第1話
第1話
藁の匂いが、鼻の奥に刺さった。
黴と錆にまじって、遠い夏の、人の肌に似た甘ったるい腐臭。私は廊下の入口で立ち止まり、スニーカーの底を畳の縁へそっと乗せた。湿気を吸った藺草がぐにゃりと沈み、指先まで震えが伝う。懐中電灯の光輪が、十二畳の暗がりをたよりなく撫でた。光の縁で、埃が舞った。雪のようにゆっくりと、けれど雪より重たく、淀んだ空気の底へ沈んでいく。光を当てたところだけ、世界が一瞬だけ、現実に戻る気がした。
「美緒、健吾……どこ」
返事はない。
声が、思っていたより小さく出た。喉の奥が乾いていて、ほんの三文字を発するだけで、唇の内側が紙のようにひりつく。返事の代わりに、自分の声が天井の暗がりへ吸い込まれていく頼りない反響だけが、耳に残った。
三分前、たしかに四人で玄関を潜ったはずだった。私と美緒が先頭で、健吾と真司が背後にいた。真司のスマホが点滅し、健吾が「うわ、全然写ってねえ」と笑った。その声が、いまは思い出のように遠い。美緒が「足元、気をつけてね」と私の肘を軽く叩いた感触も、まだ皮膚に残っている。残っているのに、もう古い記憶のように色褪せている。
松影荘。築六十年。半年前、同じサークルの岡部先輩が肝試しに来て、一人だけ帰らなかった廃旅館。警察は家出で処理した。私たちは「岡部先輩のぶん、笑って戻ろう」と言い合って、今夜ここへ来た。
笑って戻る。その前提が、足音ひとつぶんだけ、もう崩れている。
息を殺して耳を澄ます。軒下で風が鳴った。天井の木目がぎしりと呻いた。けれど、仲間の靴音はしない。さっきまで背後で聞こえていた真司のスニーカーの、あの安っぽい擦過音が、綺麗に消えている。耳を澄ませば澄ますほど、聞こえてはいけない音が立ち上がってくる。柱の中で何かが這うような、湿った木の繊維をつたう細い軋み。それは家鳴り、と呼ぶにはあまりにも、規則正しかった。
──消えている、というより。
最初から、いなかったみたいに。
私は一つ、深く呼吸を吸ってから、廊下の奥へ光を向けた。松影荘は田の字形に廊下が走る古い宿屋だ。正面に帳場、右手に大広間、左手が厨房、奥の階段が二階客室へ続く。到着してすぐ、美緒がスマホで間取りの写真を見せてくれた。指先で画像を拡大しながら、「ここに大広間があるから、たぶんここで岡部さんの写真撮るんだよね」と、彼女は妙に事務的な声で言ったのだ。あのときの彼女の指の白さを、私は不思議なほど鮮明に思い出せる。
スマホ──そうだ、スマホ。
震える指でポケットを探る。画面をつけると、圏外、の二文字だけが青白く浮かんでいた。
「……嘘でしょ」
ほんの十分前、駐車場では電波が立っていた。四本。そこから砂利道を五分歩いて、玄関の前でも一応繋がった。真司が「生還報告用な」と笑って記念写真を撮った。あの写真のあと、私は一度もスマホを見ていない。
十分のあいだに、世界の外が、閉まった。
口の中が渇く。舌の奥に、錆びた釘を舐めたような味が残っている。唾を飲み込もうとして、喉仏が痛いほど鳴った。落ち着け、と自分に言い聞かせる。落ち着け、佐和。美緒たちはたぶん、先に二階へ上がっただけだ。私だけが、途中で迷子になっただけだ。何度も同じ言葉を頭の内側で反芻する。反芻するほど、その言葉は意味を失っていく。「迷子」という単語の輪郭がほどけて、ただの音の連なりになっていく。
そう思って、私は一歩、後ろへ下がった。
玄関へ戻る。まずそれだ。
スニーカーの踵が、ふわっと沈んだ。
畳が鳴ったのではない。畳の下で、何かが、沈んだのだ。
「……え」
光を足元へ落とした。二十年は替えていないだろう黄ばんだ藺草の表面に、ぽつんと、湿った黒い染みが滲んでいる。大きさは手のひらほど。それが、私が踵を置いた場所を中心に、ゆっくり、輪郭を広げていく。染みは生き物のようにいびつな形を取り、藺草の目に沿って細い指のような筋を伸ばし始めた。指、と思った瞬間、本当にそれは、細く五本に分かれた。親指にあたる太い筋が短く、残りの四本が藺草の目を這って、私の爪先のほうへ、ほんの少しだけ、届こうとしている。
湿気。土間から染みが上がっているだけだ。そう思い込もうとした瞬間──
ふう、と。
畳の下から、息が、漏れた。
心臓が首の裏を叩いた。
息を止めた。止めたのに、もう一度、はっきりと、畳一枚挟んだすぐ真下から、湿った呼気が吐き出される。「ふ──」と、笛のような、細い、人の息。吐いて、吸って、吐いて。その呼吸は、私の呼吸より、少しだけ遅い。少しだけ遅いのに、私の胸の動きを、追いかけるように合わせてくる。私が止めれば、相手も止める。私が震えながら吸えば、それも吸う。同じ拍を、私の真下にいる何かが、確かめている。呼気は温度を持っていた。畳の目を通して、踝の内側にだけ、ぬるい、人肌の熱が伝ってくる。誰かが、畳の裏側に唇を押し当てている。そう思った瞬間、足の甲まで、鳥肌が一斉に立った。
生きている誰かが、畳の下で、息をしている。
そんなはずはない。床下は土台と基礎の狭い空間で、人は入れない。入れないと、知っている。
それでも、息は、途切れない。
私は片足ずつ、音を立てないように、畳から後退した。一歩、二歩。廊下の板目に踵が戻ったとき、ようやく呼吸が細く吸えた。同時に、奥、帳場の向こうの廊下で──
懐中電灯の光が、揺らいだ。
私が握っている光ではない。もうひとつ、別の光が、廊下の突き当たりで頼りなく点滅している。美緒の懐中電灯だ、と思った瞬間、その光源のほんの脇を、黒い、細長いものが横切った。
人影、と呼ぶには薄すぎた。煙が滑るように、柱の陰へ吸い込まれていく。衣擦れの音ひとつ、しなかった。光は、その黒いものが通り過ぎたあとも、まるで何事もなかったかのように、同じ場所で同じ間隔で点滅を続けていた。誰かが意図して、その場所に置いたみたいに。
「美、緒……?」
震える声で呼びかけた。呼びかけながら、呼びかけてはいけない、という直感が、背中の真ん中を冷たく突き抜ける。喉の奥で「みお」の二文字が萎んで、湿った塊になって落ちていく。呼んだ名前を、この家は、聞いていた。確実に聞いていた、と分かった。
私は踵を返した。玄関へ、帰る。今すぐ。
三メートル先、三分前に通った玄関の土間が、闇の中に浮かんでいる。引き戸のガラスに、私の懐中電灯の光が反射して、白く拡がった。その白の中に、黒い、太い、木の棒のような線が、格子状に走っているのが見えた。
格子ではない。
板だ。
引き戸の内側に、幅十センチほどの板が、縦に、横に、何枚も打ちつけられている。私たちが三分前に通った引き戸に、そんなものは、なかった。
釘の頭に、まだ錆びる前の、新しい銀色が、光っていた。打たれてから、せいぜい数分も経っていない。釘穴のまわりに、剥がれたばかりの木のささくれが、まだ淡く反り返っている。木の断面からは、樹脂の青臭い匂いが、かすかに立ちのぼっていた。切り出されたばかりの、生きた木の匂い。黴と腐臭のこの廊下には、絶対にそぐわない匂い。
「待っ……待って、誰が」
駆け寄って、板のひとつを掴む。引く。びくともしない。爪が板の角で裂け、指先に鈍い痛みが走った。血の鉄臭さが、黴の匂いに混じって、鼻の奥で一瞬、くらりとした。爪の根元から滲んだ血が、板の表面に小さな赤い線を引く。その線が、なぜか、ひどく綺麗に見えた。
ガラス越しに、外の夜を見ようとした。
見えない。板の向こうは、黒い紙を貼ったように、何も映っていなかった。駐車場の白い光も、国道の車のヘッドライトも、友人たちの影も、ない。ただ、黒い。
「ここ、は」
口が勝手に動いた。
──ここは、出てはいけない場所だ。
その一行が、誰かに書かされた文字みたいに、頭の中へ滑り込んできた。肝試しに来た、冷やかしに来た、岡部先輩の一年ぶんの沈黙を笑いに変えに来た、そんな私たちを、この建物は最初から、四人ぶんの客として招き入れたのではなかった。
招かれたのは、私だけ、なのかもしれない。
背後で、畳の下の呼吸が、ほんの少しだけ、速くなった。
そして廊下の奥、真っ暗な二階へ続く階段のあたりで、木がきしむ音がした。
ぎしり。
ぎしり。
一段ずつ、何かが、降りてくる。