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供養屋の還り道

第3話 第3話

第3話

第3話

玄関の引き戸が、三十年前の空気を震わせたまま、俺の鼓膜のどこかで鳴り続けていた。

がらり、と。

現実の玄関は、さっき俺自身が開けて入ってきたきりだ。半分外れかけた引き戸は、廊下の向こうで、ほんのわずかに斜めに傾いで止まっている。動いていない。動いてはいないのに、音が、止まらない。

少女は、居間の真ん中に立ったまま、俺を見ていた。

溶けた瞳の焦点が、俺の顔の上で、小さく結ばれては、またほどけた。濡れた黒髪の毛先が、畳の目地に、ぽたり、と、さっきと同じ場所で、もう一滴、透明とも黒ともつかない液体を落とす。藺草が沈む音は、もう、しない。代わりに、居間の空気そのものが、一拍ごとに、重くなっていた。

俺は、割った塩札を、ゆっくり、封のまま、腰のベルトの房に戻した。

紙と紙が擦れる乾いた音が、自分の耳に、やけに遠く聞こえた。指先が、他人のもののように、勝手に動いた。戻してから、俺は、自分がなぜそうしたのか、まだ、言葉にできなかった。

──この子は、「祓う」相手じゃない。

それだけが、肋骨の裏で、はっきり灯っていた。

「おにいちゃん」

少女が、また、言った。

「まえ、きたこと、あるよね」

三十年前、俺は生まれていない。

それを、どう説明すればいいのか、分からなかった。説明できるような相手でもなかった。少女の瞳は、時間という言葉を、たぶん、知らない。今日と三十年前を、同じ畳の目地の上で、区別せずに歩いてきた子供の目だった。

耳の奥で、二拍目の鼓動が、鳴った。

さっきよりも、重い。

少女と、目が合ったままだった。

ひとすじ、細い糸のようなものが、まだ俺と少女の間で、切れずに繋がっていた。視線の糸、とは、違う。もっと内側の、記憶の残り線のようなもの。さっき注ぎ込まれた光景の、余白の部分が、ゆっくり、まだ、溢れ続けている。

止めろ、と、職業的な直感が警鐘を鳴らした。

止めなかった。

この子が、最後に見た天井の蜘蛛の巣の光り方を、俺は、まだ、忘れられなかった。

少女の瞳の奥、さっきの居間の映像が、夕方の山吹色の光から、ゆっくり、夜の闇へと、滑っていった。

畳の上に、複数の人影が、うつ伏せに並んでいた。

父親。母親。兄。そして、少女自身。

四人。だが、畳の染みは、四人分では、なかった。

視界の端、廊下の奥、台所の方から、さらに、小さな体が、二つ、転がしてあった。知らない子供たちだった。少女の背丈より、少し低い。一人は半ズボン、もう一人は、赤い長靴を、片方だけ履いていた。片方の長靴は、土間に、ぽつんと残してきたらしい。

少女の、残された意識が、それを、見ていた。

見ていた、という事実そのものが、俺の胃を、冷たく絞った。

男たちの足音が、畳の上を、ゆっくり歩いた。土のついた作業靴。玄関で聞こえたのと同じ靴だ。一人では、なかった。二人、三人、──もっと。畳の上を、何かを引きずる音。濡れた布を、床の上で、重く動かすような音。それが、少女の耳の奥に、最後に残った音だった。

男たちは、家族の手の指を、一本ずつ、何かに添わせていた。握らせる、ような手つきで。

鎌だ、と、少女の意識のどこかが、そう、思った。

父の手に、柄。母の手に、刃。兄の手に、また、別の刃物。一家心中の、小道具の配置。

「……一家心中じゃ、ないのか」

口に出した途端、胃の奥から、何かが迫り上がった。

慌てて、奥歯で噛み戻す。

廃屋で独り言を零すな、という先輩の声が、もう、遠い。案件伝票に書かれていた「三十年前、一家心中」の、事務的な文字列が、脳の裏側で、黒く塗り潰されていった。

心中じゃ、ない。

この家で、一家全員と、近所の子供たちが、何者かに殺された。

そして、その何者かが、現場を心中に見せかけて、去った。

遺族がいないわけだ。殺す側が、遺族ごと、殺したのだから。

年間供養費なし。線香代は実費。事務員の走り書きの意味が、今ようやく、別の重さで、俺の胸に落ちた。弔う側が、最初から、この世に残されていなかった。だから、この子たちは、三十年、「還る家」を、誰にも作ってもらえなかった。

少女の唇が、また、ゆっくり動いた。

「みんな、いっしょに、かえってないの」

下唇の裂け目から、黒く粘ったものが、顎まで伝った。

少女は、廊下の奥、台所の方向へ、ほんの少しだけ、視線を向けた。その先で、壁の黒い染みが、ひとつではなく、ふたつ、みっつ、と、呼吸するように膨らみ始めていた。さっきの「腕」と、同じ兆し。壁の中で、ずっと歩く練習をしていた者たちの、順番待ちの列。

俺は、居間全体を、もう一度、懐中電灯の光で、ゆっくり舐めた。

壁の、襖の、天井の隅の、畳の目地の──どこにも、供養の痕跡が、なかった。花も、線香の灰も、塔婆の削り屑も、一片もなかった。遺族がいないから、誰も、来なかった。誰も来なかったから、三十年、この子たちは、ここで、歩く練習だけを、続けた。

そして、俺の名前を、床板に、削り直し続けた。

「おうちに、かえりたいの」

少女が、もう一度、呟いた。

その声が、俺の耳の穴ではなく、みぞおちの下の方から、直接、湧き上がってきた。

──この言葉は、たぶん、一生、抜けない。

そう、直感した。

俺は、膝を、ゆっくり、戻した。

足首は、もう、握られていなかった。

少女の靴下越しの冷たさは、俺のくるぶしから、染み入ったまま、消えない。くるぶしの骨の内側に、三十年ぶんの湿度が、居座った感触があった。それでも、膝を立てて、両手を畳につき、上半身を起こすぐらいは、できる体だった。

腰の塩札の、さっき封を破いたやつを、指先で、撫でた。

撃てば、この子は、一応、鎮まる。

塩は聖域を張り、経は結界を解く。順番を守れば、腐った体は畳に還り、焦点のない瞳は、閉じる。業界のマニュアルに、そう書いてある。俺は、その手順を、現場で、何度も踏んできた。

だが──この子は、今、「還る家」を、探している。

塩で鎮めれば、「ここ」から消えるだけだ。家に帰ったことには、ならない。居間の真ん中で、歩き疲れた小さな体を、黙らせて、また三十年、壁の中で歩かせる。それは、鎮めた、とは、言わない。俺の本職の言葉でなら、それは、ただの「手抜き」だ。

「……ごめんな」

さっきと同じ言葉を、もう一度、口にした。

今度は、独り言への警戒も、頭に浮かばなかった。少女の焦点は、俺の、言葉の方ではなく、俺の、目の奥の、まだ乾いていない何かを、見ていた。

「全員、おうちに、還してやるから」

声が、勝手に、出た。

出してから、自分の声量に、俺自身が、少し、驚いた。居間の空気が、俺の声の粒に、ほんのわずかに、押し返された気がした。壁の染みの、呼吸のような膨らみが、一拍だけ、止まった。

その一拍の間に、俺は、腰のベルトから、護符札を一枚、抜いた。

塩札では、ない。

塩は、あとだ。

経文の写しを三枚、畳の上に、並べる。護符札の真ん中を、爪で、自分の指の腹を、ほんの浅く切って、赤い一滴で、濡らした。縦に、一本、線を引く。

俺の、供養の、最初の手順。

「浄化供養」と呼ばれて、嘲笑われ続けてきた、片肺能力の、作法だった。

斬れない。撃てない。罠にも、使えない。

──けれど、ここにいる子たちを、「家」に帰すことは、できる。

たぶん、この家の中で、それが、できるのは、俺だけだ。

畳の上に並べた三枚の経文が、湿気を吸って、ゆっくり、端から反り返った。

少女は、まだ、俺を、見ていた。

溶けた瞳の焦点が、前よりも、少しだけ、安定して、結ばれている気がした。

壁の染みたちの呼吸は、止まってはいない。台所の方向で、あたらしい足音が、一つ、二つと、畳の目地を、ゆっくり確かめ始めていた。半ズボンの子供と、赤い長靴を片方だけ履いた子供の、小さな足音だった。

懐中電灯の光の輪は、もう、拳の半分も、なかった。

光は、要らない。

俺は、腰から供養用の線香を、一束、抜き取り、マッチを、擦った。

火の先端の、橙色が、三十年ぶりに、この居間の、低い位置を、照らした。

少女の唇が、ほんのわずかに、震えて、開いた。今度は、言葉では、なかった。細く、長い、息の音だった。

その音に、廊下の奥から、ずる、と、湿った衣擦れが、応えた。

一人では、ない。

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