第2話
第2話
目が覚めると、向かいのベッドに、背中があった。
黒く長い髪が、薄い毛布からはみ出して、木の枠の外まで垂れている。昨夜までは、枕の上に古いノートが一冊、置かれていただけの場所だ。誰のものか触れるな、と指を止めた、あのノートの上に、今は人の体温が乗っている。
カーテンの隙間から、薄い朝の灰色が漏れていた。時計は六時二分を指している。崖の上の時計塔とは、また一時間以上ずれていた。天井の湿りは、昨夜より一回り広がり、ちょうど俺の枕の真上で、淡い輪を描いている。輪は、指でなぞれば水滴が落ちそうなほどに濃い。滲みの縁には、薄く鉄錆に似た色が滲んで、輪の内側を一段深い灰に沈めていた。
布団の中で、指先の冷えを確かめる。爪が掌に食い込んだ痕が、三日月の形で残っていた。夢ではない。あの足音も、扉の下から伸びた水の舌も、どれも、昨夜の俺の皮膚が覚えている。
向かいの少女が、寝返りを打った。顔が、こちらを向いた。
目を、開けていた。
俺は、喉の奥で、息を呑む音を押し殺した。少女は、瞬きをしなかった。ただ、薄く開いた唇を、一度、湿らせるように舐めた。黒目が大きい。瞼の下半分に、隈に似た影が沈んでいる。眠っていた体温と、夜通し起きていた視線が、同じ顔の上に重なっていた。その視線は、俺の目ではなく、俺の耳を、見ていた。昨夜、何を拾ったのかを、耳の形から確かめている、そういう見方だった。
「……聞こえた?」
少女が、そう、囁いた。
声は、かさついていた。水を一晩飲んでいない、そういう掠れ方だ。それでも、その三音の質問は、俺の胸のもっと深い場所まで、まっすぐ落ちてきた。聞こえた、が、何を指しているのか。この島で、まだ一晩しか眠っていない俺にも、もう、分かってしまった。
「……足音」
俺は、自分でも思いがけないほど、素直に答えていた。
少女は、天井を見上げた。ちょうど、輪を描いた湿りの、中心あたりに視線を据えた。長い髪が枕の上で広がって、先端だけが、ほんのわずかに濡れているように見えた。潮の匂いはしない。ただ、雨上がりの古い木の、苔のような匂いが、少女の髪から漂ってきた。その匂いの奥に、微かに、線香の甘さが混じっているのを、俺の鼻は、遅れて嗅ぎ分けた。昨夜、扉の隙間から漏れてきた、あの匂いの、ずっと薄い残り香だ。
「片足だけ、引きずってたでしょ」
少女の唇が、ほとんど動かないまま、続けた。
「ぺた、ぺた、って。あんたの扉の前で、一回、止まったよね」
俺は、毛布を握り直した。指の節が、布越しに硬く鳴った。昨夜の俺が、ベッドの上で息を殺して追っていたものを、この少女も、同じ時間に、同じ角度で、見ていた。そうとしか思えない正確さで、彼女は再現してみせた。足音の間隔も、扉の前で止まった秒数も、俺の心臓の鼓動の数と、ぴたり、一致していた。
「……芹沢。一年の途中で、来た」
少女は、名乗ったのではなく、問われる前に明け渡した、という言い方をした。
「あんたと、同じでしょ」
頷くしかなかった。三度目の退学のことを、この子は知らないはずだ。けれど、知っているような口ぶりだった。知っているのではなく、同じ匂いを嗅ぎ分けている、という種類の言い方に近い。
「この学校、何かいる」
ぼそ、と、芹沢は、それを言った。
驚きのない声だった。気づいた、という発見ではなく、前から知っていた、という確認の声だった。俺は、布団の中で、背骨が伸びていくのを感じた。怖い、のとは別の感情だ。俺しかあれを知らない、と思っていた重さが、少しだけ、分担された。分担された途端、軽くなる代わりに、輪郭がはっきりしてしまった。輪郭ができた、ということは、あれが、もう、逃げ場のない形で、この寮の中に存在し始めた、ということでもあった。
──いる、と、本当に、言ってしまった。
「生活指導の人、三つの決まり、しか言わないでしょ」
芹沢は、枕の下から、昨夜のノートを引き出した。表紙の麻糸は、俺が見たときより、さらに擦り切れているように見えた。表紙の角には、黒ずんだ指の跡がいくつも重なっていて、長い年月、別々の手がこれを握ってきたのだと分かった。
「これに、もう少し、書いてある。前にいた誰かが、書き足してった」
「……見せてくれるのか」
「扉まで、一緒に来てくれるなら」
扉まで、という言い方に、引っかかった。扉の向こうを見ない、という誓いのようにも、扉まで行けば何かが分かる、という予告のようにも、聞こえた。芹沢は、床に素足をつけた。板張りの冷たさに、一瞬だけ、指が反り返るのが見えた。足の指の爪には、薄く、砂のような粒が挟まっていた。寮の床で付くはずのない色だった。
「旧校舎」
その三音を、芹沢は、歌うように発音した。
渡り廊下は、屋根の瓦が半分落ちていた。
朝の光が、落ちた瓦の穴から、斜めに差し込んでくる。光は白いのに、板の上に落ちると、妙に青みを帯びた。俺は、寝間着の上に制服の上着だけを羽織って、芹沢の数歩後ろを歩いていた。芹沢は、廊下の中央ではなく、壁際を、指で板目の隙間をなぞるように歩く。指の通った後には、薄く、光る筋が残っているようにも、消えているようにも見えた。俺の目が、朝の光に慣れきっていないせいかもしれなかった。
「真ん中は、踏まない方がいい」
振り返らずに、芹沢が言った。
「……なんで」
「夜、あれが歩いた跡」
俺は、廊下の中央を、反射的に見下ろした。板の目の真ん中、俺の足幅よりひとつ狭い幅で、ほんのわずかに、木の色が濃い筋が、廊下の奥まで続いていた。雨染みのような、汗染みのような、何度も繰り返し濡らされて、乾きそこなった木目の色だった。筋は、旧校舎の扉の前で、ぷつり、と途切れていた。途切れた端のところだけ、板が、ほんの少し、沈んでいる。何度も同じ位置で立ち止まった重みが、板そのものを、凹ませてしまったような沈み方だった。
扉は、厚い木の両開きで、中央に鎖が巻かれていた。鎖は新しくなく、赤錆が節々に浮いて、触れれば粉になりそうだった。鎖の奥に、朱色で書かれた札が二枚、上下に貼られている。雨に洗われて、文字の半分はもう読めない。かろうじて、上の札に「鳴」の字、下の札に「閉」の字が、残っていた。
「開けちゃ、いけないってさ」
芹沢は、指を、扉の木目に押し当てた。指の腹が触れた瞬間、木の表面に、ほんの一瞬だけ、指の形に水が滲んだ。滲んだ水は、すぐに木に吸われて、消えた。
「……今の、見た?」
「見た」
俺の声は、昨夜の扉の前と同じくらい、喉に貼り付いていた。口の中の唾液が、一晩前の海の味と同じ、鉄と塩の味に変わっていた。
扉の向こうで、音がした。
教室の椅子を、一つ、床から持ち上げて、また下ろした。そういう、くぐもった鈍い音だ。続けて、床板を爪の先で引っ掻くような、細い、長い音。引っ掻きは、扉の内側まで近づいてきて、ぴたり、と止まった。
止まった、その位置から、息が漏れる音がした。
扉の向こうの、誰かが、扉に耳を当てている。
そう、としか、思えなかった。甘い線香の匂いが、鎖の隙間から、一筋、漏れてきた。昨夜の廊下に残っていた、あの匂いと、同じだった。匂いは、俺の鼻の奥ではなく、こめかみのあたりに、冷たい針のように刺さった。息を吸うたびに、針の本数が増えていく気がした。
芹沢は、扉から、半歩だけ、退いた。退いたのに、指は、まだ木の上に残している。まるで、指を離したら、向こう側に気づかれる、とでも思っているように。芹沢の指先が、白くなっていた。血の気が、爪の先から、手首の方へ、ゆっくり退いていくのが見えた。
「……名前、呼ばれるまで、返事しないで」
芹沢が、囁いた。
「呼ばれた、って、気がしても」
俺は、頷くことしかできなかった。舌が、上顎に貼り付いて、仮に呼ばれても、返事できる状態ではなかった。
扉の奥の息は、一度だけ、こちらに線香の匂いを深く吐いて、遠ざかっていった。板目の向こうで、椅子をもう一つ、どこかへ押し戻す音がする。音は、廊下の向こうではなく、建物の、もっと下、足元より深い場所へ、沈んでいくように聞こえた。
寮に戻った時、もう朝食の鐘が鳴っていた。
下駄箱の並ぶ、暗い靴棚の前。芹沢は、自分の段の扉を開ける前に、俺の段の前で、足を止めた。
「……あんたの、ここ」
俺は、近づいた。
自分の名札の下、上履きの上に、白い封筒が差さっていた。宛名も、差出人もない。ただ、封筒の下半分だけが、濃く、黒く、水を吸っている。指で触れると、朝の冷気よりもさらに冷たく、指先がじん、と痺れた。
封を、剥がした。
中の便箋も、下半分が同じ形に濡れていた。
滲んだインクで、俺の名前が、一行だけ、書かれていた。
筆跡は、俺自身のものだった。
便箋の裏に、薄く、小さな靴跡が、一つだけ、押されている。
まだ、乾いていなかった。