第2話
第2話
名簿の紙は、下役の指で丁寧に巻き直されていた。朱筆の赤が、巻紙の端から血の一滴のようにのぞいている。わたしは両手でそれを受け取り、膝を折って頭を下げた。指の節が、紙の芯の硬さを覚えていた。
「明朝までに、夜半の刻限と、その者の持ち場を書き添えて届けよ」
下役は言うだけ言うと、袖を翻して去った。足音が遠ざかるまで、わたしは頭を上げなかった。上げれば、顔色を見られる。令嬢であったころ、父の客人の前で顔色を読まれないための作法は、手の中にまだ残っていた。
廊下の端に立ち尽くしたまま、紙を開くことはしなかった。開けば、小鈴の名がそこに書かれている——それは、すでに知っている。問題は、誰がその名を書いたか、なぜ書いたか、だった。
「蘭月」
古参の侍女——朝、簾の前で一歩退いたあの女——が、音もなく近づいてきた。目の下が薄黒い。
「琳殿(りんでん)さまのお部屋、片付けが残っておる。物の怪の穢れじゃ、触りたがる者がおらん。あんたが行っておくれ」
さっき遺体に触れかけた者へ回す言葉としては、十分に冷たい。だが、わたしは頷いた。頷きながら、胸の内で息を整えていた。これは、運が向いたのではない。仕組まれている、とも言い切れない。ただ、下働きにはときどき、選ばせる形で押しつけられる仕事がある。
「かしこまりました」
名簿の巻紙を懐の深いところに押し込み、わたしは片付け用の桶と布を取りに走った。
梅花宮の簾は、昼のうちに張り替えられていた。新しい竹の匂いがする。門番は入れ替わっていて、朝の騒ぎを知らぬ顔で、わたしの桶の中身を一瞥しただけで通した。琳殿の居室は、遺体が運び出されたあとの、からっぽの匂いがしていた。
簾をくぐり、桶を脇に置く。まず扉の内側を確かめた。閂(かんぬき)の金具は、破られた跡がそのまま残っていた。門番が外から突き折ったのだ。内側の閂受けの木片に、細かい割れが走っている。それは動かせない。
次に、窓の格子。指を差し入れ、横棒の下を撫でる。埃は薄く、均等に積もっていた。格子の間に紐や糸の擦り痕はない。この密室は、少なくとも物理的な仕掛けでは破られていない。
床に膝をつき、わたしは敷物の端から、目だけを動かした。
白粉の帯は、朝より薄くなっていた。下役の誰かが、筆で掃い取った痕跡がある。視界に残っているのは、外縁のわずかな筋だ。だが、それで十分だった。
寝台の脚元から、部屋の中央——香炉のあった位置——を経て、扉の内側へ向かって、一筋。
方向がある。寝台側から、扉側へ。
わたしは雑巾を床に当て、拭く動作のまま、粉の残滓を指の腹で拾った。指先を簾越しの光にかざす。粒が細かい。市井の白粉は、もっと粗い。下働きの白粉は、そもそも粉ですらない——膏(あぶら)に近い粗末なものだ。この粒の揃いかたは、篩(ふるい)を二度かけた白粉のものだった。父の書棚にあった薬種帳に、そうあった。公(おおやけ)の白粉屋が、妃嬪付きの侍女の分として納めるのと同じ等級だ。
つまり、ここに散っている白粉は、琳殿のものか、それと同格の者が持ち込んだものだ。
だとすれば、話が繋がる。
わたしは寝台のほうへ目を戻した。敷物の毛並みは、寝台側から扉側へ向かって、わずかに逆撫でになっている。人の足が、その向きに歩いた跡だ。白粉の筋と、毛並みの逆立ちの向きが、一致している。
寝台の脇に、犯人は立った。何らかの行為をした。そして、扉へ向かって歩いた。扉の内側まで来た——。
そこで、わたしは顔を上げた。
扉の閂は、内側から下りていた。内側から閂を下ろしてから、犯人はどこへ消えた。
鉄格子は無傷。床板は軋みなし。天井は低くて届かない。
もう一度、敷物を見た。毛並みの逆立ちは、扉の手前で終わっていた。そこから先、扉までの板の間には、白粉も、毛並みの痕もない。歩いた者は、扉の手前で、消えている。
「……消えたのではない」
自分に、低く言い聞かせた。
消えたのなら、物の怪だ。そうではない。扉の手前で足音を止める理由がある者が、そこに立った。閂を下ろしたのが、その者でなかったのなら——。
背筋が冷たくなった。
寝台のほうへ振り返る。琳殿が倒れていたあたりの敷物を、指先で撫でた。朝は気付かなかったが、寝台側の毛並みだけは、わずかに倒れ方が乱れている。複数の方向から踏まれた跡だ。一方向ではない。
寝台の側で、誰かと誰かが向き合っていた。
白粉の筋は、寝台側の人物——歩き去った者、つまり犯人のほうだ。ならば、寝台側に残って踏みしだいたのは——琳殿自身。
琳殿は、立っていた。
朝の遺体は、床に仰向けで、両手を胸の上に組んで倒れていた。だが、敷物の痕はそう言っていない。琳殿は、少なくとも一度、寝台の脇に立っていた。立って、何かをし——それから、横たわった。横たえられたのかもしれない。
けれど、外傷はなかった。首を絞められた跡も、殴られた跡も、朝の遺体にはなかった。毒のにおいも、下役は嗅ぎ取らなかった。わたしも、嗅がなかった。
ならば、どうやって殺した。
思考が、喉のあたりで詰まる。下働きが考えていい問いではない。これ以上進めば、今日ここに来た理由を、自分で自分に説明できなくなる。片付けに来たのだ。片付けに——。
そのとき、簾の向こうで足音が止まった。
複数。一人は軽い。一人は、妙に重い。
わたしは顔を伏せ、雑巾を絞り直す振りをした。絞る水の音に、自分の鼓動を紛らわせる。簾の隙から、紺の袖の端がのぞく。朝の下役だった。
「まだ残っておったか」
「——片付けの途中でございます。すぐに引かせていただきます」
「よい。ついでに、床の白粉まで残さず取れ。物の怪は、粉の跡を好む」
下役はそう言って、部屋に入ってきた。入ってすぐ、香炉の置かれていた場所を爪先で軽く指した。靴の先が、わたしが朝覚えた位置から、さらに北へ寸を動かしている。香炉は、もう運び出されている。にもかかわらず、この男は、香炉のあった場所を正確に踏んだ。
きりのいい数で止める男。朝、床板の節を数えていた目。この男は、この部屋の中のどこに何があったかを、最初から知っている。
わたしは雑巾を床に押し当てたまま、動かなかった。動けば、顔を上げる。顔を上げれば、目が合う。
「終わったら、桶ごと外に置け。内から触った雑巾を、持ち帰るな」
「かしこまりました」
男は去った。重い足音のほうが、先に去った。軽い足音は、廊下の途中で止まり、しばらく簾の外に気配だけを残してから、ようやく去った。
わたしは雑巾を握りしめた。掌の皮の下で、爪が食い込む。
下働きの身で、関わってよい話ではなかった。令嬢・蘭月は、三年前に死んだのだ。死人が、白粉の筋を読み、敷物の毛並みを数え、香炉の位置を覚えてはいけない。
けれど、わたしの指は、すでに粉を拾ってしまった。わたしの目は、寝台側の毛並みの乱れを見てしまった。そして、あの下役の目が、目の前で、香炉の跡を踏み直していった。
次がある。
そう思った。
この部屋で行われたことが、一度で終わるなら、下役はここまで念入りに痕を踏み直したりはしない。踏み直すということは、もう一度使うということだ。同じ手口を、別の者に対して。
片付けを終え、桶を提げて梅花宮を出た。
外はもう薄暮で、渡り廊下の端の灯籠に、火を入れる小者の背中が見えた。風が冷たい。沈香の残り香は、もうどこにもない。
厨房の裏手に戻ると、小鈴(しょうれい)が井戸の縁にしゃがみ込んで、わたしを待っていた。膝を抱え、袂に顔を半分埋めている。灯りの下で見ると、頬が青い。
「蘭月姉さん。——あたし、呼ばれるの?」
名簿のことを、もう誰かから耳打ちされたのだ。この後宮で、噂は風より速い。
わたしは桶を置き、小鈴の横にしゃがんだ。懐の名簿の芯が、肋を押した。
「呼ばれさせない」
小鈴の目が、丸く開いた。わたしは自分の声の低さに、自分で驚いた。令嬢の蘭月の声が、三年ぶりに、喉の奥から出ていた。
小鈴の手を、わたしは取った。冷たい。井戸水よりも冷たい。その手の甲を、袖の内で、そっと握り直す。
琳殿の部屋の白粉の筋は、扉の手前で止まっていた。
次の筋が、どこから始まるのか——わたしには、まだ分からない。
ただ、遠くではない、ということだけは、分かっていた。