第1話
第1話
銃声を二秒だけ遅らせる。雨が鉄屋根を叩く音に紛れさせるためだ。
黒崎は廃倉庫の梁の上で、血に濡れた右手の指をスコープに添えた。弾倉、残り九発。心拍、毎分五十二。風、北東から秒速三メートル。雨粒がレンズに這うが、拭わない。拭えば狙いがずれる。鉄骨の冷たさが腹筋を通して背骨まで届いている。朽ちた塗料の錆臭い匂いと、遠くで漏れ出る重油の甘さが、舌の奥に絡みついた。
四十八メートル下、同僚だった男が煙草に火を点けた。三年前まで同じ部隊で背中を預け合った顔だ。今は獲物の顔にしか見えない。ライターの火が一瞬だけ男の目元を照らす。そこに浮かんだのは、警戒でも恐怖でもなく、退屈の色だった。こちらの気配に気づいてすらいない。かつて同じ教官の下で狙撃訓練を受けたはずの男が、自分を狩る側に回ったと信じ切っている。
指先に、震えが走る。
殺すためじゃない。吐かせるためだ。家族を奪った黒幕の名を、こいつの喉から引きずり出す。妻の最後の声が耳の奥にまだ残っている。娘の指が、焦げた木の下から覗いていた光景も、焼き付いて消えない。その名前を知るためだけに、この三年を生き延びた。眠りは三時間以上取らず、食事は立ったまま済ませ、笑うことを忘れた。忘れたのではない、捨てた。
息を止める。心臓の拍動の谷を数える。一、二──撃つ。
乾いた発砲音。右肩が弾け、男が倒れた。悲鳴ではなく、罵声が上がる。生きている。狙い通りだ。
黒崎は梁から鋼索を蹴り、床へ降りた。膝を落として着地する。コンクリの埃が舞い上がり、雨に濡れた床が靴底で軋む。拳銃を引き抜き、男の額へ向ける。銃口と肌の距離、五センチ。男の呼吸は浅く、肩の傷からは鉄の匂いが立ち上っていた。歯の隙間から、血の混じった唾が糸を引いて床へ落ちる。その唾の色が、黒崎の記憶の奥にある光景──妻を抱き上げた時の手のひらに広がった赤──と、同じ粘度で重なった。
「吐け。次は膝じゃ済まない」
声は、自分のものとは思えないほど低く、乾いていた。
そこで初めて、男の目が黒崎を捉えた。
笑った。笑いやがった。
「お前こそ……嵌められたんだぞ」
指が、固まる。
「何だと」
男の肩から黒い血が流れ、床の水溜まりに混ざっていく。煙草は消えず、唇の端で燻っている。灰が、ゆっくりと男の頬を滑り落ちた。滑り落ちた灰の先、床の水たまりには、黒崎自身の影が歪んで映っていた。雨音が、ひどく遠くに聞こえる。
「三年前の任務……お前、命令通りに動いたと思ってるだろ。全部、筋書きだ。お前を生かして、泳がせて、見世物にするための──」
話が早すぎる。情報屋が三年かけて追えなかった名前を、こいつは一呼吸で吐こうとしている。罠の匂いがする。だが、本能が叫ぶより先に、続きを聞きたい指が、既に銃口を逸らしかけていた。喉の奥が渇く。唾を飲もうとして、飲み込めなかった。舌の先に、血と鉄と、雨の匂いだけが残る。
「誰が引いた。誰が家族を──」
窓が、砕けた。
一斉に。四方、八方から。ガラスの雨が降る前に、閃光弾が先に床を転がった。転がる金属の音が、やけに澄んで耳に届く。嫌な音だ。三年前、自分が部下に投げさせた音と、寸分違わない。
白。音。無音。
視界の半分が焼けた。黒崎は目を閉じ、左手で男の襟首を掴んで床に引き倒した。訓練された反応。光を見るな、耳を開くな、位置を感覚で測れ。鼓膜の奥で高周波のノイズが鳴り続け、頬の皮膚が焼けたように熱を持っている。眼球の裏で白い残像がちらつき、そこに、焼け落ちた家の輪郭が一瞬だけ重なった。梁が崩れ、屋根瓦が砕け、煙の向こうで誰かが自分の名を呼んだ、あの夜の輪郭。
硝煙の匂い。重い軍靴。複数。前から二、右から三、後方から二──計七人。オルクスの精鋭小隊の突入陣形。三年前、自分が組んだ配置と、一ミリも違わない。
「起きろ、話せ──」
言いかけた黒崎の耳元で、濡れた音が爆ぜた。
男の頭が、弾けた。
温い飛沫が頬にかかる。鉄の味が舌の奥に届く。脳漿の断片が首筋を這い、シャツの襟の内側へ滑り込んでいく。その感触の一つ一つを、黒崎は妙に正確に認識していた。耳の裏、顎のライン、鎖骨の窪み。どこに何が付着したかを、訓練された脳が勝手に記録していく。感情は、まだ追いついていなかった。
口封じ。
こいつを黙らせるために来た。黒崎を殺しに来たわけじゃない──いや、違う。逆だ。自分こそが、組織の消し残しだった。
三年間、復讐者として振る舞いながら、ずっと観察され、泳がされ、計測されていた獲物。家族の死も、任務の失敗も、すべて誰かが紙に書いた筋書きの、一行に過ぎなかった。妻が最後に握った手の温度も、娘が泣きじゃくった夜の重さも、誰かの実験帳の余白に書き込まれた数字でしかなかったのか。
胸の奥で、怒りが一瞬だけ燃えた。
そして、凍った。
凍った熱は、震えではなく、照準になる。
梁。三メートル先、鉄骨の継ぎ目。黒崎は床を蹴り、死体を盾にして跳んだ。掴む、登る、呼吸を整える。二秒。背中に弾着の鈍い音が連続する。死体の肉が衝撃を吸い、骨が軋む。その感触越しに、自分の鼓動だけが異様に澄んで聞こえた。
暗がりに、溶けた。
下で、声が響く。
「目標、確認できず。捜索拡大」
通信越しの指揮官の声。ざらついた、聞き覚えのある抑揚。記憶の奥で、何かが引っかかった。だが、今は置いておく。知っている声だ、と脳の片隅が警告を鳴らす。その引っかかりにどれだけの真実が埋まっているのか、後で必ず掘り返す。生き延びれば、の話だが。
黒崎はホルスターから予備のハンドガンを抜いた。狙撃用ではない。近距離用。引き金の重さが違う。指を掛け、息を三度吸って、天井裏を見上げる。埃と雨漏りの匂いが、鼻腔の奥で交じり合った。
配電盤。
北壁の上、錆の浮いたケースが雨漏りで濡れている。そこに全照明の電源が集まっている。三年前の下見で自分が確認した配置。変わっていない。放置された設備。オルクスの油断。あるいは、黒崎を引き込むための舞台装置として、あえてそのままにされていたのか。どちらでもいい。使えるものは使う。
一発。
乾いた音。倉庫の全照明が、落ちた。
闇。
黒崎の瞳孔が開くのに、〇・四秒。
これで、庭になる。狙撃手の庭だ。
視界を失った者は、音で動く。音で動く者は、呼吸で位置を教える。息を殺せる兵士は少ない。焦った兵士は、もっと少ない。
足音を数える。重心の置き方を測る。前方八メートル、右の兵士が床を擦った──未熟。息が短く、肩が上下している。暗視装置を持ち込まなかったのは、指揮官の油断か、急いで編成された小隊だからか。どちらにせよ、格好の獲物だ。
ハンドガンの銃身を水平に保ち、喉の位置へ一発。
音もなく、崩れる。
仲間が気づく前に、左へ三歩。梁の影へ滑り込む。二人目、前方五メートル、呼吸が荒い──恐怖を感じ始めている。こめかみへ一発。
影が床に重なる音。小さい。
三人目は、倒れた仲間の方向へ銃口を向けた。向けた瞬間、首筋が無防備になる。そこへ一発。熱を帯びた薬莢が床に落ち、ちりん、と小さく鳴った。
通信が、焦り始めた。
「三名ダウン、位置確認できず──どこだ、どこにいる──」
黒崎は、最後の兵士の背後に、すでに立っていた。
音を立てずに、兵士の首へ腕を回す。喉を絞める。意識が飛ぶ直前、耳元へ口を寄せた。
「オルクスに伝えろ。黒崎は、生きてる、と」
兵士の瞳孔が、絶望の色に染まる前に、落ちた。床へ放る。軍靴の踵が、水溜まりを跳ねる。
黒崎は倉庫の壁に背を預け、頬の血を拭った。掌についた赤が、闇の中で黒く見える。自分の血なのか、男の血なのか、もう区別もつかない。
指は、もう震えていなかった。
外では、雨が強くなっている。装甲車の重いエンジン音が、二十個分、地面を揺らしていた。包囲網。想定済み。愛銃は、屋根のケースの中だ。
三秒あればいい。
復讐は、個人戦じゃなくなった。組織ごと、根こそぎ、削り落とす。そのためにはまず、ここを抜ける。唯一信じられる情報屋のもとへ辿り着く。妻と娘の墓に、名前を刻むのはその後だ。
黒崎は天井の排煙口を見上げた。雨水が、そこから一筋、流れ込んでいた。その細い水脈の先に、外界の黒い空が覗いている。
三年間、自分は獲物だった。
今夜からは、違う。