第3話
第3話
俺の名前を呼ぶ声は、子供のようだった。
それなのに、声の芯に、老婆の湿りと、若い女の息遣いが、二重三重に重なって聞こえた。耳穴の奥の、骨と骨が擦れる一番細い隙間から、直接、吹き込まれているような呼び方だった。
「きょうすけ。きょうすけ」
俺は真昼を抱え直し、拓也のスマホを握った左手に、汗が滲んでいるのに気づいた。掌の中で、まだ、あいつの体温は、残っている。残っている、という事実だけを、俺は、ひとつの小さな錨のように胸の奥に沈めた。右腕の袖の下では、黒い線が、また一画、じわりと書き足された。皮膚の裏側を、錆びたペン先で内側からなぞられる、鈍い痒みと、熱。
逃げなければ、と思った瞬間、廊下の奥、壁を潜った沙耶の消えた位置で、壁紙が、もう一度、ぷつ、と裂けた。
今度は、中から、腕が、出てきた。
白くふやけた、爪の剥がれた指。肘までが、壁から生え、関節を裏返しにひねりながら、俺のいる方向を、手探りしはじめた。続いて、もう一本。さらにもう一本。五本、八本、数える気も失せる数の腕が、廊下の両側の壁から、同時に、生えた。全部が、同じ方向へ、俺を向いて、伸びてくる。指先が空気を撫でる、しゅる、という衣擦れに似た音が、廊下いっぱいに満ちた。
足が、動いた。
膝の裏を掴んでいた見えない手が、どうしてか、すう、と離れたのが、わかった。俺は真昼を横抱きに抱え直し、来た廊下を、正門とは逆の方向へ、走り出していた。逆方向。わかっている。正門はもう開かない。だったら、まだ廊下の内側を、少しでも腕の届かない場所へ。古い病棟図の記憶が、頭の隅で点滅する。東の突き当たりに、非常口のサイン。壊れているとしても、壁の数が、一枚分、違う。
走ると、靴底がタイルに張りつく音が、ぷつ、ぷつ、と糸を引いた。踏むたび、床の人型の染みが、ふくらみ、しぼんだ。染みの上を踏むのは嫌だった。嫌だったのに、避けられないほど増えていた。ひとつ踏むごとに、くるぶしの内側に、小さな「ありがとう」が、吸い付くように鳴いた気がした。気がした、だけだ。気がしただけだと、思い込むしかなかった。思い込まなければ、次の一歩が、踏み出せなかった。染みの縁から、細い髪の毛のようなものが、何本も立ち上がり、俺のズボンの裾を、すれ違いざまに、ちり、ちり、と撫でた。撫でられた布の裏側で、皮膚が、ざわ、と粟立った。
真昼の息が、胸のあたりで、細く続いていた。生きている。生きているうちに、どこかへ、置く。置いて、俺が、戻る。拓也を、少なくとも、灰を、拾いに。美結と沙耶の、染みを、剥がしに。剥がせるのか。剥がすって、どうやって。問いが頭蓋の内側で跳ね返って、どれも答えにならない。答えになる前に、また一歩、染みを踏んで、ぐ、と何かに足首を掴まれかけて、俺はそれを、自分の体重で無理やりちぎった。ちぎれた手応えは、濡れた海苔を引き裂くのに、よく似ていた。
突き当たりだった。
東の廊下の終点、赤い非常口のピクトグラム。枠だけが壁に残り、中身の緑のガラスは割れて、内側の電球が、瓜のように割れた状態で、ぶら下がっていた。扉はなかった。扉のあるはずの場所に、壁が、あった。新しく塗り足されたような、白い漆喰が、長方形に、ぺったり塞いでいた。塗料の縁だけが、まだ、湿って見えた。指先で触れれば、爪の下にめり込んでくるような、生々しい湿り気。
「……そんな」
息が、切れた。振り返ると、廊下の両側から伸びた指が、もう、真ん中で絡み合い、編み目のような格子を作りかけていた。格子が、ゆっくりと、俺の方へ、進んでくる。編み目の一つひとつに、目のない顔が、皮ごと、織り込まれていた。顔たちは、笑っていた。笑いの形の口から、舌が、幾本も、だらりと下がっていた。舌の先からは、透明な涎が、糸を引いて床へ垂れ、落ちた場所の染みが、餌を与えられた花のように、ひらりと開いた。
俺は真昼を床に下ろし、背中で庇った。右腕を前に出す。袖を、左手で、ぐい、と肘まで捲った。
肘の内側から手首まで、書かれていた。
黒い線は、もう文字ではなく、何かの紋様だった。渦巻き、鱗、牙、目。円環の中心に、小さな「口」のような形が、開いたり閉じたりしている。その「口」が、俺の脈に合わせて、舌を出し入れするように、ひくひくと動いていた。肌の下で、誰かが、別の呼吸をしていた。俺の呼吸ではなかった。俺の鼓動でもなかった。だが、確かに、俺の中に、いた。
指の格子が、あと二メートル。一メートル。
俺は、目を、つぶった。つぶらなかった。怖くて、つぶれなかった、が、正しい。瞼の裏側にまで、あの舌の影が、べたりと貼りついてくる気がして、閉じるという行為そのものが、俺を、あちら側へ、引き渡す最後の合図になりそうだった。
そのとき、俺の右目の端、非常口の、塞がれた壁のあたりに、白い、ひとすじの線が、立った。
線は、裾から、ゆっくりと、人の形に、膨らんだ。
白装束。黒い長い髪。伏せた睫毛。土気色の頬に、咲きかけの椿のように、唇だけが濡れていた。裸足の爪先が、床の染みを、一切、踏んでいなかった。染みの方が、彼女の足先を、避けていた。彼女の周りだけ、廊下の淀んだ空気が、薄く、冷たく、透き通っていた。線香とも、雨上がりの土とも違う、もっと古い、紙の匂いがした。
少女は、薄く、微笑んだ。
「あなたは」
声が、廊下の腕の格子を、すっと、通り抜けた。
「喰われない側」
言い終わる前に、少女は俺の前に、音もなく、踏み出した。白い指先が、俺の右腕の紋様に、そっと触れた。触れた一点から、氷の針を刺されたような痺れが、骨を伝って肩まで走り、その痺れの裏側に、不思議と、懐かしいような、湿った甘さが、にじんだ。紋様が、ぞわ、と粟立ち、一段、濃く、黒さを増した。中央の「口」が、ぱくり、と開いた。
廊下の腕の格子の、一番先頭の指が、俺の喉元まで、迫った。
少女の声が、耳の裏に落ちた。
「握ってあげて。潰してあげて。あなたの手は、そのためにあるのよ」
右手が、勝手に動いた。動かされた、のではない。腕の奥で眠っていたものが、今、初めて目を覚まして、俺の指を、内側から、「こう使え」と教えてきた。掌を、大きく開いた。開いた掌の真ん中に、熱が、集まってくる。俺の熱ではない、祖父の、あるいは、もっと前の、誰かの。代々続いた血の奥から、順番に、熱の粒が、こぼれ落ちてくるような感触だった。
俺は、迫ってきた最初の腕を、掴んだ。
その瞬間、掌の中で、指の骨が、豆腐のように、ぐじゅ、と潰れた。皮膚の下の、白い腱が、俺の指の股に、ぬるりと食い込み、そして、崩れた。熱い。指先から手首まで、焼けたフライパンに押しつけたような熱さが走り、同時に、どこか遠い場所で、ひゅ、と、細い悲鳴が上がった。腕は、俺の掌の中で、粉になり、粉のまま、床に落ち、落ちる途中で、黒い灰に、変わっていた。
拓也の、灰と、同じ、色だった。
胸の中で、何かが、ぷつりと切れた。涙は出なかった。代わりに、奥歯が、がちん、と一度、噛み合った。噛み合った奥歯の裏側で、錆びた鉄の味が、じわりと広がった。舌の付け根から、喉の奥へ、熱い塊が、ゆっくり、降りていった。
「……こいつらが」
俺の声は、自分でも驚くほど、低かった。
「こいつらが、拓也を、美結を、沙耶を」
掌の熱が、腕を上り、肩を、鎖骨を、抜けて、心臓の、裏まで、届いた。右腕の紋様の「口」が、ゆっくりと、笑った。
少女が、俺の袖口を、そっと、つまんだ。
「先に、逃げて。今夜の、最初の一本は、私が受け持つから」
格子の第二陣が、迫る。俺は真昼を再び抱え上げ、背後の塞がれた壁を、肩で、殴りつけた。白い漆喰が、ぱき、と裂けた。その裂け目の向こうに、真っ暗な、小さな礼拝堂のような、狭い空間が、見えた気がした。
背後で、少女が、詠うように、名前を、口にした。
「私は、ユウナ。あなたの、血筋を、待っていた者」
俺は、振り向かなかった。振り向いたら、もう、前を向けない気がした。背中越しに、指の格子が、少女の白い腕に、一斉に群がる音が、した。少女は、笑ったまま、ひとつも、悲鳴を、上げなかった。
漆喰の裂け目を、肩ごと、押し拡げた。粉塵が喉を焼いた。真昼の髪が、埃と、血の匂いに、濡れた。
扉の奥の闇の底で、俺の右腕の「口」が、二度目の、脈を、打った。
今度は、飢えの、脈だった。