第2話
第2話
ぎしり、と木の軋む音が、もう一段、近づいた。
私は板で塞がれた玄関に背を張りつけたまま、動けずにいた。釘頭の銀色が、懐中電灯の反射で、目の端を刺す。畳の下の呼吸は、いつの間にか止んでいた。止んだことが、怖かった。息を止めた何かは、耳を澄ましているのだ。私の靴底が次にどちらへ動くか、確かめている。
ぎしり。
八段目くらい、だろうか。まだ見えない。階段の途中で、何かが一度降りかけては、一呼吸置いて、また降りる。その拍子は人の歩幅ではなかった。歩幅というより、重さを足場に移す間隔だ。片足を置き、板が悲鳴を上げるのを待ってから、次の足を運ぶ。そういう、確かめるような降り方だった。
逃げる、と頭の一番浅い場所が言った。
逃げる。どこへ。
玄関は板。廊下の先は、あの懐中電灯が勝手に点滅している突き当たり。大広間は引き戸が閉まっていて、開ける音は確実に向こうに届く。厨房は──さっき、黒い影が吸い込まれていった柱の、その先。
残っているのは、右手の障子の向こうだけだった。
使用人の控え室か、次の間か、私には分からない。ただ、紙一枚を隔てた向こうなら、音は立ちにくい。私は歯を食いしばって、踵を浮かせたまま、畳の上を横へ滑った。染みのあった畳の縁を、絶対に踏まないように避けて。滑った先の障子に指をかける。指の腹が、紙ではなく、湿気を吸ってぶよぶよに膨れた繊維に触れた。紙の目が、私の指紋の溝に絡みついてくる。
ぎしり。
三段目。音が、近い。
障子を、三センチだけ横に引いた。
中は、六畳ほどの小さな座敷だった。懐中電灯を手で半分覆いながら、光を滑り込ませる。壁際に積まれた古布団の山、埃をかぶった卓袱台、そして奥の、低い階段口が照らし出された。
裏階段だ。
古い旅館には、主人筋の表階段のほかに、使用人が膳を運ぶための裏階段が必ずある。美緒が見せてくれた間取り図には、なかった。なかったのに、そこにあった。間取りを、この家が、書き換えている。
上がる、と体が決めた。頭はまだ、待て、と言っていた。体の方が速かった。
障子を、指の腹で、もとの位置まで戻す。戻した瞬間、表の廊下で、何かが畳に足を置いた湿った音がした。重みを確かめるような、さっきの階段とまったく同じ間合いで。私は口を手のひらで塞いで、裏階段の一段目に足を載せた。板は、軋まなかった。軋まないことが、また、怖かった。軋むべき古板が、私の体重を受けて、厚みのある布団を踏んだように、音もなく沈んだ。
七段、八段、九段。数えながら上がった。数えていないと、自分が何を登っているのか分からなくなりそうだった。段数は、記憶していたよりひとつ、多かった。
二階の廊下に出た。
天井が、低い。一階よりもはっきり低い。頭を少し下げないと、梁に額が触れそうだった。廊下の両側に、障子が三枚ずつ並んでいる。どの障子も、下半分に黒い染みが上がっていた。染みの形が、六枚とも、同じだった。腰のあたりまで、人がもたれかかったような滲み。同じ高さで、同じ形に、六枚。
──誰かが、それぞれの部屋の前に座って、障子に凭れていた。
そうとしか、見えなかった。
一番手前の障子を、指で押した。押した、のではなかったかもしれない。開いた、のだった。紙の張力が失われて久しい桟が、私の指先をすり抜けるように、内側へ倒れ込んだ。
四畳半の客間だった。窓は、ない。あるはずの窓の位置に、厚い板戸が内側から閉められていた。畳は、ぬるい。踏み込んだ瞬間、足裏に、人の体温に近い熱が伝わってきた。六十年空き家だったはずの建物の、二階の畳が、ぬるい。靴下越しなのに、その熱は足の裏の土踏まずの窪みに、じわ、と染み込んでくる。何かが、ついさっきまで、この畳の上に座っていた。それも、一人ではなく、何人も、入れ替わり立ち替わり、ずっと、座り続けていた。そういう種類のぬるさだった。
部屋の奥に、古い鏡台が置かれていた。
三面鏡の、真ん中の扉だけが、開いている。両側の扉は閉ざされたまま。真ん中の一枚だけを、誰かが最後に使ったあとの形で、そのままにしてある。髪を梳いた誰かが立ち上がって、そのまま部屋を出ていったあとの、ひと呼吸前の景色だった。
私はゆっくりと、鏡の前へ歩いた。
歩きたくなかった。歩きたくないのに、足が畳のぬるさを追って、一歩ずつ前へ出た。鏡の中の私が、同じ歩幅でこちらへ寄ってきた。髪が、額に張りついている。頬が、青い。唇の端に、さっき爪を裂いたときの血が、乾いていた。鏡の中の私は、疲れ切った、けれど間違いなく、私だった。
まだ、私だった。
畳の上に膝をついた。鏡台の縁に、櫛が一本、横たえられていた。黒い漆塗りの古い櫛。歯の根元に、細い長い髪が一筋、絡んでいた。髪はまだ艶があった。白髪ではなく、黒い、若い女の髪だった。
私は、櫛には触れなかった。
触れないで、鏡の中の自分の顔を、もう一度見た。見て、そして、ほんの少しだけ、視線をずらした。
私の肩の、すぐ後ろ。
その位置に、鏡の中でだけ、もう一つ、顔があった。
声が、出なかった。
出そうとした声は、喉の奥で湿った布のかたまりになって、引っかかった。吸うことも、吐くこともできなかった。鏡の中のその顔は、白かった。血の気の失せた紙のような白さで、額の輪郭と、頬の線と、顎の骨が、懐中電灯の光を一方向に弾いていた。弾き方が、人の肌のそれではなかった。脂も、産毛も、汗もない、乾いた障子紙を光にかざしたときのような、平たい反射だった。髪は長かった。鏡台の櫛に絡んだ髪と、同じ太さ、同じ艶の、黒い髪。それが女の両肩を滑って、畳に届くほど垂れていた。毛先のひとすじが、鏡の中で、ゆっくり、呼吸するように、持ち上がっては落ちた。風など、ないのに。
女は、私を見ていなかった。
私の肩越しに、私の頭のてっぺんの向こうを、見ていた。視線の先には、何もない。ないのに、女は確かに、そこに何かを見ていた。睫毛がほんの一度、瞬いた。その先が、頬の上に影を落とした。それがあまりに人間の動作だったので、私は脳の一番芯のところで、本当に、人、なのかもしれない、と思ってしまった。
思ってしまってから、違う、と気づいた。
鏡の中で、女の口が、ゆっくり開いた。
口の中は暗かった。歯が、なかった。舌も、見えなかった。開いた口から、吐く息の白さだけが、鏡の中で、ふわ、と昇った。その白い息は、私の後頭部を一度撫でて、消えた。
撫でた、と、感じた。
鏡の外の、実際の私の後頭部の、髪の毛の根元が、一本だけ、ふっと浮いた。浮いた髪の根元に、鼻先の湿り気を押し当てられた感触があった。
振り返っては、いけなかった。
振り返ってはいけないと、体が知っていた。知っていたのに、首が、ほんの五度、回ってしまった。
悲鳴が出た。
悲鳴というより、肺の底に溜めていた空気が、勝手に喉を通って、形のない叫びになって、畳の上を跳ねた。自分の声じゃない、と、叫びながら思った。この声は、この部屋にもとから置かれていた声だ。私はただ肺を貸して、それを吐き出しただけだ。
振り返った先、つまり、鏡が映していたはずの私の背後の畳の上には、何もなかった。
ないのに、鏡の中にだけ、女は、まだ、いた。
逃げなきゃ、と頭が言った。
体は、動かなかった。膝が畳に張り付いていた。畳のぬるい熱が、さっきより、高くなっていた。体温が上から下へ、下から上へ、この部屋の畳と、私の膝で、混ざり始めている気がした。
そのとき、廊下の奥の方で、音がした。
鏡の中の女の息でもない。畳の下の呼吸でもない。はっきりと、人の手が鳴らしている音。
じゃ、ら、と。
じゃ、ら、と。
木の珠が糸に擦れて、板の廊下を滑ってくる音。数珠だ、と私は思った。祖母が仏壇の前で鳴らしていたのと、同じ音。ただ、近づいてくる間隔が、やけに乱れていた。鳴らしている誰かが、歩きながら、片手で震える珠を握り直している。そういう、生きた乱れ方だった。
六枚の障子の、一番奥の一枚の前で、その音が、一度、止まった。
誰かが息を整える気配があった。
そして、障子の桟に、指が、かかった。