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黒崎、二度目の戦争

第2話 第2話

第2話

第2話

排煙口から、夜が落ちてくる。雨と、煙と、遠い赤色灯の明滅。

黒崎は倒した兵士の襟を掴み、仰向けに転がした。弾倉を抜き、自分のポーチへ移す。無線機をもぎ取る。イヤホンを耳に押し込む。ノイズの奥で、誰かが早口の指示を出していた。包囲完了、第二波準備、熱源反応待機。鼓膜の内側で、聞き覚えのある抑揚が、また薄く掠めた。

「西側から煙だ、排煙口、確認急げ」

声の語尾が、上へ跳ねる。癖。記憶が、後頭部の裏で一瞬だけ疼いた。どこかの演習場の、夜間訓練の雨。泥の中でうつ伏せになっていた副長が、同じ語尾で指示を飛ばしていた。あのときは、頼もしい癖だと思っていた。今は、喉の裏に錆の味を残す癖だった。

梁を蹴る。二度。鋼索ガンを撃ち上げ、鉤が天井裏の鉄骨に食い込む。肩の筋肉が引き絞られ、腹の奥に鉛のような重さが落ちた。指先、まだ震えない。

排煙口の縁を掴む。鉄の錆が掌の皮を裂く。痛みは、脳の奥へ迂回させた。湿った金属の匂い、雨が錆と混じった鉄粉の味が、舌の先に届く。裂けた皮膚から雨水が入り込み、ピリ、と遅れた熱が走る。それも、脳の奥の同じ場所へ押し込んだ。痛みを感じる引き出しは、今は閉めておく。

屋根へ、身体を押し上げた。

雨が顔を殴る。秒速三メートルの北東風が、頬の血飛沫を横へ流していく。倉庫の屋根は斜め十二度、濡れた鉄板が足裏をじりじりと滑らせた。四十メートル先、端に、水色のジュラルミンケース。三年前に自分で埋めた備蓄。誰にも教えていない。

まだ、そこにある。

膝を落として這う。ブーツの底が雨溝を掴む。一歩ごとに、遠くで装甲車のエンジンが唸った。その振動が、屋根の鉄板を通して太ももまで登ってくる。腿の奥の古い傷が、その振動に反応して疼いた。三年前の夜、家族の家の玄関先で、同じ周波数の振動を聞いたことがあった。身体は覚えている。脳より先に。

ケースの錠を、親指で回す。〇四一六。娘の誕生日。一度として変えていない。鍵は、いつでも指が覚えていた。

蓋を開ける。

対物ライフル、分解状態。銃身、機関部、バイポッド、スコープ、弾倉。雨を受けても動じない油の皮膜が、黒く光った。

組む。

銃身を機関部にねじ込む。〇・八秒。バイポッドを展開。〇・五秒。スコープを載せる。〇・七秒。弾倉を差し、スライドを引く。〇・四秒。

合計、二秒四。訓練した身体が、雨の夜をもう一度組み立てていく。指の腹が、金属の各部品の温度差を拾う。銃身は外気と同じ冷たさ。機関部は、手袋越しでも、油の粘度が氷点下手前であることを告げていた。

倉庫の縁まで腹ばいで進んだ。屋根の端から下を覗く。闇の底、装甲車が扇形に広がっていた。数えるまでもない。二十台。ヘッドライトの束が倉庫の正面を白く焼き、兵士たちがシルエットで盾壁を組んでいる。旧式じゃない。最新のMRAP、対弾ガラス、排気口まで装甲板。

オルクスの予算じゃない。

国家級の装備だ。誰かが、彼らに貸している。

黒崎はスコープの接眼部を瞼に押し付けた。ゴムリングの冷たさが、眼窩の骨に沈む。

先頭車両のエンジンブロックを捉える。水平距離二百十メートル、俯角三度、風は横から。照準レティクルの交点を、ボンネットの中央へ沈めた。指を、引き金の骨に沿わせる。

「一両目、エンジン」

独り言。自分に指示を出す癖。教官に叩き込まれた。

その教官の顔が、一瞬だけスコープの縁に滲んだ気がした。振り払う。今は、撃つ。

撃つ。

銃口炎が、雨を一瞬だけ白くした。反動が肩を突き上げる。薬莢が屋根の鉄板を跳ね、澄んだ金属音。

二百十メートル先、先頭車両のボンネットが内側から弾けた。エンジンブロックを貫通した対物弾が、次の車両の燃料タンクへ届く。

静寂、一拍。

赤い球が、膨らんだ。

爆発の熱が、二百メートル向こうから屋根まで届いた。頬の産毛が一瞬で反り返る。夜空の底が、オレンジに染まる。雨粒が光を反射して、金色の針の雨になった。

兵士たちが倒れ、起き上がり、叫ぶ。盾壁が崩れる。通信が悲鳴で埋まった。

「二両目、タンク」

撃つ。同じ。連鎖。

三両目、四両目。炎が横へ走る。装甲車の塗装が剥がれ、溶けたゴムの匂いが風に乗って屋根まで昇ってきた。吐き気はない。鼻の奥が、ただ、焦げる。舌の上に、鉄錆とガソリンの蒸気が混じった苦い膜が張った。唾を飲んでも落ちない。

五両目の手前で、黒崎は引き金から指を抜いた。

残り十五両、弾倉は空に近い。これ以上はコストが合わない。

無線機から、焦った声。

「狙撃手、屋根だ、西側屋根──北から回り込め、ヘリ要請、ヘリ──」

聞き覚えが、また。

抑揚、語尾の上がり方、吸う息の間合い。三年前、自分の小隊の副長を務めていた男の癖と、寸分違わない。あの夜、家族の家に最初に踏み込んだ分隊長の声と、同じ。

息が、一瞬、喉で止まった。スコープを覗いたまま、黒崎は瞬きを忘れた。雨粒が睫毛に積もって、視界の端を歪める。それでも、耳だけは、声の輪郭を刃物のように研ぎ続けていた。呼気、二拍、短く吸って、長く吐く。狙撃手の呼吸。自分が教えた呼吸だった。

胸の奥の何かが、ことりと音を立てて、座る場所を見つけた。

ここ数年、頭の隅で答えの出なかった問いが、ようやく収まるべき場所に落ちた音だった。副長の不自然な異動、あの夜の監視網の空白、事後の捜査がやけに早く打ち切られたこと。点だったものが、線で繋がる。線が、一人の人間の掌の形に、ゆっくりと曲がっていく。指の関節が、引き金の骨の上で、ほんの僅かに冷たくなった。

筋書きは、もっと根が深い。副長が裏切ったのではない。最初から、誰かが副長を配置していた。自分の背後に、ずっと、あの男を置いていた誰かがいる。

教官か。

可能性として、ずっと頭の隅に弾き出していた名前だった。弾き出していた、ということは、最初から候補に入っていたということだ。胸の底で、それを認めるのを避け続けてきた自分がいる。あの人の背中を思い出すたび、嘘であってくれと祈った夜が、何度あったか。祈りは、今、冷たい金属音と共に砕けた。

唇が動きかけて、止まった。まだ、口に出す段階じゃない。名前を舌に乗せた瞬間、そちらへ全てが傾いてしまう。まだ、重心を保たなければならない。屋根の上、生きて帰るまでは。

装甲車の残骸から、二次爆発。黒い柱が立ち上がる。その根元で、兵士たちが倒れた仲間を引きずっていた。盾壁の指揮官らしき影が、両手で顔を覆い、肩が小さく痙攣している。震えている。人を燃やした経験がない男だ。

屋根の上、黒崎は立ち上がった。

雨が、髪から顎の先まで流れ落ちる。シャツの内側で、男の脳漿がまだ冷めていなかった。頬骨の内側で、三年分の疲労が静かに沈殿していく。けれど、指は震えていない。引き金に載せた指の関節は、むしろ乾いていた。

「二度目の戦争だ」

自分に、言った。風が半分、言葉をさらった。残りの半分は、胸郭の内側で跳ね返って、鼓動のひとつに溶けた。一度目は、家族を奪われて終わった戦争。二度目は、奪った者たちの背骨を、一本ずつ折りに行く戦争。規則は、もう自分で書く。

対物ライフルを肩に担ぐ。残り弾倉一本。鋼索ガンの残弾、鉤付きワイヤー二本。屋根の北縁、五十メートル先に給水塔。さらにその先、百メートルで河川敷。河川敷の下に地下水路の排水口。甘利のセーフハウスまで、二度の滑走と一度の潜行。

ヘリが、来る。

空の西側、低空。ローター音が雨音の層を裂いて近づいてきた。まだ姿は見えない。だが、音の位相が変わる瞬間で、距離は測れる。あと、四十秒。

黒崎はケースから鋼索ガンを取り上げ、安全装置を外した。引き金の重さが、手首の骨に馴染む。

背後の炎を置き去りに、北へ走った。

濡れた鉄板の上を、靴底が擦る。一歩、二歩、加速。屋根の縁で、空が切れる。踏み切って、鋼索ガンの銃口を給水塔の鉄骨へ向ける。

撃つ。

鉤が、夜を裂いた。

身体が、宙に浮いた瞬間。

西の空の低いところで、サーチライトが一筋、まっすぐ黒崎を刺した。

ヘリの腹、機銃座。口径十二・七ミリ。引き金に指が掛かる気配が、耳の奥で、聞こえた気がした。

雨が、光の束の中で、銀色に止まって見えた。

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