第1話
第1話
腐った畳の匂いが、廃屋の玄関をくぐった瞬間、鼻の奥を塞いだ。
三十年分の湿気と、甘ったるい何かと、その下に潜む鉄の味。俺はタオルで口元を覆い、先輩の嘲笑をもう一度、奥歯で噛み潰した。
「まあ頑張れよ、供養屋。お前にはお似合いの現場だろ」
ギルド酒場で背中越しに聞かされた声が、携帯の電源を切ったあとも鼓膜にこびりついている。山際市郊外、旧・荒川邸、B級単騎、三十年前一家心中現場。案件伝票の事務的な文字列を、もう一度頭の中で反芻した。B級は本来、四人パーティで踏む現場だ。そこに俺は一人で投げ込まれている。理由は単純で、俺の能力が「浄化供養」だからだった。斬れない、撃てない、罠にも使えない。死者を還すだけの片肺能力。パーティ編成の数合わせからも外されて、もう三ヶ月になる。
懐中電灯のスイッチを押し込むと、白い光の輪が、ささくれた廊下の奥へ落ちた。
玄関の三和土には、煙草の吸殻が二本。警察のものか、先行した誰かのものか、どちらにせよ古い。腰のベルトには、塩札二十四枚、経文の写しが三枚、護符札が五枚、供養用の線香が一束。普通の探索者の武装の三分の一にもならない軽さだ。俺の本職は、殴ることでも撃つことでもなく、「還す」ことだから、こうなる。
廊下を一歩進むたび、床板が、ぎし、と沈んだ。
居間の襖は、最初から半分、外れかけていた。
懐中電灯の光を差し入れる。畳は黒く変色して膨らみ、いくつかの目地から、粘った汁のようなものが染み出していた。卓袱台の脚が一本だけ折れ、天板が斜めに畳を睨んでいる。その上に、古い家族写真が一枚、裏返しに落ちていた。
俺は、触らない。案件伝票には「遺物の接触は報告書記載後」とある。それに──あの写真には、触れたくない予感があった。
「……馬鹿らしい」
口に出してから、自分の声が廊下に吸い込まれていくのを聞いて、俺は口をつぐんだ。廃屋で独り言を零すな、と新人の頃に先輩から叩き込まれた。怪異は、名前を呼ばれるのが好きだし、独り言を聞いているのが好きだ。
もう一歩、居間へ踏み込む。
畳の上に、埃の積もり方に偏りがあった。誰かが、ここを、最近歩いた痕跡。靴跡ではない。裸足の、踵の、淡い跡だった。大人のものではない。
──子供。
背筋を伝った冷たい一滴を、俺は意識的に無視した。供養能力者にとって、「いる」は当たり前だ。いなければ呼ばれない。問題は、数と、状態と、未練の深さ。
耳の奥で、低い音が鳴った。
誰かが、遠くで、息を吸い込んで、また吐いた。そういう音だった。啜り泣きとも違う。もっと疲れ切った、諦めた呼吸の音。意識を向けると消える。意識を外すと、また聞こえる。俺はこの類の音を何度も聞いてきた。残留思念が、壁の中で、まだ息をしているときに出る音だ。
「おい、供養屋。どうせお前、今夜も線香焚いて帰ってくるだけだろ?」
昨夜のギルド酒場で、カウンターの向こうで笑っていた同期の顔が、懐中電灯の光の端でちらついた。あいつらには、俺が廃屋で何をしているのか、本気でわかっていない。怪異を殴り倒して、換金可能な部位を剥いで、報酬を受け取る。それが探索者の仕事だと思い込んでいる。
でも、それだけじゃ、屋敷は鎮まらない。
殴り倒された霊は、一時的に沈黙するだけだ。数ヶ月、数年、へたをすれば数十年後、別の場所で、別の誰かに噛みつく。鎮めるためには、還す必要がある。還すためには、経と、塩と、供養の作法が必要で──それができる能力者は、業界の中で、極端に少ない。
少ないのに、金にならない。
案件伝票の余白に走り書きされた、事務員の字を思い出す。「遺族なし。年間供養費なし。業者の線香代は実費報告」。遺族がいないから、誰も金を出さない。金を出す者がいないから、俺の仕事は最底辺扱いになる。
──別にいい。俺は、もう慣れた。
懐中電灯の光を、居間の隅、漆喰が剥がれて下地が露出した壁に向けた。そこに、黒い染みが、雨漏りのような形で広がっていた。染み自体は珍しくない。雨漏りと、湿気と、古い血の混じった跡は、廃屋に付き物だ。問題は──その染みの一点が、ぷくり、と表面に膨らんで、ゆっくりと、下に向かって垂れたことだった。
垂れて、また膨らんで、また垂れる。
呼吸のようだった。
耳の奥の息遣いが、少しだけ、近くなった。
俺は、壁から視線を引き剥がして、足元に落とした。案件伝票の平面図を、ベストのポケットから取り出す。居間、子供部屋、台所、仏間、二階の寝室二つ。平面図のどこにも、今この家から聞こえている息遣いの主は、描かれていない。
畳を一枚、爪先で捲ろうとしたとき、懐中電灯の光が、畳の端から、床板の上に落ちた。
何かが、彫ってあった。
最初、木の節目かと思った。俺は膝をついて、畳の端をもう少し持ち上げた。埃が舞い、鼻の奥を刺す。光を近づける。節目じゃない。刃物で、繰り返し、繰り返し、削り込まれた、浅い線。線は、文字の形をしていた。
ひらがな、三文字。 その下に、漢字、二文字。
──俺の名前だった。
心臓が、一拍、遅れて打った。
偶然同じ名前のやつがいるんだろう、と言い聞かせる前に、苗字まで続いていた。よくある名前じゃない。同期の中でも、俺以外に聞いたことのない苗字だ。俺は無意識に、胸ポケットからギルドの身分証を取り出して、彫られた文字の横に並べた。
一致した。
一文字の跳ね方まで、俺の筆跡に似ていた。小学生の頃、自分の名前の最後の跳ねが、担任に何度直されても直らなかった。中学に上がっても、高校を出ても、結局その癖は抜けなかった。その癖が、三十年前に止まったはずの床板の傷に、そのまま刻まれていた。
……なんで。
頬の内側を、奥歯で噛んだ。血の味が広がる。痛みで意識を手繰り寄せて、もう一度、文字を見下ろす。見間違いじゃない。刃物の深さも、削り直した回数も、まともじゃない。何度も、何度も、誰かが、この床板を削り直して、俺の名前を残している。
三十年前に一家心中があったとされる家の、畳の下に。俺がまだ、生まれてもいない頃に。
──死んだのか、俺。
そんな馬鹿げた考えが一瞬、脳裏を横切った。俺は今ここに立っているし、息もしているし、塩札は腰で鳴っている。死んでいない。死んでいないはずだ。けれど、この家に、俺より先に、俺の名前が来ていた。
いや、違うのかもしれない。俺がここに来るよりずっと前から、この家は俺の名前を知っていて、ずっと待っていた。畳の下で、床板を削りながら、削り直しながら、待っていた──そう考えたほうが、辻褄が合ってしまう。その想像は、口の中に広がった血よりも、濃く鉄の味がした。
懐中電灯の光が、俺の指の震えのせいで、彫り込まれた文字の上でちかちか揺れた。
その揺れの中で──居間の奥の壁が、動いた。
正確に言えば、壁に染み込んでいた黒いものが、動いた。雨漏りのような染みの一点が、ぷくり、とまた膨らみ、今度はゆっくりと、縦に長く伸びた。腕の形に似ていた。伸びた先は、床板に触れる直前で、指の輪郭に、なっていた。関節の節くれの位置が、子供のそれだった。爪の形まで、懐中電灯の光の中で、うっすらと白く浮き上がって見えた。
耳の奥で、遠かった息遣いが、言葉の形に変わった。
「……おうち、」
途切れた幼い声が、畳の目地を這ってきた。
女の子の声だ。
俺は立ち上がろうとした。
立ち上がれなかった。
膝の下の畳が、吸盤のように足を握っていた。見下ろす。畳は畳のままだ。けれど、重心を引き上げようとすると、足首の骨が、何かに押さえられている感触がある。冷たい、湿った、指に似た何か。
腰の塩札に、手が伸びた。 伸ばした、その手が、止まった。
彫られた名前の上で、懐中電灯の光が、ふっと、細くなった。
誰かが、この家のどこかで、俺の懐中電灯の電池を、ゆっくり、吸っている。光の輪が、半分の径に、さらに細く縮んでいき、畳の目地を這う黒ずみを、ぎりぎりのところで舐めるように照らしていた。
壁の黒い膜が、もう一度、下に垂れる。その先端の指の輪郭が、畳の上に、音もなく、触れた。
「おうちに、帰りたい」
幼い声が、今度は、はっきりと、言葉になった。
腐った畳の匂いの奥から、湿った足音が、廊下の向こうを、こちらへ、一歩、踏んできた。