第2話
第2話
階段を三段飛ばしで駆け下りた。
手摺の錆が掌に食い込み、代わりに滑り止めになった。背後で、二つの滴下音が、俺の歩幅に合わせて、律儀についてくる。三段飛ばし。同じ拍子。まるで、走り方を真似されているみたいだった。
二階の踊り場。壁の象の白い目が、横目で俺を見送った。そんなはずはない、とカメラの赤ランプに言い聞かせた。絵の具だ。ただの、剥げた絵の具だ。
一階の光が見えた。
月明かりが、斜めにロビーのタイルを切っている。俺がさっき踏み越えた錆びた鎖が、まだ同じ位置で、蛇のようにうねっていた。正面玄関。来た道。戻れる。戻れるはずだった。
タイルに爪先が触れた瞬間、滴下音が、止まった。
止まった、というより、息を詰めた、という言い方のほうが近かった。背後の誰かが、俺が振り向くのを待っている。そんな間合い。俺は振り向かなかった。振り向いた先に何がいて、何がいないのか、もう、確かめたくなかった。首の後ろの産毛が、一本残らず、逆立っていた。汗が、えりの内側を、つうっと伝って落ちた。落ちた先で、体温が、急に、消えた。
正面玄関のほうへ、走った。
玄関まで、十歩もなかったはずだった。
それなのに、走っても、走っても、両開きのガラス扉が、見えない。いや、距離は縮まっている。縮まっているのに、扉の、あの輪郭だけが、どこにも無い。足音が、やけに大きく、天井に跳ね返った。自分の足音なのに、自分のものではない、と耳が言った。
たどり着いて、はじめて理解した。
ガラス扉が、無かった。
代わりに、灰色のコンクリート壁が、あった。塗り替えたばかりの、湿り気を帯びた、継ぎ目のない、壁。足元に鎖はある。踏み越えた鎖は、たしかにここで、踏み越えた。それなのに、扉は、無い。
掌で叩いた。鈍い、厚い、音が返った。肩から腕へ、衝撃が、骨ごと戻ってきた。向こう側は、空洞ですらない。みっしりと、何かで、詰まっている。そういう鈍さだった。
「……嘘だろ」
爪を立てた。塗料が、新しい。爪の先に、灰色の粉が乗った。乾ききっていない。ついさっき、誰かがここに、壁を塗り直したみたいに。鼻を近づけると、ペンキの、つんと甘い溶剤の匂いが、奥歯に触れた。口の中に、金属の味が混ざった。奥歯を、知らず、噛み締めていたらしい。
受付の横、採光窓のほうへ駆けた。
窓ガラスの外側、たしか花壇の跡が見えていたはずだった。
窓は、塞がっていた。
内側はガラスのまま。けれど、ガラスの向こう、本来なら外の夜気があるはずのところに、分厚い鉄板が、ぴったりと張り付いていた。継ぎ目に、溶接のビードが走っている。ビードの粒の、赤みが、まだ残っていた。まだ熱いのか、と掌を近づけたら、ガラス越しに、わずかな熱が、確かに伝わってきた。ガラスの表面に、掌の形の、白い曇りが、じわりと広がって、じわりと消えた。溶接の匂いが、ガラスの向こうから、ここまで、届くはずもないのに、鼻の奥で、たしかに、鉄の焼けた匂いが、した。
背後で、衣擦れの音がした。
一歩、下がる音。下がって、また、止まる。まるで、俺が逃げ場を失うのを、見届けに来たみたいだった。
非常口、と頭の隅が叫んだ。廃墟でも、非常口のサインは残っている。来るときに見た。右手の廊下の、三つ目の扉だ。
走った。
緑のサインは、まだあった。非常扉のレバーも、ちゃんと、動いた。押し開けた。
押し開けた先は、壁だった。
扉の枠の向こう側、扉一枚ぶんの厚みだけがスチール製のドアで、その奥は、継ぎ目のないコンクリート。指で押すと、まだ、湿っていた。塗り替えた——のではない。壁のほうが、新しく生えた、という感覚が、指の腹から、肘までを、駆け上がった。皮膚の下で、細い血管が、一斉に収縮した気がした。
何かに、閉じ込められた。
そう、認めた。認めるまでに、三秒かかった。三秒のあいだに、肺の中の空気が、倍くらいに膨らんだ気がした。胸が痛い。胸が痛い、ということを、随分久しぶりに、身体の真ん中で、理解した。喉の奥が、酸っぱい。胃から、何かが、せり上がってくる。それを、飲み下す。飲み下した瞬間、今度は、膝が、笑った。笑った膝を、片手で押さえて、壁に、もたれた。壁は、冷たくなかった。体温と、同じ温度だった。それが、何より、怖かった。
スマホを取り出した。
配信アプリは、繋がっていない。電波マークが、灰色の×印に変わっている。アンテナがゼロ、というのではない。そもそも電波を探そうとしていない、という顔で、×を、表示していた。
Wi-Fi、モバイル、Bluetooth、全部オフにしてから、もう一度オンにした。変わらなかった。再起動、と指が動きかけて、やめた。再起動している間、俺は、ただ、暗い廊下に、一人で、立つことになる。その十数秒に、耐えられる自信が、無かった。
通知欄だけが、数件、生き残っていた。
配信仲間のユヅキからの着信が、三件。メッセージが、一件。開いた。
『黒崎、今どこ? 配信の通知、来てない。大丈夫?』
時刻は、二十三時五十二分。
二十三時、五十二分。
今夜、俺が聖カタリナに入ったのは、一時五十四分。入ってから、もう二時間は、経っている。二時間経った今を、スマホは、まだ二十三時五十二分のままで表示していた。更新されていない。
ロック画面を、二回、三回と、叩いた。時計の数字は、動かない。叩く指が、画面の上で、じっとりと滑った。自分の指紋が、画面に、何重にも、上書きされていった。
電波が無いから、同期していない。内蔵時計があるはずだ。機内モードに切り替えて、時刻を見た。
動いていた。
動いていたが、その時刻が——二時、四十四分。
一時五十四分に入って、たった五十分。
嘘だ、と口に出した。
口に出してから、廊下の奥を見た。ナースステーションの壁の、丸い掛け時計が、そこから、見えた。秒針が、動いていない。
長針は、八のところ。
短針は、二と三の、間。
二時、四十四分。
俺のスマホと、同じ時刻で、止まっている。
掛け時計は、電池式のはずだ。俺のスマホは、バッテリー駆動だ。違う系統の時計が、同じ瞬間に、同じ時刻で、止まっている。止まっているのではなく——この病院の中では、二時四十四分以降の時間が、存在しない。そう、理解した。
ユヅキからの最後の着信は、三時間、前。
外の世界では、既に、三時間が過ぎていた。外で、ユヅキが、俺を探している。俺は、外の時間に、ついていけていない。ついていけないまま、ここで、二時四十四分を、何度も、繰り返している。
スマホを、握りしめた。握りしめた掌から、画面に、汗が染みた。染みた汗が、二時四十四分、という数字の、四の字の、下の角を、わずかに滲ませた。滲みも、動かない。
電波の×印の右隣で、アクションカメラのランプだけが、今もちゃんと、赤く、瞬いていた。赤が、一定のリズムを保っていた。それだけが、生きているように、見えた。
廊下の奥から、長く、細い音が、聞こえた。
ぎしり、と、リノリウムが、誰かの体重で沈む音だった。
音の出どころは、ナースステーションのカウンターの、向こう側。俺が、数分前まで、三脚を立てていた場所。倒れた三脚は、誰かが、立て直していた。立て直されたレンズが、こちらを、向いていた。三脚の脚の角度が、俺が最初に据えたときと、ほんのわずかに、違っていた。違っていることが、かえって、誰かが触れた、という証拠になっていた。
レンズの奥の、スマホの画面が、ぼんやりと、青白く、光っている。
俺の位置からは、画面の中身までは、見えない。見えないのに、そこに、何が映っているのか、想像だけが、鮮明に、積み上がっていった。映っているのは、きっと、俺の顔だ。逃げ場を失って、壁に背中をつけた、俺の顔。それを、誰かが、カウンターの向こうで、覗き込んでいる。
肺の底で、息が、ひと呼吸ぶん、遅れた。
配信の、録画は、止まっていない。
赤いランプは、今も、点いていた。誰の意思でもなく、勝手に、撮り続けていた。
そして、滴下音が、また、始まった。
今度は、三つだった。