第1話
第1話
配膳盆を支える指先に、ぬるい汗が滲んだ。
梅花宮の朝の廊下は、普段より一呼吸ぶん静かだった。焚き染めの沈香が簾の向こうから薄く流れてくる。ここは寵妃付きの女官・琳殿(りんでん)の居室だ。朝の粥と薬湯を運ぶのは、わたし——下働き侍女の蘭月の役目である。
「……蘭月。先に、あんたが入りな」
前を歩いていた古参の侍女が、突然足を止めた。声が乾いている。彼女は簾の縁を指で示し、自分は一歩退いた。嗅ぎ慣れない匂いが、沈香の下に紛れていた。鉄の、湿った錆のような——知っている匂いだ。令嬢であったころ、父の仕事部屋で幾度も嗅いだ。
わたしは盆を下ろし、膝をついて簾をめくった。
琳殿は、寝台脇の床に仰向けで倒れていた。両手を胸の上に組み、目を閉じ、口元はわずかに開いている。夜着の襟元は乱れていない。翡翠の簪も、ずれていない。外傷は、ない。
肌はすでに蝋のように白く冷え、薄く紅を残したままの唇だけが、妙に生々しかった。黒髪は枕の縁から一筋こぼれ、畳の目に沿って静かに流れている。わたしは息を殺し、袖口で鼻と口を覆った。死者に触れる前に、自分の気配を消す——それは父が検死の折に必ず見せた所作だった。胸のあたりに手のひらをそっとかざすと、まだほんのわずか、人肌より少しだけ低い温みが残っていた。つい先刻まで、この人は息をしていたのだ。
「……旦那さまをお呼びしてまいります」
背後で古参の侍女が震える声でそう言い、裾を擦って走っていった。
わたしは息を整え、動かないまま遺体を見下ろした。
簾の奥の静けさが、かえって耳を塞いだ。外では朝の雀が鳴いている。部屋の中には、その声すら届いていないような気がした。
扉の閂(かんぬき)は、内側から下りていた。古参の侍女が外から呼び、返事がないので門番が閂を破って開けたばかりの扉だ。つまり、施錠は内側からだった。窓はすべて鉄格子。格子の間は、指一本も通らない。
この部屋は、完全に閉じていた。
両手の組み方が、ほんの少しだけ不自然だった。死んだ人間が自分でこの形を作ることはできない。けれど、胸を押さえて倒れ込めば、この形に近い姿勢にはなる。断じきるには、まだ足りない。
妙だ、と思った。だが、それだけではなかった。
視線をゆっくり流す。桃色の敷物の上に、白粉が薄く散っていた。流れている——寝台のほうから部屋の中央へ向かって、一筋、帯のように伸びている。床は水平のはずだ。何かが空気を押して動かした痕だ。
指の節で床板をそっと叩くと、乾いた木の音が返った。板の継ぎ目は揃い、浮きも軋みもない。隠し戸の類ではない。ならば、この白粉の筋は、人の裾が通った風——それ以外に考えられない。
そして、香炉。
部屋の中央、脇息の横に据えられた銀の香炉が、三寸——指で三本ぶんほど、いつもの位置からずれていた。わたしは毎朝この部屋に配膳を運ぶ。火皿の下の敷石、縁の模様が敷物のどの房に重なるか、覚えている。三寸、南へ動いている。
敷物の房は八寸ごとに紅い糸が編まれている。昨日の朝は、左の脚が二本目の紅糸の真上にあった。今朝は、三本目をさらに南へ越えている。敷物の毛並みを逆に撫でた跡が、二筋。持ち上げて一度置き直すときに、袖か袂が擦ったのだ。香炉を動かしたのは、細い腕の者——。
誰かがこの部屋に入った。入って、香炉を動かし、敷物の上を歩き、帰っていった。扉の閂は下りていた。それなのに、部屋は完全には閉じていなかった。
「……妙だ」
声が、小さく漏れた。
心の奥で、父の声がよみがえる。「鼻で見ろ、目で嗅げ」——子どもの頃、幾度言われたか分からない言葉だった。
やがて内官府の下役が駆け込んできた。顔に覚えのない男だ。遺体を一瞥しただけで、帯に挟んだ筆を抜き、墨を含ませた。
男の目は、遺体を見ていなかった。床板の節を数えていた。数えて、きりのいい数で止める。数えた先に何があるかを、最初から知っているような目だった。
「外傷なし。毒のにおい、なし。施錠は内側から……」
つぶやきながら、懐から香袋を取り出してあたりを払う。邪気払いだった。袋のふちから白い粉が散り、朝の沈香とは別の、線の細い甘さが畳に広がる。
「物の怪の仕業であろうな」
わたしは聞き間違いかと思った。
「内側から閂を下ろしたまま、女が死んだ。鉄格子も無傷。人には不可能だ。梅花宮は昔から、この手の怪異がある」
男の筆は、紙の上をするすると滑っていく。迷いがない。検めた痕跡ではなく、最初から決まっていた文言を写しているような動きだった。
「……香炉が」
うつむいたまま、わたしの口から声が出ていた。
「なに?」
「——いえ。盆の片付けを、失礼いたします」
わたしはぱっと顔を伏せた。喉の奥に、苦い唾が溜まっている。言ってはいけない。見てはいけない。知ってはいけない——そう自分に言い聞かせながら、盆の縁を握る指だけが、勝手に強張っていく。
下働きは、余計なものを見ない。見ても、見なかったことにする。それが、追放されて身分を捨てた日、自分に課した唯一の掟だった。令嬢時代の知識も、父の仕事部屋で覚えた検死の手順も、使わないことで守ってきた身の上だ。
それなのに。
香炉の三寸のずれが、まぶたの裏に焼きついて離れない。
退出の廊下で、朝と同じ沈香が鼻のすぐ下を通った。この香は、梅花宮の調合だ。沈香に、ほのかに丁子(ちょうじ)を利かせてある。だが、先刻の部屋で嗅いだ香には、どこか甘い——蜂蜜のような——異物が混じっていた。
違う香だった。誰かが、あの部屋で別の香を焚いた。
わたしはそれを、口に出さなかった。
厨房の裏手に戻ったときには、午(ひる)を知らせる太鼓が鳴りはじめていた。
下働き用の井戸端で、小鈴(しょうれい)が冷水に手を浸していた。まだ十四の、目の大きな侍女だ。わたしを見ると、洗い物の手を止めて駆け寄ってきた。
「蘭月姉さん、顔が白いよ。朝、梅花宮で、琳殿さまが……」
「物の怪だそうです」
わたしは井戸の縁に腰を下ろし、手を洗った。水が痛いほど冷たい。そこでようやく、指先が震えているのに気付いた。
「本当に、物の怪かな」
小鈴は小さな声で言った。周囲を素早く見回してから、わたしの耳元に口を寄せる。
「どうして、そう思うの」
「……昨日の夜、琳殿さま、泣いてらしたの。朝の洗濯で、夜着を預かったから。涙の染み。それから」
声をさらに落として。
「脇に、指の痕。青い、丸い痣が、五つ」
わたしは、水から指を引き上げた。冷え切った指先が、空気に触れた途端、じわりと痺れた。
「脇、の?」
「うん。夜着の、こう、肋(あばら)のあたりに、掴まれた跡みたいに、くっきり五つ、並んでた。大人の男の指の幅じゃなかった。もっと、細くて」
小鈴は自分の脇に手を当てて、思い出しながら指を広げてみせた。手首まで赤らんだ細い指が、自分の肋をなぞる様子は、どこか頼りなかった。
「それと、襟の内側に、お香の匂い。うちの梅花宮のじゃない、もっと甘い、花の——」
「蜂蜜のような?」
「——そう、そうそれ」
琳殿の夜着には、首ではなく脇を掴まれた形跡があった。それは、物の怪ではない。人の手だ。——だが、朝のわたしが見た遺体の襟元は、きちんと整えられていた。誰かが夜着の襟をずらし、誰かが痕を隠すように襟を戻した。
死んでから、触れた者がいる。
「小鈴」
「うん?」
「琳殿さまの夜着は、今どこに」
「洗って、干してあるよ。いま取ってくる」
明るく駆けていく背を、わたしは目で追った。爪が掌に食い込む。あの痕を証拠に残してはいけない。昨夜の洗濯物を最後に扱った者が、真っ先に疑われる。この後宮で、疑われた下働きがどう扱われるかを、わたしは知っていた。舌を噛まされる前に、舌を自ら噛んだ者が幾人いたか——それも、父の仕事部屋で耳にした話だった。
夕暮れの風が、廊下の端から冷たく這い上がってきた。沈香の残り香はもう消え、代わりに厨房のほうから魚を炙る煙が薄く届く。それでも、わたしの鼻の奥には、朝のあの甘い異香が貼りついたままだった。
夕暮れの配膳の刻に、内官府から使いが来た。
梅花宮の近くで、夜半に人影を見た者の名簿を、急ぎ届けよとの命だった。名簿の頭には、朱筆で名が一つ書き添えられている。
——琳殿の夜着を洗った者。
小鈴の名だ。
わたしは、廊下の柱に手をついた。掌の下で、古い木の節が、爪のように指に食い込む。
令嬢の蘭月は、三年前に死んだ。下働きの蘭月は、誰にも見つからず、ただ静かに息をして、配膳盆を運ぶ者のはずだった。
令嬢・蘭月の指は、細筆を握るために整えられていた。下働き・蘭月の指は、重い盆を支えるために固くなった。その両方の指先が、いま、同じ震え方をしている。
それなのに、香炉の三寸のずれが、まぶたの裏で、まだ南に動き続けている。
わたしは、動いた香炉を見た者だ。
名簿を受け取った指が、震えた。