第3話
第3話
井戸端でそう言ったあと、わたしは小鈴の手を離した。離さなければ、わたし自身が崩れそうだった。
「夜の火を落としたら、厨房の裏に来て」
囁くような声だった。周囲に人影はない。小者の気配は、もう灯籠の向こうへ去っている。小鈴は目を一度伏せ、それから小さく頷いた。頷いた拍子に、袂の袖口で鼻をこすった。まだ十四の、湿った仕草だった。
わたしは桶を抱えて、下働き部屋に戻った。布団を敷き、灯芯を細くし、寝入った振りを半刻ばかり続けた。同室の侍女二人の寝息が整うのを待ってから、板戸を音もなく滑らせる。梁から冷えた空気が垂れてきた。
廊下には、月が薄く差していた。厨房の裏手までの道筋は、目を閉じても歩けるほどに覚えている。追放の翌年、空腹に耐えかねて夜の蒸し饅頭を盗もうとして見つかり、老厨娘に杓子で叩かれた——その回り道を、わたしはいまだに身体で覚えていた。令嬢であったころ、屋敷の厨房に足を踏み入れたことなど、数えるほどしかなかったのに。
火を落としたあとの厨房は、灰と味噌の匂いに満ちていた。
小鈴は、すでに竈の前に座っていた。小さな背中を丸め、膝の上で両手を揉んでいる。灯火は小さな油皿一つきりで、顔の半分が橙色に照らされ、もう半分が影になっていた。
「——姉さん」
囁く声が揺れていた。わたしは向かい合うように腰を下ろし、油皿を二人のあいだに置き直した。影の向きが変わり、小鈴の頬の青さが、少しだけ和らいだ。
「誰にも言わないで、聞いて」
わたしは懐から小さな布包みを出した。琳殿(りんでん)の居室の白粉の筋を、指で拾って移しておいたものだ。灯に近づけると、粒の揃いが見える。
「この粉、見たことある?」
小鈴は目を細めた。灯の中に指先を差し入れる仕草をして、けれど触らなかった。鼻先だけ近づけ、息を細くする。
「……これ、玲娥(れいが)さまのお宮で、前に落ちてたのと、同じ」
わたしは自分の息が止まるのを聞いた。
「玲娥さま?」
「うん。あたし、春先まで、玲娥さまのお宮の洗い場にも呼ばれてた。あっちの侍女頭が、うちの水をよく使うからって。その頃、敷物のふちから、この細い粉が散ってるの、よく拭いた。お妃さま本人の白粉は、これよりもっと粗いの。違うの」
小鈴は、触ってもいない指を袖口で拭いた。幼いようで、妙に慎重だった。
「誰が使うのか、分かる?」
「侍女頭、だと思う。名前は蓉香(ようか)さま。細い人。——でも、足音が、どすん、って重たいの。変なの、細い人なのに」
わたしは灯火を見つめた。油の炎が、小鈴の瞳に二つ、小さく映っていた。
鉛を仕込んだ沓。令嬢のころ、父の客に、足音を変えるために裾から鉛を下げて歩く護衛がいた。権高な者が好む習いだ。
「姉さん、怖い顔してる」
小鈴が、そっと手を伸ばした。わたしの袖の端を、指で軽くつまむ。握るのでもなく、掴むのでもなく、ただ、挟む。
「昼、あんなふうに……呼ばれさせないって言ってくれて。あたし、嘘でもよかった」
——嘘、ではない。
そう言い返したかった。喉の奥で、声が一度引き返した。令嬢・蘭月は、誰かに何かを約束する立場で生きていた。下働き・蘭月は、誰とも何も交わさない立場で生きてきた。その三年の距離が、小鈴の細い指の、袖の端への挟み方ひとつで、ひび割れた。
「嘘じゃない」
ようやく、そう言った。
「……姉さんが、下働きじゃない人だって、あたし、たまに思うの」
小鈴は、わたしの顔を見ずに言った。
「言葉遣いが、たまに、違うから。琳殿さまが亡くなった朝、盆の持ち方がすごく綺麗だった。あれ、下働きの持ち方じゃないって、古参のおばさんが、ぼそりと言ってた」
わたしは油皿の火を見たまま、動かなかった。
見られている。三年、誰にも見つからぬように生きてきた身が、十四の娘に、見られていた。
「言いふらさないで」
「言わない。約束する」
「……ありがとう」
礼を言う声が、妙に上擦った。下働き・蘭月は、三年ぶりに、誰かにそれを口にした。
小鈴は、ふ、と笑った。笑うと、頬に浅い靨(えくぼ)ができる。その靨だけは、十四の娘のものだった。
「あたし、琳殿さまのこと、少しだけ知ってた。あの夜着の、襟の内側に、香の移り香——甘いの。あれ、玲娥さまのお宮の香。姉さん、朝、嗅いだでしょ」
「ええ」
「琳殿さま、夜、玲娥さまのお宮のほうに、行ってた気がするの。誰にも内緒で。あたし、一度だけ、渡り廊下で裾を見た。あの夜の沓の音は、蓉香さまじゃなかった。もっと軽い、女の沓だった」
わたしは、灯の熱に指先を近づけた。震えを、炎のせいにした。
琳殿自身が、夜のうちに玲娥の宮へ渡っていた——。
白粉の筋は、琳殿が自分の居室へ戻るときに、裾から落としたものかもしれない。訪ねた者が残したのではなく、訪ねて戻った者が残した——その可能性が、新たに開かれた。
「小鈴」
「うん」
「その話、今夜、わたしにしか言わないで」
「うん」
小鈴は、小さく頷いた。信じる、という頷き方だった。
灯を消すと、厨房は闇に沈んだ。闇の奥で、小鈴の息の音だけが、かすかに聞こえた。わたしは先に立ち上がり、小鈴を先に帰した。足音が遠ざかってから、自分の足音を殺して、下働き部屋へ戻った。板戸を閉めた途端、膝が震えた。震えは、長く止まらなかった。
翌朝、鶏鳴の二度目が鳴る前に、下働き部屋の外で、足音がした。
重い足音だった。
一人ではない。二人、あるいは三人。沓の底が、乾いた廊下を叩いている。鉛を仕込んだ沓の音ではない。これは、内官府の下役の、作業用の沓——。
「——小鈴。小鈴はおるか」
声が、板戸の向こうから降ってきた。わたしは布団から半身を起こしたまま、動けなかった。小鈴は、わたしの寝床の二つ向こうで、身を縮めていた。肩が震えている。
「小鈴っ」
二度目の声で、小鈴は飛び起きた。裾を直す手が追いつかないまま、板戸の前に膝をつく。板戸越しの声が、続けた。
「梅花宮へ参れ。琳殿の夜着を洗った者について、直々に聴取がある」
「梅花宮、で、ございますか……」
「一人で来い。供はいらぬ」
板戸の向こうの足音は、すぐには去らなかった。小鈴が出てくるのを、待っている。
同室の古参の侍女が、布団の中で寝返りを打った。関わるまい、という寝返り方だった。
わたしは布団を撥ね、帯を締め直した。指が、帯の結び方を三年ぶりに間違えかけた。深く息を吸い、もう一度結び直す。令嬢であったころ、侍女の手を借りずに帯を締める稽古を、父は厳しく課していた。あの夜、父は、何を見越していたのか——。
「姉さん」
小鈴が、わたしの袖を、昨夜と同じ手つきで、指で挟んだ。
「大丈夫」
わたしは囁いた。囁きながら、自分のなかで、下働き・蘭月が一歩退き、令嬢・蘭月が一歩進んだ。
「わたしも、梅花宮まで、参ります」
板戸を開けた先に、紺の袖の下役が立っていた。昨日、琳殿の部屋で床板の節を数えていた男だ。目が合った。男の目はわたしを一瞬で値踏みし、すぐに小鈴へ戻った。わたしを、名簿の外にいる者として、最初から数えていない目だった。
「供はいらぬと申した」
「配膳の下役でございます。梅花宮の朝餉は、わたしが運ぶ段取り。道中、小鈴をお預かりし、厨房を経由してから、門までお送りいたします」
嘘だった。けれど、淀みなく出た。令嬢の蘭月が、家中の者に指示を出すときの声だった。下役は一瞬、眉を動かした。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「勝手にせよ。ただし、梅花宮の門までだ。門より奥へは、下働きを入れぬ」
「かしこまりました」
下役たちは、先に廊下を戻っていった。背中が曲がり角に消えるまで、わたしは頭を下げていた。頭を下げた位置で、昨夜小鈴が笑ったときの靨が、まぶたの裏に、浮かんだ。
顔を上げる。
小鈴の手を取った。昨夜よりも、冷たい。
「厨房に寄る。朝餉を運びながら、言うことを、わたしが教える。あなたは、わたしが教えた通りに答えて。一字も、足さずに、引かずに」
「姉さん——」
「わたしはもう、下働きじゃない」
言ったそばから、自分の声に、耳が驚いた。
渡り廊下の端で、朝の沈香が、薄く漂いはじめていた。梅花宮は、もう目覚めている。
配膳盆の支え方を、わたしは令嬢の手つきに戻した。盆の四隅を親指で抑え、小指をそっと遊ばせる——誰にも気付かれぬよう、自分にだけ分かる持ち方で。
その盆の底から、香炉のずれと、白粉の筋と、細い人の重い足音が、一直線に、梅花宮の門のほうへ、伸びていた。
門へ向かう足が、前へ出た。