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蓮水学園怪異譚

第1話 第1話

第1話

第1話

ディーゼルの匂いが喉の奥に貼りついて離れない。  連絡船の甲板、手すりは錆びて、掌に赤い粉を残した。霧雨が制服の肩を湿らせ、内ポケットに畳んだ三度目の退学通知まで、じわじわと染みてくる感触がある。俺は、その紙を海に投げる気にもなれず、ただ指先で縁を撫でた。  ──最後の居場所、か。  父が電話口で吐き捨てた声が、波音の奥で反響している。「次やらかしたら、家にも居場所はないぞ」。俺は返事をしなかった。返事をするだけの体力が、もう残っていなかったのだ。  霧の奥に、島が浮いた。  いや、浮いた、ではない。沈みかけている、と言った方が近い。白く霞む海面から、崖の黒い腹が少しだけ突き出ている。その上に、瓦の落ちた屋根と、蔦に呑まれた時計塔が覗いていた。  時計は、三時十七分で止まっていた。  到着予定は午後一時のはずだ。俺は腕時計を見た。十二時五十八分。この島の時計塔だけが、二時間以上先の時刻を、黙って刻んでいる。止まっている、のではなく、先に進んでいる。そういう違和感が、胸の底に冷たく溜まった。 「お客さん、揺れますよ」  船頭の声が背中に刺さった。油で黒ずんだ作業着の老人が、俺のボストンバッグを顎でしゃくる。 「こんな季節に、二度目の登校ですか」 「……初めて、です」  老人は返事をしなかった。ただ、片側だけ口角を持ち上げて、何かを呑み込むように喉を鳴らした。その喉仏の動きが、やけにゆっくりで、水を一度、二度と嚥下するような間があった。 「……二度目、って」  尋ね返した俺の声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。  老人は答えず、舵輪に視線を戻した。濡れた甲板に、老人の影だけが二つ、重なって落ちているように見えたのは、錆びた手すりが作る影のせいだ、と、俺は自分に言い聞かせた。

 桟橋に足をつけた瞬間、靴底が海藻を踏んで、ぬるりと滑った。生臭い海の息が、顔を舐めていく。  迎えは、いなかった。  濡れたコンクリートの向こうに、朽ちた鳥居のような校門が立っている。門柱に「私立蓮水学園」と彫られ、「蓮」の字だけが苔にほとんど呑まれていた。呑まれている、というより、苔の側から文字を描き起こしたように、緑と黒の筋が字の輪郭をなぞっている。  門をくぐる。砂利を踏む音が、やけに大きく、頭蓋の内側に響いた。鼓動が、耳の裏で跳ねる。廊下の先から、古い木材が息を吐くような軋みが伝わってきた。中に入る前から、もう匂いが分かる。黴と、潮と、煮詰めた塩の混じった、学校というより蔵のような匂いだ。その奥に、ほんの微かに、線香に似た甘さが混じっている気がして、俺は無意識に息を浅くした。  玄関で靴を脱いだ。板張りの床は、素足で立つと氷のように冷たかった。冷たい、というより、何かに熱を吸われている、という感覚に近い。靴下越しに、床板の目地が一本ずつ皮膚を撫でてくる。歩くたびに、足裏から体温が板に落ちていくのが分かった。 「三度目の転入、だな」  声がして、顔を上げた。  生活指導、と名札の付いた、痩せた男だった。白髪交じりの髪を後ろで縛り、左耳の下に大きな傷がある。古い裂傷が、下手に縫い直されたような、ひきつれた痕だ。視線は俺の顔を見ていない。俺のボストンバッグの取っ手を、品定めするように眺めていた。まるで、何人目のこれを、自分が今まで見送ってきたかを、数え直しているような目だった。 「この学校の決まりは、三つだ」  男は指を一本ずつ立てた。指の関節は不自然に節くれ立ち、爪の縁が青黒く変色している。 「旧校舎には近づくな。夜に廊下を歩くな。聞こえても、振り向くな」 「……聞こえる、って、何がです」 「振り向くな、と言った」  男は二本目の指を、もう折り畳んでいた。俺は唾を呑んだ。舌の付け根に、鉄に似た苦みが残った。男の息は、ひどく冷たかった。吐く息が白く曇っていないのに、喉の奥だけが凍えたように痺れた。  男は、最後に小さく付け足した。 「……決まりを破った奴は、次の朝、一人足りなくなる。それだけだ」  冗談、と受け取るには、男の目が乾きすぎていた。  案内された二階の寮室は、木製のベッドが二つ、窓の外に黒い海しか見えない、小さな部屋だった。同室の人間はいない。ただ、もう一方のベッドの枕の上に、使い込まれた和綴じのノートが、誰かが今しがた置いたように乗っていた。表紙の麻糸は擦り切れ、角が少しだけ濡れて、指で押すと冷たさがにじんできそうな質感だった。誰のものか、と手を伸ばしかけて、俺は指を止めた。触れてはいけない、という予感が、首筋の毛を立たせたからだ。  カバンを下ろす。部屋の時計は、午後二時を指していた。崖の上の時計塔とは、一時間以上ずれている。どちらが正しいのか、俺には判断がつかなかった。  天井を見上げる。  その時は、気づかなかった。  天井の板目の一つが、ちょうど俺の寝る側のベッドの真上で、ほんの少し、不自然に湿っていた。

 夜。  寮の電気は、午後十時に落ちる。  俺はベッドに仰向けに寝転び、スマホを開こうとしてやめた。この島には電波が通っていないことを、消灯と同時に思い出したのだ。指の行き場を失って、掌を頬に当てる。制服の匂いが、半日で、島の匂いに染まっていた。潮と、黴と、線香の甘さ。もう自分の体から出ているのか、部屋が染み込ませてきたのか、境目が曖昧になっていた。  天井の湿りを、もう一度見上げた。  昼間より、わずかに濃くなっている気がした。気のせいだ、と頭の中で繰り返す。気のせいだ、気のせいだ。繰り返すほど、気のせいではない、という確信だけが育っていった。  ──見上げた、その時だった。  廊下で、音がした。  ぎち、と、濡れた布巾を握り潰すような音。  続けて、ぺた、ぺた、と、裸足が板を踏む音が、寮室の扉の前を、通り過ぎていった。  心臓が、喉元まで跳ね上がる。  ぺた、ぺた、ぺた。  足音は、等間隔ではなかった。片足だけが長く、もう片足が短い。引きずるように歩いている。水を含んだ靴下か、あるいは、もっと別の、何か。足を引きずるその間に、ぴちゃ、と小さく、水滴が床に落ちる音が混じる。一歩ごとに、確実に、何かがこの扉へ近づいてくる。  ──夜に廊下を歩くな。聞こえても、振り向くな。  生活指導の男の声が、頭の内側で反響した。あの乾いた目。決まりを破った奴は、次の朝、一人足りなくなる。  俺は息を殺した。毛布を耳の高さまで引き上げて、目だけを開いたまま、扉を睨む。毛布越しの自分の呼吸が、耳の中で爆ぜるように大きく聞こえる。吐くな、吸うな、そう念じるほど、喉は空気を欲しがった。  足音が、止まった。  俺の部屋の扉の、すぐ前で。  木製の扉の下、廊下側の隙間から、じわり、と水が染み出してきた。灯りの落ちた廊下なのに、そこだけが月の鱗を張ったように、黒く光って見える。水は扉の内側に向かって、ほんの数センチ、舌のように伸びてきて、ぴたり、と止まった。まるで、こちらの気配を嗅いでいるみたいに。  爪が、掌の肉に食い込んだ。痛みだけが、思考を繋ぎ止めた。  叫ぶな。動くな。  声を出した瞬間、この島に来る前に背負ってきたもの全部、丸ごと持っていかれる気がした。家を追い出された自分、退学通知、父の声、全部。あれは全部、こいつに差し出すために持ってこさせられたものじゃないか──そんな馬鹿げた考えが、頭の芯を焼いた。  足音は、また歩き出した。  ぺた、ぺた、ぺた。  遠ざかる方向ではなく、もう一度、俺の部屋の扉の前を、今度は逆向きに、通過していく。確かめているのだ、と思った。この部屋に、新しいのが入ったかどうかを。

 廊下の奥で、木の軋む音がして、止まった。  俺は、ようやく息を吐いた。  吐いた、その息が、白かった。  部屋の空気が、いつの間にか、外と同じ気温まで冷えている。扉の下の水の染みは、もう引いていた。ただ、板の目だけが、くっきりと濡れて光っている。指を伸ばせば、今でもひんやりと湿っていそうな、そういう光り方だった。  天井を、見上げた。  さっきまで滲んでいた湿りの範囲が、少しだけ、広がっていた。俺の頭のちょうど真上、枕の縁に重なる位置まで、円を描いて滲みが伸びている。  ──気のせいだ。  そう言い聞かせて、目を閉じる。  閉じた瞼の裏で、誰かが、ぺた、と、もう一歩、俺の枕のすぐ真上で、踏み出した音がした。

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