第1話
第1話
午前三時、黒峰療養所の錆びた鉄扉を押した瞬間、湿った石の匂いが喉の奥にへばりついた。蝶番が細く悲鳴を上げ、懐中電灯の光が長い廊下に一本の筋を刻む。靴底が何かの粉を踏み、じゃり、と鳴った。
「うわ、ガチで雰囲気あんじゃん」
背後で拓也が笑う。佐々木沙耶と篠原美結の短い悲鳴。幼馴染の真昼は黙って俺の袖をつまんでいる。六人、全員そろっている。まだ。
俺、神城響介は廃墟マニアを自称している。関東近郊の廃病院を二十三棟、踏んできた。だから、この空気が普通じゃないことは一秒でわかる。外は雨でもないのに、床のタイルに水膜が張っている。いや、水じゃない。粘度が、違う。光を当てると、油膜のように虹色がぬるりと走り、すぐに黒へ吸われていく。指先で温度を測るまでもなく、ここの空気は外より三度は冷えていた。なのに、額にだけ、生ぬるい湿気がじっとりと貼り付いてくる。汗ではない、と俺の経験則は告げていた。誰かの吐息が、すぐ近くにある。
「響介、ほら見ろよ、車椅子」
拓也が蹴った錆色の車椅子が、ぎい、と一度だけ軋んで、それきり動かなかった。押す手を離したのに、タイヤの向きがゆっくりとこちら側へ回転する。誰も、触れていない。
「……風か」
自分で言って、自分で嘘だとわかった。空気は死んでいる。換気の止まった建物の、鉄と黴と、微かに甘い、腐った果物のような匂い。視線を落とす。光の輪の中に、人の形をした染みがあった。頭から肩、胴、足先まで、およそ百七十センチ。仰向けに横たわった誰かが、そのままタイルに染み込んで、抜けなかったような輪郭。輪郭の縁は、乾いてひび割れているのではなく、まだ濡れていた。何十年も前のものだとしたら、おかしい。今朝、誰かが、ここで、染み込んだばかりのような、生々しさだった。
その首のあたりから、
「おかえり」
耳元で、女の声がした。
息が止まる。懐中電灯を上げる。誰もいない。真昼はまだ俺の袖をつまんで、拓也たちは廊下の先ではしゃいでいる。誰も、聞いていない。
俺だけが、聞いた。
拓也が振り返って親指を立てた。「奥まで行くぞ。手術室あんだろ、ここ」
足が動かない。動かないのに、真昼に引っ張られて、勝手に前へ進んでいく。廊下の両側、番号の剥げた病室がぽっかりと口を開けている。四号室。六号室。九号室。
「四、六、九」真昼が呟いた。「死、苦、苦」
「やめろよ」
笑おうとしたのに、頬が凍って持ち上がらなかった。美結がスマホを沙耶に向ける。フラッシュが瞬いた瞬間、廊下の奥、光の届かない闇の向こうで、何かが一歩、身を引いたように見えた。
「ねえ、響介」
真昼の声が、下がる。「さっきから、私たちの足音、七人分、聞こえない?」
背中が粟立った。ブーツ、スニーカー、パンプス。五人分のリズムを俺は認識していた。自分を足して六人。それ以上は、数えたくなかった。数えてしまえば、それが「いる」ことを認めるからだ。意識して足を止めると、確かに、ほんのコンマ数秒、遅れて、もう一歩、湿った何かが床を擦る音がした。裸足の、皮膚そのものが、タイルに張りついて剥がれる、そういう音だった。
「……気のせいだろ」
言いながらスマホを取り出した。画面の上部、アンテナの表示が、消えていた。潜入前は三本立っていた。ここに踏み込んでから、電波だけが綺麗に、外へ出られなくなっている。
「みんな、スマホ見てみろ」
五人が一斉に画面を確認して、一斉に息を呑んだ。沙耶が「嘘、私、さっき動画回してたのに」と震える指でスワイプする。録画フォルダは空だった。撮影日時の履歴さえ、根こそぎ消えている。美結のカメラロールも、最新の数十枚が、白く飛んだサムネイルだけを残して、中身を失っていた。まるで、ここへ入ってからの俺たちの存在そのものを、何かが、丁寧に剥ぎ取っているように見えた。
拓也だけが肩をすくめた。「電波なんて、病院の地下深くなら普通じゃん」
地下。その単語で、背筋の奥に何かがぞわりと下りた。ここは、地上二階建てだ。地下の話を、俺たちは、していない。
「戻ろう、拓也」
自分の声が、思ったより低く、揺れていた。「帰ろう。俺、ダメだ、ここ」
「はあ? ビビりすぎだろ響介」
拓也が笑う。いつもの、ちょっと間の抜けた、あの笑い方。俺はその顔を、多分、一生忘れない。
来た廊下を引き返した。玄関ホール。蛍光灯は最初から死んでいる。懐中電灯の光を、正門の方へ向ける。
そこで、俺たちは止まった。
来るときには開いていた、錆びた鉄の正門。蝶番の片側が捻じれ、内側に二重、三重に、錆びた鎖が絡みついていた。南京錠は赤く、深く、酸化している。何十年もそこにあった、という顔をしている。表面の錆は層になって浮き上がり、そこにうっすらと黴さえ生えていた。たった十数分前、俺たちが背中で押して通った扉とは、もはや別物だった。鎖の輪のひとつひとつが、まるで時間そのものに縫いつけられているように、光を吸って、鈍く湿っていた。
「誰か、鍵かけた?」
美結が震えた声で言う。誰も、返事をしなかった。鎖の錆は、今さっき閉められたものの輝きを、一切、持っていない。
拓也が駆け寄って、鎖を掴んだ。ぐ、と力を入れる。ぎ、と錆が鳴って、鎖は一ミリも動かない。拓也の掌に、赤茶けた粉が移った。それを見つめたまま、あいつは、数秒、固まっていた。粉は、拓也の指紋の溝にまで入り込み、洗っても落ちないだろう色をしていた。掌の皮膚に、まるで烙印のように、その赤が染みていく。沙耶が、ひっ、と短く息を吸い込んで、口元を両手で押さえた。
沙耶と美結が窓に取りついた。鉄格子は近づいてよく見ると、窓の内側にはめ込まれていた。出させないための、格子だ。患者を閉じ込めるための、というよりも、何か外に出してはいけないものを、ここに留めるための格子のように、俺には見えた。鉄棒の表面には、内側から引っ掻いたような縦の傷が、何十本も、平行に走っていた。
「響介」
真昼が俺の腕を強く握った。爪が、皮膚に食い込む。「さっきの、聞こえた? ――おかえり、って」
俺の喉が鳴った。真昼には、聞こえていた。俺だけじゃなかった。その事実は、一瞬だけ俺を安心させて、すぐに、もっと深い冷たさで押し潰した。聞こえた、ということは、呼ばれた、ということだ。俺たち二人だけが、名指しで、選ばれている。
廊下の奥で、ぎい、と、また車椅子が鳴いた。
ゆっくりと、こちら側へ、転がってくる音がした。
「拓也、離れろ」
言いかけて、俺は口を閉じた。正門の鎖を掴んだままの拓也の足元、彼自身の靴の影から、もう一本、影が伸びていた。拓也の身長より、頭ひとつ高い、黒い影が。
「拓也」
拓也が振り向いた。笑っていた。
「響介、これやばくね? 動画回そうぜ」
頭ひとつ高い影は、笑う拓也の、首の後ろから、肩の上に、顎を乗せていた。指のように細長い影が、拓也の鎖骨のあたりを、いとおしげに、撫でていた。
俺には、見える。真昼にも、見えているとわかった。爪が、もっと深く、俺の腕に食い込んだから。
拓也にだけ、見えていない。
懐中電灯が、ふ、と暗くなる。沙耶のも、美結のも、真昼のも、全部、同時に。最奥の廊下、手術室のすりガラス扉の向こうに、青白い光が、淡く、灯った。
拓也が、ふらりと、その光に向かって歩き出した。肩の上の影が、嬉しそうに揺れた。
「拓也、ダメだ!」
俺は叫んだ。声は出た。ちゃんと出たのに、拓也の耳には届かない。拓也の足は止まらない。一歩進むごとに、靴底が床のタイルに、ねちゃ、と粘った音を立てた。さっき見た、人型の染みが、廊下のあちこちに、いつの間にか増えていた。拓也は、その上を、迷いなく踏んでいく。踏まれた染みが、ふくらみ、しぼみ、まるで呼吸するように、淡く脈打っていた。
耳元で、もう一度。
「おかえり」
今度はそれが、男のようにも女のようにも、幼い子供のようにも、聞こえた。何人もの声が、綺麗に、重なっていた。
拓也が手術室の扉に手をかけた。青白い光が、あいつの輪郭を、薄く、薄く、滲ませていく。
俺は走った。三歩。四歩。足が、鉛のように重い。膝の裏に、見えない手が絡みついて、引き戻そうとしているのが、はっきりわかった。それでも、走った。
拓也が最後に振り向いて、いつもの間の抜けた笑顔で、言った。
「響介、なんでお前、泣いてんの」
すりガラスの扉が、音もなく、内側へ、開いた。
その向こうで、たくさんの、何かが、拓也を、待っていた。
俺の右腕の奥で、俺の知らない血が、ひとつ、脈を打った。