第3話
第3話
銃声が、後頭部の裏を殴る。
十二・七ミリ。重機関銃の連射音は、雨音の上に黒い帯を引いた。黒崎は鋼索の上、宙吊りのまま身を捻る。最初の三発、左の肩先を抜けていった。熱風が耳たぶを舐める。四発目、右腰のすぐ横、ベルトのバックルに当たって火花が散った。金属の味が舌の奥に跳ねる。五発目から先は、雨の粒の間を縫って後ろへ流れていった。
サーチライトの光が、顔を真っ白に焼く。瞼の裏で網膜が焦げた。見えない。見る必要はない。耳と、皮膚と、腰の輪転盤の回転数で、位置は把握できる。残り滑走距離、給水塔まで二十二メートル。ヘリ、後方五十メートル、高度三十メートル。ローター音の位相がずれる──機体を傾けて照準を立て直している。
鋼索ガンの輪転盤が、掌の中で軋んだ。ワイヤーの巻き取り速度、毎秒九メートル。空気抵抗を計算する暇はない。腹筋だけで身体を引き上げる。雨がシャツの内側を流れ、脇腹の古い縫合痕を冷やした。痛みは、脳の同じ引き出しへ押し込む。さっき閉めたばかりの、あの引き出しへ。
給水塔の鉄骨が、視界の下から迫り上がる。
足を曲げ、鉄骨を蹴って減速。膝で衝撃を吸う。塔の内側、錆びた鉄梯子の陰へ身を滑り込ませた。ワイヤーを切断、鋼索ガンをホルスターへ戻す。対物ライフルを背中から回す。残弾、一発。
ヘリが、給水塔の周囲を旋回し始めた。ローター音が、空洞を共鳴させる。内臓が振動で揺れる。歯の奥で、鉄の味が、また。鉄骨の隙間から覗く夜空が、ライトの白で切り裂かれては縫い合わされ、また裂ける。雨粒は光の中で停止して見える。一粒ずつ、針のように。皮膚の上で弾けるたびに、温度を奪われていく感覚だけが、自分が生きている輪郭を描いていた。
「──C、C、目標消失、どこだ、どこにいる──」
無線の中で、さっきの声が、抑揚を失い始めた。語尾が上がらない。癖が剥がれた。焦ると、人は訓練を忘れる。自分が叩き込んだ教えの、ちょうど裏返しだった。喉の奥で、苦いものが膨らむ。あの語尾の癖を直そうとして、ついに直せなかった日の、湿った訓練場の空気が、舌の根へ蘇る。今、自分の耳に届いている剥がれた声は、自分が完成させなかった仕事の、最後の一行だった。
黒崎は給水塔の外壁に背を預けた。鉄板の冷たさが、シャツを通して肩甲骨の間へ届く。スコープを覗く。ローター、機首から五メートル後方、テールブーム根元の変速ギアハウジング。三十八メートル、俯角マイナス十二度、風は秒速四メートルへ強まった。
対物ライフルの重さが、腕の骨に沈む。バイポッドは使えない。肩付けで撃つ。衝撃は、背後の鉄骨に預ける。教官の声が、頭蓋の内側で一度だけ鳴った。肩の肉で殺すな、骨で受けろ──教わった日の、乾いた声だ。
今は、思い出さない。
息を、吐く。三秒。吸う、一秒。止める。
撃つ。
発砲音が給水塔の空洞で三重に跳ね返った。肩が、背骨ごと後ろへ押される。鉄骨に叩きつけられた背中の皮膚が裂ける。その熱も、引き出しへ。鼻腔の奥で、火薬の甘い焦げが咲いた。両耳の中で、高い金属音が一本立つ。世界の音が、その一本の細い線の向こう側へ、束になって退いていく。
弾は、ギアハウジングの中心を貫いた。
スコープの中で、火花は咲く前に消えた。装甲板の上で、銀色の小さな点が一瞬だけ膨らみ、すぐに闇へ吸い込まれる。命中の手応えは、いつも、こんなふうに静かだ。
一瞬、ヘリが沈黙する。
それから、金属の悲鳴が始まった。変速機が内側から砕ける音、オイルが噴き出す音、ローター回転数が狂い始める音。機体が横へ傾く。パイロットが立て直そうとする。無理だ。テールローターの制御軸が既に折れている。機首が下を向いた。サーチライトの光が、地面を舐めるように回った。
「墜ちる──!」
誰かが無線で叫んだ。副長の声じゃない。若い、裏返った声。新米が混じっていた。急いで編成した小隊。勘定外の情報、一つ。脳の片隅へ置く。
ヘリは、装甲車の燃え残った残骸の真上へ、落ちた。
火柱が、屋根の上の空気まで震わせた。熱が頬を殴る。黒崎は目を伏せる。瞼を透かして、夜空の底が、もう一度赤く染まった。爆風が遅れて届き、給水塔の鉄板が一斉に鳴った。耳の中で立っていた金属音が、その鳴りに紛れて、ようやく途切れる。代わりに、燃料の焦げる甘ったるい匂いが、雨の粒に乗って這い上がってきた。誰かの肉が混じっている匂い、と、識別する自分の鼻を、黒崎は静かに憎んだ。
鉄梯子を、三段飛ばしで降りる。
河川敷まで、百メートル。
給水塔の足元から、濡れた雑草の斜面。足首が沈む泥。胸まで伸びたススキの群れ。黒崎は腰を落として斜面を滑り降りた。泥の匂い、腐葉土、下水の酸っぱい風。シャツの裾が枯草に絡みつき、引き千切る音が、自分の呼吸と重なった。ススキの穂先が頬を切る。細い、紙で切ったような痛み。それが、火傷とは違う温度で、皮膚の表面に小さな現実を縫いつけた。
無線は、外さない。
「──生存者、四号車から三名、五号車から二名、救出優先、熱源スキャン、広げろ、広げろ──」
指揮官の声は、別人に代わっていた。さっきの、語尾の上がる副長の声は、消えていた。機体と一緒に落ちたのか。指揮を放棄して退いたのか。
どちらでもいい。今は。
橋脚の根元、コンクリートの継ぎ目。雨で苔が浮き、触れると指先にぬめりが移る。その奥に、排水口。直径一メートル二十。鉄格子は、三年前に自分で一本だけ外しておいた。錆の進み具合を指の爪で確かめる。問題ない。外れる。
中へ、滑り込んだ。
水位、膝まで。流速は、まだ緩い。雨で増水する前に抜ける。甘利のセーフハウスまで、地下水路を北へ千三百メートル。三本の分岐、二つの水門。水門の暗証番号は、娘の誕生日の逆並び。
水音が、耳の裏で反響する。
歩きながら、黒崎は顔の血を水で洗った。掌で頬を拭う。同僚の脳漿、兵士の血、自分の唇を切った傷の血。全部、下水へ流れていく。硝煙の匂いも、少しずつ薄れた。替わって、鉄錆と、古い油と、腐った木の匂いが、鼻腔を満たす。指の腹に残った血の粘りは、水で洗っても完全には落ちない。爪と皮膚の境目に、赤黒い線が一本、線路のように残った。それを、何度も水につけて擦る。擦るほど、消えない。
水路の天井から、雫が首筋へ落ちる。冷たい一滴ごとに、心拍が一つだけ遅くなる。自分の呼吸の音が、コンクリートの管に増幅されて、自分よりも先を歩いていく。前を歩く誰かが、自分と同じ歩幅で、ずっと付き添っているような錯覚。振り返らない。振り返ったら、いる。
胸の奥の熱は、まだ冷えない。
副長の声。あれを自分の背後に配置した誰か。三年間、いや、もっと前から、ずっと肩の後ろに立っていた掌。教官の顔が、ふと、水面に映った気がした。波紋で崩れた。崩れた輪郭の上に、もう一度、別の顔が重なりかける。それも、振り払う。今、顔を一つに決めてはいけない。決めた瞬間、そこから先の景色は、その顔に都合のいい線でしか描かれなくなる。スコープと同じだ。覗く前に標的を決めた撃ち手は、必ず外す。
名前を、まだ、口に出さない。
甘利のところへ辿り着き、紙を見てからでいい。人間の記憶は勝手に筋書きを書く。スコープ越しでしか、信じない。
無線から、声が消えた。電波の届かない深さまで、来ていた。
水路の先、三本目の分岐を左へ折れる。
鉄の梯子。上に、セーフハウスの床下通路。
黒崎は一度、立ち止まった。
梯子の一段目、濡れた鉄。指の腹で撫でる。そこに、わずかな、油の跡。自分のものじゃない。甘利は、梯子に油を残さない男だ。指先に移った油を、唇の近くまで持っていく。匂いだけを嗅ぐ。植物油じゃない。鉱油でもない。銃の遊底に薄く差す、あの合成油の、わずかに甘い残り香。軍用ではない。民間の、しかし入手経路が限られる、特定の銘柄。記憶の引き出しが、勝手に一つ滑り出る。閉め直す。今は、銘柄の名前も、口にしない。
先客。
対物ライフルを背から回す。残弾一発。弾倉の重さを、掌で確かめる。
上で、微かな足音。
二人分。
黒崎は、梯子の下で、呼吸を整えた。吐く息が、水面に小さな波紋を作る。波紋が消えるまでの拍を数える。一拍、二拍、三拍。心臓が、その数に従って、静かに沈んでいく。背後の水の流れが、足首の温度を一定に保ってくれている。冷たさは、もう、味方だ。
指は、もう、震えていない。