第2話
第2話
指先が、先に目覚めていた。 布団の縁を握りしめた形のまま、掌に皺が食い込んでいる。爪が半月型の跡を残していて、そこに青い痣が薄く浮いていた。眠っていた、と言えるのか。沈んでいた、のほうが近い。沈んで、底の冷たさで目だけが覚めた。 障子の向こうは、まだ夜が抜けきっていない。青、というより、鉛の色だった。鉛の色のまま、少しずつ薄まっていく。海の方角だけが、縁を金属で削ったように、細い光を始めていた。 老婆の寝息は聞こえない。 隣の間を覗くと、布団はきちんと畳まれていた。いつ起きたのか、足音も衣擦れもなかった。囲炉裏の灰は、昨夜の青い炎の跡を、灰色の薄い膜にして覆っていた。 手帳を抱えて、外に出た。 一本、増えていないか——それを確かめるために、坂を下りた。足裏の切り傷は血が固まっていて、歩くと薄く剥がれて、また滲む。痛いか、と聞かれれば、痛かった。痛みを感じる神経だけは、ちゃんと動いている。その当たり前が、ありがたかった。 浜に出た。 数えた。一本。二本。三本。……十三本。 昨夜と同じ、十三本。 朝の光が、墓標の木肌を白く照らしていた。昨夜は削りたてに見えた粉も、潮気を吸って、張り付いたように色を変えている。指で撫でると、木の繊維が、ゆっくり起き上がるような感触がした。増えていなかった。減ってもいなかった。 一瞬、ほっとした。 ほっとした自分に、次の瞬間、違和感が刺さった。 なぜ、増えていないことに、ほっとする。 ——増えるものだ、と、俺はもう、どこかで決めていたのか。
朝飯は、麦の粥と、干した小魚の身をほぐしたものだった。 老婆は俺の向かいに座らず、俺が食べている間じゅう、土間で鍋を洗っていた。音だけが動いて、口は閉じられたままだった。背中の骨の浮き方が、夜よりも鋭く見えた。着物の襟の内側に、細い筋が二本、影のように走っていて、その影が呼吸のたびに浅く沈んだ。 「船は、今日は」 俺が聞くと、鍋を洗う音が、一度だけ止まった。止まって、すぐ、同じ速度で再開した。間合いの取り方まで、作り物のように整っていた。 「明日、出すよ」 語尾の上がり方まで、昨日と同じだった。録音テープの継ぎ目が、ぴったり合ってしまって、どこで切れ目があるのかわからない。そういう同じ方だった。 手帳に書いた。 『第二日。朝、船出の返答「明日、出すよ」。昨日と同抑揚。』 粥を飲み込む。舌の奥で、塩の味が遅れてやってきた。最初の一口は味がしなかった。二口目で急に辛い。舌の感覚も、どこかずれている。喉を下っていく粥の粒が、内臓の位置までは届かず、胸のどこかで止まっている気がした。 食後、村を歩いた。歩かないと、家の柱の影が、俺のほうへ伸びてくるような錯覚があった。 井戸端に、女が三人。俺が近づくと、会話が不自然な速度で止まった。止まったあと、一人が桶を持ち直し、一人が髪を耳にかけ、一人が何もせず、空を見た。三者三様の、「俺を見ない」動きだった。俺を見ないために、それぞれ別の用事を割り当てたみたいに。桶の水面が、ゆっくり波を立て、その波は、女が手を止めたあとも、しばらく独りで揺れ続けた。 「おはようございます」 声をかけた。一番手前の女だけが、小さく頭を下げた。下げた角度は、ちょうど、俺の顔と地面の中間。視線は、一度も、俺の顔には上がらなかった。睫毛の影が、頬に落ちたまま、動かなかった。挨拶の返事は、ついに、なかった。 少し行くと、魚を捌いている男がいた。俺に気づいて、包丁を止めた。止めただけで、こちらを見ない。板の上に並んだ魚は、すでに鱗を落とされ、銀の肌が朝日を跳ね返している。血の筋が、板の端から、一滴、二滴と、砂へ落ちていく。 「今日の海は、凪ですか」 「凪だな」 「明日は、船、出せそうですか」 男の手が、魚の腹を捌く寸前で、すっと止まった。包丁の刃が、魚の皮にわずかに触れて、触れたまま、動かなかった。刃先に、朝の光が細く載った。その光が、揺れもせずに、ただそこにあった。 「明日な」 「はい」 「明日、出すよ」 老婆と、同じ語尾だった。発音の長さも、息の抜け方も、寸分違わなかった。まるで、同じ喉から、同じ息で、放たれたような。 ——同じ。 背骨の裏を、冷たい水が一筋、滑り落ちた。 家に戻って、携帯を開く。画面の左上、斜線はまだそこにあった。電源を切って、もう一度入れ直す。起動画面のリンゴが光って、消えて、また圏外。アンテナの印だけが律儀に立ち上がって、律儀に斜線を引かれる。律儀すぎて、逆に、決まった儀式を見せられている気がした。 時計は動いていた。 三時二分。午後の。 その数字の組み合わせに、心臓が一拍、強く打った。昨夜、俺が墓を見た時刻だ。同じ時刻。偶然、と思い込もうとして、思い込めなかった。
二日目の夜も、読経は聞こえた。 布団の中で、耳だけを起こしていた。三時前、外の空気が、ぬるく、湿る。その湿りのあと、低い声が来る。家の壁をなぞるように、通り過ぎる。覗きには、行かなかった。行けば、また老婆が背後に立つ。それがわかっていた。 三時二分。 家の外のどこかで、蝋燭の灯りが、す、と消えるのを、俺はもう見なくても分かった。
三日目の朝、俺は、老婆に同じ質問をした。 「船は、今日は」 「明日、出すよ」 三度目だった。 三度目で、俺は、老婆の目を見た。老婆は、俺の目を見なかった。俺の顔の、袖口のあたりを、少しだけ見た。昨日、男が見たのと同じ位置だった。まるで、そこに見るべき札が貼られていて、顔の側を見てはいけない決まりになっているかのようだった。 手帳に、書いた。 『第三日。返答「明日、出すよ」。三度連続、同抑揚。村人全員、俺の袖口を見る。俺の顔は見ない。』 書き終えて、ペンを置いた。 置いた手が、自分の手のように見えなかった。指の節の皺が、他人のそれのように、遠かった。 ——嘘を、つかれている。 わかっていた。わかっていて、わかっていないふりを、俺はしていた。わかってしまえば、次に動かなければならないのは、俺のほうだからだ。 「明日、出すよ」は、船を出す予告ではない。船を出さない、ことを、毎日、丁寧に包み直す作業だ。昨日の「明日」と、今日の「明日」は、同じ「明日」ではない。だが、同じ抑揚で同じ「明日」と言うことで、昨日と今日の境目を、俺から取り上げている。 日付の感覚を、奪われている。 観察は怯えの反対側にある、と、昨日の俺は書いた。書いた俺に、今日の俺は、もう一度言い聞かせた。言い聞かせる声は、頭の内側で、やけに平坦だった。平坦なまま、胸の下の方に、重く落ちていった。 言い聞かせながら、俺は手帳の新しい頁を開いた。上の余白に、ペン先を強く押し付けて、題を書いた。 『孤島観察記』 書いた瞬間、指先に、やっと、熱が戻ってきた。 観察の、項目を決めた。 一、誰が、いつ、どこで、俺の顔を避けるか。 二、家々の灯りが、何時に点き、何時に消えるか。 三、浜の墓標の、数と位置の変化。 四、老婆の返答と、その語尾の抑揚。 五、線香の匂いの、強さと方角。 書きながら、少しずつ、輪郭が揃っていく気がした。怖さは消えない。消えないまま、輪郭の内側に、押し込める。 この島が何かを隠しているなら、隠し方には、手順がある。手順には、順番がある。順番がある以上、そこには、ずれ、が、必ず、ある。 ずれを、俺は、見つけに行く。
その夜、俺は窓の隙間から、村の家々の灯りを数えることにした。 囲炉裏の火を落とし、障子を細く開ける。風は、やはり、ない。開けた隙間から流れ込む空気は、温度も湿度も、昼と変わらなかった。外と内の境目まで、誰かが均(なら)しているようだった。 家は三十戸。灯りはまだ、十七、点いていた。 時計を見た。十時五十八分。 五十九分。 十一時、ちょうど。 左から三軒目の家の灯りが、す、と消えた。 息を殺した。十一時六分、坂の中腹の家。十一時十二分、井戸端の家。十一時十八分——。 六分ごと。 ちょうど、六分ごとに、一つずつ、灯りが消えていく。 手帳に、時刻を書き並べた。書きながら、手が、冷えていくのが、自分でもわかった。ペンの軸が指の腹で滑る。汗ではない。冷えが、皮膚の側から、じわりと滲み出している。 節電、ではない。人の暮らしの灯りが、こんなに正確に、同じ間隔で消えるわけがない。子が愚図ればずれる。風呂の湯加減でずれる。酒のひと口でずれる。ずれない、ということは、そこに暮らしが、ない。 ——規則。 規則そのものが、怖い。 最後の灯りが消えるのは、何時なのか。それは、数えれば、わかる。 だが、その前に、俺は、気づきたくないことに、気づいてしまった。 十三戸、だ。 今夜、六分ごとに消えていく灯りは、十三戸。