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供養屋の還り道

第2話 第2話

第2話

第2話

幼い足音は、廊下の板を一枚、また一枚と、確かめるように踏んできた。

懐中電灯の光は、もう拳ひとつ分の輪にまで痩せていた。電池の残量を示す赤い点が、グリップの脇でじりじりと点滅している。新品の単三を、玄関をくぐる前に替えたばかりだった。電池は関係ない。この家の中に、光を吸う何かがいる。

膝を突いたままの姿勢で、俺は、足首を押さえる冷たい感触をこらえた。畳の下から、湿った指の腹が、靴下越しに、俺のくるぶしの骨を一本ずつ数えていた。

──動くな。

自分に言い聞かせる。動けば、相手は俺を「生者」だと認識する。供養対象ではなく、「欲しいもの」として見る。経を先に唱える。塩は最後だ。順番を間違えれば、相手は鎮まる前に暴れる。

「南無……」

唇が震えた。舌の奥が乾いて、文字の形を作れない。三十年前に止まった時間の中で、誰かが俺の名前を削り直し続けた、その手つきを、足首の指の動きが、そっくりそのまま真似ているように思えた。爪の先が、靴下の繊維を、ひと筋、ひと筋、撫でていく。

「おうちに、かえりたいの」

幼い声が、今度は、耳のすぐ下で鳴った。

俺の視線は、床板に彫られた自分の名前から、ゆっくり引き剥がされて、壁の染みへ戻った。黒い膜は、もう膜ではなくなっていた。漆喰の割れ目から、二の腕の半ばまでが、ぬるりと押し出されて、畳に垂れた指先が、小さく、開いたり閉じたりを繰り返している。

腐った畳の匂いの奥に、別の匂いが混じり始めていた。

甘い、青い、果実が内側から潰れたような匂い。嗅いだことがある。去年、夏の終わりに、用水路の詰まりから引き揚げられた猫の死骸の匂いに、よく似ていた。あの日、先輩は鼻の下にメンソールを塗りながら笑った。「慣れんなよ、この匂いに慣れたら、こっち側の人間だ」と。今、俺の鼻腔の奥で、そのメンソールの残り香と、壁から漏れる甘い腐臭が、ゆっくり混ざり合っていた。

壁から、肩が出た。

## ※

肩が出て、鎖骨が出て、濡れた黒髪の毛先が、畳の埃に触れた。髪の先端から、透明とも黒ともつかない液体が、ぽたり、と一滴、畳の目地に落ちた。落ちた場所の藺草が、じゅう、と小さな音を立てて、黒く沈んだ。

懐中電灯の光を、そちらへ向ける。光はもう、相手の輪郭の半分までしか届かない。それでも、見えた。

小さい。

俺の腰の高さに届かない。七歳か、八歳か、そのあたりの背丈だった。片方の袖が肩口から破れ、剥き出しになった二の腕の皮膚は、青黒く斑に変色して、ところどころ、下の肉が白く覗いていた。脇腹から腰にかけては、水を含んだ布のように、重く垂れ下がっている。胸元のあたりに、赤い糸で縫い取られた、小さな花の刺繍が残っていた。母親の手仕事だ、と、理由もなく分かった。糸の端がほつれて、少女の一歩ごとに、ちり、ちり、と畳の目を引っ掻いていた。

湿った足音の主は、これだった。

廊下の奥から歩いてきたのではない。壁の中で、ずっと、歩く練習をしていたんだ──そう理解した瞬間、膝から下が、芯から冷えた。

足首の感触が、ぐっ、と強くなった。

畳の下の指が、とうとう、五本揃って、俺のくるぶしを握り込んだ。力は、意外なほど弱い。子供の握力だった。けれど、冷たさだけは、本物の氷よりもなお重たい、長い年月を積み重ねた冷たさだった。皮膚の下の血管が、その冷たさに追いつこうとして、逆に縮こまっていくのが分かる。ふくらはぎの筋肉が、自分の意思と関係なく、小刻みに痙攣した。

俺は、呼吸を三回に分けて吐いた。

経の一句目を、喉の奥で転がす。『諸行無常』。文字の形を舌で確かめる。次、『是生滅法』。腰のベルトに指を這わせる。塩札の束の、一番上の一枚。封の紙に触れたところで、相手が顔を上げた。

瞳が、ない。

いや、あった。眼窩の奥に、瞳はあった。ただ、白目と黒目の境が、溶け出した蝋のように、混ざり合っていた。焦点が、合わない。合わないまま、それでも、俺を、見ていた。

「おにいちゃん」

幼い声の語尾が、畳の目地を舐めた。

「おにいちゃん、まえにもきた?」

心臓が、一拍、飛んだ。

前にも、来た。そう訊かれた。

来ていない。この案件は、昨日の夕方に貼り出された、俺が初めて請けた単騎案件だ。地図アプリで住所を確かめたのも、今朝が初めてだった。

けれど、床板には、俺の名前が彫ってある。

三十年前から、削り直され続けた、俺の筆跡で。

少女の唇が、ゆっくり動いた。下唇の端が裂けていて、動くたびに、黒く粘ったものが、顎まで垂れた。俺は、塩札の封を、指の腹で弾き割った。紙の繊維が、ぷつ、と鳴る。

「ごめんな」

経ではなく、そう口に出した。出してしまってから、新人の頃の教えが脳裏を横切った。廃屋で独り言を零すな。怪異は、言葉に寄る。

少女の瞳の、溶けた白と黒が、俺の声に、ぴたりと合わせて、集束した。

## ※

視線が、噛み合った。

ほんの半拍。

それだけで、もう、間に合わなかった。

──記憶が、流れ込んできた。

自分の頭蓋骨の内側に、他人の見た光景が、容赦なく注ぎ込まれる感覚を、俺は何度か経験したことがある。浄化供養の副作用だ。ただ、これまでのそれは、川に流す灯篭のように、ゆっくり、細く、線香の煙ほどの太さで流れてきた。今回は、違った。

ホースの先を、無理やり口に突っ込まれたようだった。耳の奥で、自分のものでない鼓動が、二つ、三つ、重なって鳴っている。鼻腔には、今ここにはないはずの、炊き立ての米の匂いと、縁側に干された布団の、太陽に焼けた匂いが、同時に満ちた。

──居間。今、俺が膝を突いているこの居間。畳は新しい。藺草の青い匂い。夕方の光が、障子越しに、山吹色に差している。卓袱台の上に、湯気の立った味噌汁の椀が、四つ。椀の脇には、焼いた秋刀魚が、白い大根おろしを添えられて並んでいた。皿の縁に、大根おろしから垂れた汁が、透明な筋を作っている。

母の声がする。『ごはんできたよ』。 兄の声がする。『手ぇ洗ってきた』。 父の、少し低い、疲れた声。『今日、変な電話、あったか』。

──そして、玄関の、引き戸が、鳴った。

がらり、と、乾いた音。

『こんばんは』。

知らない男の声だった。柔らかい、低い、笑いを含んだ声。少女の目線で、俺は、廊下の向こうを見ている。母が立ち上がる。父の肩が、ぴく、と強張る。兄が、味噌汁の椀を握ったまま、固まる。

『ちょっと、道、お伺いしてもよろしいですか』。

母が、玄関へ歩いていく。

少女の視点は、母の背中を追う。追おうとして、途中で、止まる。父が、少女の肩を、強く掴んだからだ。父の指が、少女の鎖骨に食い込む。『行くな』。父の声は、震えていた。父の手の皮膚は、少女の記憶の中で、ずいぶん分厚く、節くれ立って感じられた。指の腹に、農作業でできた固いタコの感触があった。

玄関で、鈍い音がした。

重い袋が、畳に落とされたような音だった。

母の悲鳴は、なかった。

代わりに、廊下を、ぞろぞろ、と、複数の足音が踏んできた。一人ではなかった。二人、三人──もっと。作業靴の、土のついたままの足音。畳の上に、上がり込んでくる。

──ここから先を、俺は、見たくなかった。

見たくなかったのに、少女の瞳は、俺に、見せた。

最後に映ったのは、男の顔ではなかった。天井だった。古い、染みの浮いた、板張りの天井。見慣れた家の天井。その天井の、右上の隅に、ちいさな蜘蛛が一匹、巣を張りかけていた。巣の糸が、夕方の光に、細く光っていた。

『おうちに、かえりたい』。

その声は、少女の唇からではなく、俺の、胸の奥から、漏れた。

## ※

息を吹き返したように、俺は、顔を上げた。

畳の下の指は、いつの間にか離れていた。腐りかけの少女は、崩れ落ちるでもなく、消えるでもなく、居間の真ん中で、俺の顔を、まだ、じっと見ていた。

割った塩札は、俺の指の中で、封を開けたまま、震えていた。

塩を、撒くことが、できなかった。

この子を、払う対象として、見ることが、できなかった。

懐中電灯の光が、一瞬だけ、持ち直した。相手の輪郭が、はっきりと、一度、灯った。少女の、溶けた瞳の奥から、ほんの小さな焦点が、こちらに向かって、もう一度、結ばれる。

その焦点の奥で──玄関の引き戸の音が、三十年前の残響のまま、ずっと、鳴り続けていた。

がらり、と、誰かが、今夜も、この家の、玄関を、開けようとしていた。

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