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孤島観察記

第1話 第1話

第1話

第1話

砂利が、頬の皮膚を削っていた。  目を開けたのではない。目を開けていたのに、像がやっと像になっただけだ。灰色の砂と、それより少し濃い灰色の海。鼻の奥に海水が溜まっていて、息を吸うたびに喉の裏で塩が跳ねる。  指を動かしてみる。動いた。足も動く。胸を押している木片は、どこかで剥がれたデッキの一部らしい。塗料が剥げて、釘の頭だけが白く錆びていた。 「……生きてるのか、俺」  独り言が、喉の潰れた音になって出た。  遠くで、杖をつく音。じゃり、じゃり、と砂利を踏んで、こちらへ近づいてくる。 「坊や、口を開けな」  皺の刻まれた手が俺の顎を掴み、顔を横に向けさせた。飲んだ海水が逆流して、胃の底から熱い塩の塊がこぼれ落ちる。目の前の砂利が、俺の吐いたもので茶色く染まった。 「よう吐いた。吐いたら生きる」  老婆だった。日に焼けた皮膚に、薄い唇。白い前髪が海風に流されても、瞳だけは一度も俺から逸れない。 「ここは……どこですか」  聞きながら、後悔した。たぶん答えは欲しくない。  老婆は答えず、俺の肩に綿のような重さの手を置き、立たせた。足裏に感覚が戻ってくる。左の踵を切っていた。歩くたび、血が砂に点々と残って、踵の裏で潮が沁みる。痛いと感じるより先に、温かい、と感じた。それがかえって気味悪かった。 「船はもう、出ないよ」  声は優しかった。優しかったから、逆に指先が冷えた。  顔を上げた。霧が斜めに流れていて、海は凪いでいた。嵐に呑まれたはずなのに、沖には白波の一つも立っていない。まるで、嵐があったのは俺の船の周りだけで、この島の海は最初からこうだったみたいに。 「……船は、明日出ますか」 「明日、出すよ」  老婆は微笑んだ。微笑みだけが先に笑って、目はまだ俺を見ていた。

 村は、崖の切れ目を縫うように、三十戸ほどが身を寄せ合っていた。  瓦は黒く、木の戸板は潮で白く粉を吹き、どの家も同じ向きに傾いで建っている。風下ではない。海から来る視線を避けるような、そんな傾ぎ方だった。軒先に吊るされた魚は、干からびた皮の下で骨の影だけが透けて、風もないのに、ゆっくりと同じ拍で揺れていた。  老婆の背について坂を上るあいだ、左の家から老人が、右の家から中年の女が、一人、また一人と顔を出した。  誰も、目を合わせなかった。  視線が俺の顔に当たる直前で、スッ、と逸れる。まるで、俺の顔の五センチ手前に見えない薄氷があって、みな申し合わせたようにその手前で視線を滑らせているみたいに。視線が逸れた先に、何があるわけでもない。ただの板塀、ただの物干し竿。それでも彼らは、そこに用があるふりをした。 「よう、拾ったのか」  男が一人、老婆にそれだけ言った。老婆は頷いた。男は俺ではなく、俺の濡れた服の袖口を見た。袖口が、なぜか、一番怖かった。顔でも、手でもなく、袖口。そこに何が見えるのか、俺にはわからない。わからないまま、男は口の端をほんの少しだけ歪めて、戸の内側へ戻っていった。  老婆の家は村の一番奥にあった。囲炉裏の匂い。煙と、魚を干した匂い。そして、もう一つ——甘い、線香の匂いが、どこかから薄く流れてくる。仏壇はこの家のどこにも見当たらないのに。 「携帯電話、ありますか。もしよければ、家族に——」 「電波は、来ないよ」  老婆は手早く乾いた着物を出し、俺の濡れた服と替えるよう促した。ポケットから自分の携帯を取り出してみる。画面の左上に、細い斜線が重なっている。圏外。斜線の角度が、ここから先はもう届かない、と言っているようだった。 「船は、本当に明日ですか」 「明日、出す」  また、同じ返事だった。同じ返事を、同じ抑揚で、老婆は三度、返した。一度目は出会い頭。二度目は家に入る前。そして今。録音を巻き戻したように、語尾の揺れまで同じだった。  俺は、無意識に左手をズボンの後ろポケットへ回した。濡れてふやけた手帳と、芯の折れていないボールペンが、奇跡的に一本残っていた。  大学を出てから三年、俺はイベントの行動調査会社で、人を見る仕事ばかりしていた。会場のどこに人が溜まり、誰がどの順で動き、何秒目に何を避けるか。そういうものを取って、線で結ぶ。身についた癖は、職業病というより生理現象だった。気を抜けば勝手に人の動きを数えている。  手帳を開く。滲んだインクの上に、新しい字を重ねる。 『午後二時頃、漂着。拾ったのは老婆一人。村人十数名、目を合わせず。袖口を見た男一名。線香の匂い、仏壇は見えず』  書いた瞬間、指先の冷えが、少しだけ引いた。  分からないものが、多すぎる。だから書く。書いて、並べて、見ていれば、いつか繰り返しが見えてくる。同じ言葉を三度返す口。視線を逸らす角度。袖口を見る目。これらは、偶然ではない。偶然に見せかけた、手順だ。  観察は、怯えの反対側にある。  そう自分に言い聞かせながら、俺は囲炉裏の火を見た。炎の先端だけが、妙に、青みがかっていた。青い炎は、塩を含んだ木を焚くと出る。だが、ここまで綺麗な青は、見たことがなかった。青は、炎の根元から先へ行くほど濃くなって、最後は透き通るような藍に変わり、煙を上げずに空へ消えた。

 夜は、音から来た。  布団に入って、うとうとと一度落ちた。落ちたのに、耳が先に目を覚ました。  波の音。いつもの波の音。その奥に、もう一つの層がある。  低い、男たちの声。ぐう、ごう、と尾を引く、読経のような響き。言葉は聞き取れない。うねるだけのリズムで、ただ、長く、途切れない。家の中に響いているのではなく、家の外壁を音が薄く撫でて通り過ぎていく感じだった。  時計を見た。三時二分。  布団を剥いで、足音を殺し、戸の隙間から外を覗いた。風はなかった。風がないのに、空気だけが、冷たく、ゆっくり、回っている気がした。  老婆の家の裏手から、海への細い道が伸びている。その道の先、砂浜のあたりに、淡い灯りが揺れていた。ぼんやりとした、蝋燭ほどの大きさの光。一つ。揺れて、そして、す、と消えた。  靴を履いた。履く音で、老婆が隣の間から目を覚ます気がした。だが、息遣いは変わらない。深く、規則的に、穏やかすぎるほど穏やかに眠っている。死んだ人のような、と一瞬思って、打ち消した。  砂を踏む自分の足音が、一歩ごとに大きく聞こえた。道の両脇に生えた雑草が、膝の高さで揺れた。揺れているのに、風はない。草の動きだけが、何かに呼ばれて揃っているようだった。  砂浜に出たとき、灯りはもう消えていた。代わりに、月明かりが、砂の上の何かを浮き彫りにした。  木の板が、立っていた。  ひとつ、ふたつ、と数える。  十三本。  等間隔で、海と平行に、横一列に並んでいた。朽ちかけた杭の頭だけが砂から突き出しているのではない。きちんと削られ、上の縁が揃えられた、墓標だった。  しかし、どの墓標にも、名前が彫られていなかった。  表面を撫でた。削りたてだ。指の腹に、まだ新しい木の粉が付く。線香の甘い匂いが、ここだけ、潮の匂いを上書きしていた。潮の匂いは、墓標の手前で立ち止まり、墓標の向こう側にはもう行かなかった。まるで、そこに一本の見えない線が引かれていて、匂いまでもが、その線を越えるのを遠慮しているみたいに。  ——これは、何だ。  心臓が速い。速いのに、体のどこかが凍って、うまく呼吸が繋がらない。俺は一歩、後ずさった。踵が切れた場所の血が、夜の砂にまた一滴落ちた。落ちた血は、砂に吸われる前に、黒くまるい点のまま、しばらく残った。  背後で、砂を踏む音がした。  振り向いた。  老婆が立っていた。寝間着のまま。  微笑んでいた。 「坊や、そう見てちゃ、覚えちまうよ」  声は、優しかった。夕方と同じ、優しさだった。 「覚えたら、ね。あんたも、数えられる側に行っちまうから」  何も言えなかった。言葉が喉で乾いて、ざらついて、ただ、頷くことも否むこともできずに、立っていた。  老婆は俺の手から砂がこぼれるのを見ていた。木の粉が、その中に混じっていた。 「さ、戻りな」  老婆は背を向けた。背の後ろで、指が一度、二度、何かを数えるように動いた。十三、と読めた気がした。

 家に戻って、俺は震える指で、手帳を開いた。  さっき書いた一行の下に、書き足した。 『午前三時二分、浜に墓標十三本。名なし。削りたて。線香の匂い。老婆、寝間着で現れる』  書き終わって、ペンを置いたとき、自分の字が、他人の字のように見えた。  枕元で、囲炉裏の火が小さく爆ぜる。  眠れるわけがない。眠ってはいけない、とも思った。だが、体は勝手に深い底へ沈んでいく。  意識が落ちる直前、耳の奥で、もう一度あの読経を聞いた。  ——十三。  数は、合っているか。  明日の朝、もう一度、数えに行こうと思った。  一本、増えているかもしれない。そう思った自分の頭が、ひどく静かに、怖かった。

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