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蓮水学園怪異譚

第3話 第3話

第3話

第3話

便箋の裏の靴跡は、まだ乾いていなかった。

芹沢は、それを見て、何も言わなかった。ただ、俺の手から封筒を抜き取って、自分の上履きの中に、ひょいと押し込んだ。上履きのつま先から、封筒の白い端が、少しだけ覗いていた。芹沢は、何事もなかった顔で、自分の上履きを履いた。履いた足の踵の下で、封筒が、ぐちゃ、と湿った音を立てた。

「……いいのか、踏んで」

「返事しない、って、さっき言った」

その三音で、封筒は返事ではない、という意味が分かった。返事ではない、ただの、濡れた紙だ。そう自分に言い聞かせる芹沢の、耳の縁だけが、赤くなっていた。俺の耳も、多分、同じ色をしていた。

食堂の扉を開けた瞬間、湯気と、味噌の匂いが、顔に当たった。

長机の両側に、寝癖のついた同級生が並んでいる。二十人ほど。朝食のトレイを前に、皆、同じ姿勢で椅子に座り、同じ速度で、味噌汁を啜っている。啜る音が、机の両端で、規則正しく揃っていた。啜って、飲み込んで、箸を置き、次の一口までの間が、全員、同じだった。揃いすぎている、と思って、俺は扉の前で、一瞬、足を止めた。

芹沢が、先に席についた。

俺は、空いていた彼女の向かい、窓際の椅子に、そっと腰を下ろした。窓の外は、朝の崖で、下に黒い海が広がっている。海のずっと向こう、霧の奥に、連絡船が泊まっているはずの桟橋があるのだが、今朝は、桟橋の明かりすら、見えなかった。

「……昨日の夜、廊下で足音、しなかった?」

俺は、向かいの男子に、小声で、尋ねた。

男子は、箸を止めなかった。止めずに、ゆっくり、顔だけを俺に向けた。髪の毛の一本一本に、寝起きの脂が光っていた。目の焦点は、俺の鼻の、少し下で止まっていた。

「……足音、って、何の?」

「夜、寮の廊下を、誰か、歩いてた」

男子は、数秒、黙った。沈黙の間、男子の喉仏は、動かなかった。それから、ゆっくり、首を、横に振った。

「……気のせいじゃないかな」

答えたのは、男子ではなかった。

隣の、眼鏡の女子だった。彼女も、俺の目を見ていない。俺の、味噌汁の椀の、縁の欠けたところを見ていた。欠けた陶器の、欠片の先が、光を弾くか弾かないか、そこを、ずっと、見ていた。

「この寮、古いから、木が鳴るの。夜になると、よく、鳴る」

「木が鳴る、って、そんな音、じゃなくて──」

「よく、鳴るのよ」

もう一度、眼鏡の女子が、繰り返した。

繰り返しただけだった。繰り返したことに、自分でも気づいていない、そういう言い方だった。俺の隣の、背の高い男子が、味噌汁を啜る音を、一段、大きくした。俺の椀の中で、油揚げが、ゆっくり、沈んでいく。油揚げの下の、豆腐の角が、小さな直方体のまま、ずっと、崩れずに残っていた。

芹沢は、机の向こうで、ご飯を一口、噛んでいた。目だけで、俺を見ていた。言うな、という目だった。

一限目は、古文だった。

教室の最後列、窓際の席。俺の隣の席は、空いていた。机の上に、誰かの筆箱が一つ、中身ごと置かれたままになっていた。筆箱の蓋は開いていて、中のシャープペンシルの芯が、机の目地に転がっている。芯の先は、朝の光の中で、細く折れていた。

教師は、黒板に、古文の一節を、白い粉の字で書き連ねていた。俺は、ノートを開いたまま、写しもしないで、隣の空席を見ていた。空席の机の脇に、鞄はなかった。鞄がない、ということは、今日、休んでいる、ということだ。けれど、筆箱だけが、こんなに、整って置かれていることが、俺には、分からなかった。

「……そこ、誰の席?」

俺は、前の席の女子の、肩を、指で、軽く叩いた。

女子は、振り向いた。振り向くのに、三秒かかった。振り向いた顔は、眉毛の位置が、左右で、少しだけ違った。片方だけ、寝癖の髪が、眉毛の上に、覆いかぶさっていた。

「……あの席?」

「うん」

「……空いてるけど」

女子は、そう、答えた。

「誰か、休んでるんじゃなくて?」

「……空いてる」

繰り返された。眼鏡の女子の、味噌汁の時と、同じ言い方だった。違う言葉を持ってこられないのではない。違う言葉を、持ってくる気が、ない。俺は、視線を、机の上の筆箱に戻した。筆箱の蓋の内側に、名前が、油性ペンで、書かれているのが見えた。滲んで、読み取れなかった。名字の一文字目だけが、「高」とも「喬」とも読める、ぼんやりした筆跡で、残っていた。

俺は、その筆箱を、そっと、閉じた。

蓋が閉じる、小さな音が、教室の、古文の朗読の合間に、落ちた。朗読は、止まらなかった。教師の声も、止まらなかった。誰一人、空席を、見なかった。俺が、筆箱を、閉じたことにも、気づかなかった。

──逃げ癖。

父の声が、こめかみの奥で、反響した。三度、退学した、その理由の、全部が全部、逃げ癖の一言で、片付けられた。嫌なことがあると、すぐ、見なかったことにする。そう言われた。そう言われるたび、俺は、自分の中の、何かが、少しずつ、薄くなっていく気がしていた。

今、俺の周りで、同じことが、起こっている。

俺ではなく、この教室ごと、何かを、見なかったことに、している。見ないように、訓練されている。味噌汁を啜る間隔と、同じ速度で。

俺は、ノートの端に、筆箱の主の名前の、読めなかった一文字目を、鉛筆で、書き写した。「高」に近い、けれど、どこか違う。その一文字を、朝食の椀の欠けと同じくらい、正確に、書き留めようとした。

書き留めた、その下に、もう一行、書こうとした時、教室の、前の扉が、開いた。

「遅れた。悪い」

入ってきたのは、背の高い、同級生だった。

濡れた髪が、前髪の先から、水滴を、一つ、教室の床に落とした。制服の肩も、半分、雨に濡れていた。雨など、朝から、降っていない。少なくとも、窓の外は、乾いた曇り空だ。それなのに、男子の制服の、袖口から、水が、一滴、また一滴、と、床のリノリウムに、黒い点を落としていた。点は、落ちた順に、ゆっくりと、広がり、互いの輪郭を、食い合って、一つの、歪な染みになった。雨ではない。井戸の水でも、海の水でもない、もっと、冷たい場所から、汲み上げられてきたような、匂いが、制服の布地から、微かに、立ちのぼっていた。鼻の奥が、ほんの少し、痺れた。

男子は、俺の隣の、空席の、前を通り過ぎて、俺の、斜め後ろの席に、腰を下ろした。

通り過ぎた時、一瞬、俺の机の、筆箱を、見た。

見てから、自分の、ノートを開いた。

開いた、そのノートの、一ページ目の、一番上に、何かの絵が、描きかけで、残っていた。時計塔の、絵だった。針が、三時十七分を、指していた。針の線は、他の下書きの線より、ずっと、濃く、何度も、何度も、なぞられた跡があった。ノートの紙は、その部分だけ、鉛筆の黒鉛で、薄く、光っていた。描きかけ、ではなかった。描くのを、やめられない、そういう、線の重なりだった。三時十七分、という、その時刻だけが、男子の手の中から、外に、逃げ出さないように、封じ込められているようにも、見えた。男子は、その絵の上に、今日の日付を、書き加えようとして、ペンを、止めた。

止めた、そのペン先が、ノートの上で、一秒、震えた。

授業が終わり、休み時間の騒めきが教室に満ちたとき、俺は、その男子の席の横に、立っていた。立つつもりはなかったのに、立っていた。今朝の俺なら、多分、立たなかった。筆箱を閉じるところまでで、止めていた。三度の退学の、いつもの、やり方で。

「……そのノート」

男子は、顔を上げた。

目の下に、濃い隈があった。隈の形が、天井の湿りの、あの、輪に、よく似ていた。似ている、と思ってしまったことに、俺は、自分で、ぞっとした。

「俺、月見里(やまなし)」

男子は、自分の名字を、名乗った。

「……お前、昨日、入ってきた奴だろ」

「うん」

「夜、何か、聞いたか」

俺は、答えなかった。

答えなかったのに、月見里は、頷いた。

「旧校舎、行こう」

小声だった。教室の騒めきの、一番小さな波の上に、そっと、置くような、声だった。

「俺、あそこに、呼ばれてる気がする。──一人じゃ、行けない」

月見里の、手の甲に、薄く、赤い線が、浮いていた。引っ掻かれた、というより、内側から、何かが、皮膚を、押し上げようとしているような、線だった。

「今夜、付き合え」

芹沢が、遠くの席で、こちらを、見ていた。

見ていた、その黒い目が、小さく、首を、横に振った。

俺は、頷いた。

頷いてしまった、その直後、廊下の奥で、鎖の、擦れる音が、一度だけ、聞こえた。

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