」

 沙耶が振り返った。目が合った。俺は、走れ、と思った。走れ、と思ったのに、身体が、一センチも進まなかった。声も出なかった。口の中が、さっきの鉄の味で完全に塞がれていて、舌が、自分のものじゃないみたいに、奥歯の裏に張りついていた。

 沙耶の最後の悲鳴は、壁の内側で、くぐもって、途切れた。

 裂け目が、ゆっくりと、閉じた。壁紙の継ぎ目は、何事もなかったように、元の位置に戻っていた。二人の持っていた懐中電灯が、床で、くるくると、光の円を描きながら回っていた。その光の中を、先ほどよりも多い数の、人型の染みが、埋め尽くしていた。光が一周するごとに、染みの数が、一つ、また一つ、増えているように見えた。数えてはいけない、と本能が叫んでいたが、俺の目は、勝手に数え始めていた。四、五、六、七——。

 手術室の奥から、また、あの笑い声がした。

「ごちそうさま。ごちそうさま。ごちそうさま」

 声の数が、増えていた。

 真昼が、崩れ落ちた。俺の腕の中に、重さがふっと乗って、それで俺はやっと、自分が立っていることを思い出した。真昼の額に、脂汗が浮いていた。唇が、声にならない何かを、繰り返している。耳を寄せると、ごめん、ごめん、ごめん、と、呼吸の合間に押し出されていた。誰に謝っているのかは、わからなかった。わからない方が、いいと思った。

 俺は真昼を抱え直した。左手で拓也のスマホを握りしめたまま。あいつの温度は、まだ、ある。ある、うちは、俺はまだ、こいつらの側にいる。そう決めた。決めた、という言葉だけが、今の俺に残された唯一の筋肉だった。

 そのとき、俺の右腕の奥で、また、ひとつ、脈が打った。

 ひとつではなかった。肘の内側の皮膚が、熱を持ち、何かが、薄皮を内側から、ぐ、と押し上げてくるのがわかった。痣のような、文字のような、黒い線が、袖の下で、俺の皮膚に、書かれはじめていた。線は、俺の鼓動に合わせて、じわり、じわりと長さを増し、袖口のすぐ手前で、最初の一画を閉じた。書き手は、俺の中にいる誰かではなかった。外側の、手術室の奥にいる「あれ」が、俺の皮膚を、紙として使い始めていた。

 廊下の奥、拓也を喰った光の奥から、何かが、こちらを、見ている気配がした。

 今度はそれが、俺の名前を、呼ぶ声だった。

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