第3話
第3話
十三戸、という数字を、手帳の上の行に書いた。書いた字は、自分の字でありながら、自分の字らしい揺らぎがなかった。定規で引いたように直立した「十三」が、夜の紙の上で、昼の看板のように浮いていた。 障子の隙間から、また一つ、灯りが消えた。十一時二十四分。坂の下、石垣のすぐ裏手の家。これで五戸。残りは、八戸。 息を殺した、というより、息の方が勝手に細くなっていた。吸い込む空気が、薄い絹のように喉を撫でて、肺の底まで下りていく前に、鎖骨の裏で止まる。止まった空気は、体温をもらわずに、そのまま口から出ていく。部屋の中と外で、空気の温度が、まるで入れ替わっていないみたいだった。吐いた息が、白くならない。夜気は確かに冷えているはずなのに、俺の口から漏れる息だけが、夜の色に溶けて、どこにも形を残さなかった。 五分五十七秒。五分五十八秒。十一時三十分。 右手奥、藁葺きの屋根の家の、橙色の灯りが、揺らぎもせずに、す、と落ちた。 六分ちょうど、ではない。五分五十七秒から、六分三秒までの、誤差六秒の窓に、必ず収まる。俺はそれを、もう、知っていた。知っていたから、時計の秒針の、最後の一周だけは、見ないようにしていた。見ると、見ることで、自分がこの「時計」の側に組み込まれてしまう気がしたからだ。 ペン先を、新しい行に下ろした。 『第三夜、二十二時五十八分開始。十三戸、六分間隔。誤差六秒。』 書いて、ペンを置いて、気づいた。ここまで書くのに、俺は、呼吸を、二度しかしていない。
残る八戸。七戸。六戸。 灯りが消える順序には、地形による差がなかった。坂の上も下も、浜に近い家も崖寄りの家も、消える順はばらばらだった。だが、消え方の、最後の動きだけが、すべて同じだった。 誰かが、障子の向こうで、ランプの芯に、指を近づける。指は、芯を、摘まむのではない。触れた、と分かる前に、もう、灯りは消えている。どの家も、火を吹き消す息が出ていない。風の動きが、どの家の軒先でも、起きていない。障子紙が、ひとつも揺れない。虫の声さえ、この刻限には、ぴたりと止んでいた。止んでいるというより、村全体が、音を禁じられたような、そういう静けさだった。 消し方が、揃っている。 俺は、手帳の頁を繰って、昨日の朝、一番上に書いた『孤島観察記』の題を、指の腹でなぞった。木の繊維の凹みに、書いた字の跡が、まだ残っていた。その跡を撫でていると、指先の冷えが、文字の凹みの底に、溜まっていくようだった。指先だけが、妙に、濡れているように感じた。汗ではない。書いた字の方から、冷気がにじみ出しているような、そんな錯覚だった。 観察は怯えの反対側にある。 何度でも、そう言い聞かせた。言い聞かせるたびに、胸の奥の、肋骨のいちばん下の骨が、鈍く鳴った。鳴るはずのないところで、鳴っていた。 十一時四十八分。浜寄りの家、戸口の提灯が、落ちた。 五十四分。隣の家、二階の障子の内側の光が、消えた。 十二時、ちょうど。 最後の一戸、老婆の家の、裏手の納屋の灯りが、音もなく、消えた。 十三戸。消え終わった。 俺の肩が、やっと、一度、落ちた。落ちて、初めて、肩の上に、重いものが載っていたのだと、気づいた。 同じ家に、二度目の灯りは点らなかった。一度消えた家は、それきり、朝まで暗いままだった。眠ったのではない。眠った家の、寝息のような、微かなざわつきが、まったく、ない。音の層が、灯りの層と一緒に、剥がれ落ちていた。 村の三十戸のうち、残った十七戸は、灯りを点けたままだった。だが、そちらの家の窓の向こうにも、人の影は動かない。点けたままの灯りの下で、人も、影も、空気も、ただ、止まっている。灯りがあるのに、生きている気配がない。消えた十三戸の方が、むしろ、「何かが、きちんと終わった」静けさを持っていた。終わった静けさと、止まったままの静けさが、道を一本挟んで、並んでいた。 ——点けたままの家と、消える家。境目は、どこだ。 手帳に、村の略図を描こうとした。井戸。坂。老婆の家。魚を捌いていた男の家。女三人がいた桶の場所。描きかけて、ペン先が、止まった。 消えた十三戸の位置を、点で打ってみる。点を、線でつないでみる。 円、ではなかった。直線でも、ない。 浜辺に並んだ墓標と、同じ並びだった。 十三本の墓標を、海と平行に、等間隔で並べ、その一本一本の線を、村の内側へ真っ直ぐ伸ばす。伸ばした先の、ちょうどぶつかる位置に、消えた十三戸が、一戸ずつ、あった。 地図の上で、墓と家が、つながっている。 一対一で、つながっている。 鉛筆の先でなぞった細い線が、紙の上で、まるで自分の意思で伸びていくように見えた。引いたのは俺の手のはずなのに、線の方が、俺の手を引いている、そんな気がした。
ペンを落とした。 音もなく落ちたペンが、畳の目に沿って、ころり、ころりと、二度転がって、止まった。拾う気になれなかった。拾えば、もう一度、自分の手で、あの線を引き直してしまう。 戸を、細く、さらに開けた。冷たい空気が、ではない。生ぬるい、湿った空気が、ゆっくりと、流れ込んできた。線香の甘い匂いが、昼より濃くなっていた。匂いの源は、家の中ではない。村の中心の、どこかからでもない。村の外側、崖の向こう側から、細い糸のように、流れてきていた。糸は、鼻の奥で一度ほどけ、喉の奥で、もう一度、結び直された。飲み込んだわけでもないのに、匂いの端が、腹の底に、重く沈んだ。 道に出た。履物の底で、砂利の音を鳴らさないように、踵から、そっと下ろす。提灯は持たなかった。持てば、俺の灯りが、十四番目に、数えられる気がした。 坂の中腹、消えたばかりの家の、板戸の前に立った。耳を、戸板に寄せる。 何も、聞こえない。 息遣いも、衣擦れも、寝返りの軋みも。家の中に、人の重さがある、という、空気の粘りが、ない。戸板に当てた耳たぶに、冷たい木の繊維の硬さだけが、じんわりと、張り付いた。 指の腹で、戸の木を、そっと押した。押した分だけ、戸は、抵抗もなく、内側に開いた。鍵は、掛かっていなかった。 「すみません」 小さく声を投げた。返事はない。声は、土間の暗がりに吸い込まれて、戻ってこなかった。戻ってこないまま、耳の奥で、あの低い読経が、微かに、湧き上がってきた気がした。自分の声が、自分ではない誰かの声として、家の奥で反響したような、そういう錯覚だった。 俺は、戸を、閉じた。開けたときと同じ静かさで、閉じた。 家の前を離れるとき、軒下に、小さな札が吊られているのを、月の光で見た。墨で、縦に、一文字。 『返』。 返す、の、返。 隣の家の軒下にも、あった。文字は、違った。 『待』。 待つ、の、待。 その隣。 『順』。 順番の、順。 十三戸、一つひとつに、違う一文字の札が、下げられていた。札はどれも真新しく、墨の匂いが、まだ、紙に、残っていた。指を近づけると、墨は、まだ乾ききっていないのか、わずかに、湿り気が指先に移った気さえした。 残った十七戸の軒下には、札はなかった。 札の順は、灯りが消える順と、一致していた。 返、待、順、先、名、無、逝、背、沈、越、流、了——。 一文字ずつ、声に出さずに、口の中で形だけ作って読んでいった。読むたびに、口の中の唾が、少しずつ、粘り気を増していく気がした。 最後の家、老婆の家の納屋の軒に下げられた札だけは、俺は、読むのが、遅れた。読むのが遅れたのではない。読みたくなかった。 『次』。 次、の、一文字だった。
家に戻って、囲炉裏の前に、崩れるように、座り込んだ。灰の底に、青い燠(おき)が、一つだけ、まだ生きていた。 手帳を開いた。 『第三夜、二十二時五十八分〜翌〇時〇〇分。十三戸、六分間隔で消灯。消灯順と浜墓標の並び、一対一で対応。軒下に札、十三文字。返、待、順、先、名、無、逝、背、沈、越、流、了、次。』 書き終えて、顔を上げた。 老婆が、土間に立っていた。いつから、そこにいたのか、わからない。足音も、衣擦れも、聞こえなかった。 「坊や。今夜は、海の音が、よく通るねえ」 声は、相変わらず、優しかった。 「明日、な」 老婆は、微笑んだ。 「丈吉(じょうきち)さんが、挨拶に来るよ。漁師の、あんたと同じ歳頃の、気さくな男だよ」 丈吉、と俺は、口の中で、繰り返した。 老婆は、続けた。 「ただしね、坊や。あの人の注ぐ酒は、一杯だけに、しておきな」 囲炉裏の燠が、一度、ぱちん、と爆ぜた。 爆ぜた火花の向こうで、老婆の目は、今夜、初めて、俺の顔の、真ん中を、見ていた。