第1話
第1話
廃墟配信で一番つまらないのは、何も映らない夜だ。
そう、たとえば今夜の俺みたいな。
深夜一時五十四分。スマホのライトを顎の下で点け、閉鎖された正面玄関の錆びた鎖を踏み越えた。首から提げたアクションカメラがかすかに唸る。撮影ランプの赤が、左胸のあたりで一定のリズムで瞬いていた。
「というわけで、廃墟録・黒崎です。今夜は視聴者リクエスト第一位、聖カタリナ記念病院」
低く抑えた声が、タイル張りのロビーに染み込んでいく。床には薬包紙や割れたアクリル看板が散乱していて、踏むたびに乾いた音が鳴る。月明かりが、半分崩れた受付窓口の奥に斜めに差し込んでいた。消毒液の残り香と、何か甘い——果物が腐ったような——匂いが混じる。
「七不思議で有名、らしいですけど。まあ」
鼻で笑った。視聴者が送ってきたメールの文面が頭をよぎる。『夜中に入ると白衣の女が後ろに立つ』『地下に降りたら二度と戻れない』。ベタすぎる。こういうのはたいてい、同業者が仕込んだ演出か、肝試しに来た高校生の体験談が膨らんだだけだ。廃墟録の管理人として五年、百十七件踏んできた。本物に当たったことなど、一度もない。
今夜も、当たらないはずだった。
ロビーを抜け、第一外来の廊下を進む。懐中電灯の光の中を、埃がゆっくりと泳いでいた。頭上のレールから点滴スタンドがぶら下がったまま、風もないのにわずかに揺れている。スタンドの先には、千切れたチューブの端だけが残っていて、それが振り子のように小さく揃った周期で揺れていた。揃った周期、というのが、嫌だった。
「……風、あるかな」
天井の通風口を見上げた。網目は錆びついて、塞がっている。
まあいい。音を拾う。視聴者はそういうのが好きだ。
左手の病棟表示が目に入った。「内科一般」「整形外科」と並ぶ中、いちばん奥の区画だけ、プレートが剥がされていた。接着剤の跡が、影のように残っている。
カメラを近づける。
「ここ、科目名が剥がされてますね。はい、よくある演出ポイントです」
自分に言い聞かせるように笑った。声が、思ったより反響した。
階段を上がる。二階の壁には褪色した動物のイラストが残っている。象の目だけが白く塗り直されたように見えて、一瞬、足を止めた。よく見ると、ただの経年劣化だった。絵の具が剥げて、下地の白が覗いているだけだ。
「カメラ的には美味しいですけどね」
踊り場で息を整え、三階へ。一段ごとにスニーカーの底が砂を噛む音がして、その音が、踏み込むたびに半拍だけ遅れて返ってくる気がした。気のせいだ、と自分に言い聞かせた。古い建物は、音が変に跳ねる。
ナースステーションは、三階の中央にあった。
カウンターの向こうに、古いナースコール盤が残されている。ランプの横に診察室番号が並び、そのうちの一つ——三〇五号室の赤ランプだけが、半分だけ割れていた。割れた内側に、黒い染みが筋を引いている。血、ではない。たぶん。
「ここで一回、長めに回します」
三脚を出し、スマホとアクションカメラをそれぞれ据えた。三脚の脚がリノリウムを擦る音が、妙にくっきり聞こえる。
静かだった。
虫の声もしない。風の音もしない。遠くで車が走る音もしない。廃墟にしては静かすぎる、というのが最初の直感だった。普通、廃墟には鼠が動く音や、ガラスが風で震える音がある。ここには、それが無い。まるで、誰かが部屋ごと、分厚い布で覆っているみたいに。
耳鳴りがした。
甲高く、細く、一本の線を引くような音。耳を澄ますと、それに重なって、別の音が聞こえた。
ぽつり。
ぽつり。
水滴の音。規則的な、点滴の滴下する間隔。
「……雨漏りかな」
言いながら、今夜は快晴だったことを思い出していた。天気予報を三度確認した。雨雲は、一つもない。
喉の奥が、ひとりでに鳴った。
カメラを手に持ち直し、音の方向を探る。廊下の奥、処置室と書かれた曇りガラスの向こうから、確かに滴下音が聞こえてくる。一定の間隔。生きた人間が調整しているみたいに、正確な間隔。秒針を耳元で振っているような、訓練された手つきの一定さだった。
「処置室、行ってみます」
言ってしまってから、自分の声が少し震えていることに気づいた。そんなはずはない。こんなものはヤラセだ。誰かが仕掛けたポンプか、天井の結露だ。そう言い聞かせて、一歩踏み出した。靴底の下で、リノリウムが微かに沈んだ気がした。
踏み出した瞬間、滴下音が、止まった。
止まった、というより——吸い込まれた。
そんな言い方が、頭の中に浮かんだ。水滴が落ちるべき瞬間を、誰かが掌で受け止めた、という。
その場で立ち止まり、息を殺す。もう一度、耳を澄ます。聞こえるのは、自分の心臓の音だけだった。耳の奥で、血液が脈打つ音が、さっきの滴下音とそっくり同じテンポで鳴っていた。それに気づいた瞬間、首筋がぞっと冷えた。
「……先に、映像、確認します」
迷った末、処置室には行かず、ナースステーションに戻った。アクションカメラをカウンターに置き、録画を巻き戻す。三脚の上のスマホに、さっきの自分が映っている。青白い顔。カメラの赤ランプ。背景の、ナースコール盤。
再生速度を半分に落とした。
甲高い耳鳴りが、録音されている。気のせいじゃなかった、と思った直後、タイムコードの二分十七秒のところで、背筋に違和感が走った。
巻き戻す。もう一度、再生。
俺の背後——カウンターの向こう、コール盤の手前あたり。そこに、立っている。
人影。
白い、丈の長い上着。腰のあたりでベルトが絞られている。顔は、映っていない。カウンターの上端で、ちょうど首から上が、切れている。けれど、肩のラインが、ゆっくりと、上下していた。
呼吸、していた。
液晶の中で、その影が、わずかに一歩、俺の背中へ近づいた。
スマホを取り落とした。
拾えなかった。拾う前に、首の後ろに、音もなく寒気が走ったからだ。湿った指の腹で撫でられたような、息が掛かったような——いや、息は感じない。感じないのに、そこに何かが在ると、皮膚だけが知っていた。
振り返った。
誰もいない。
ナースコール盤のランプが、青白く、いくつか点いていた。さっきまで消えていたはずのランプだ。三〇五、三〇七、三一二——順に、数字が増えていく。呼ばれている。どこかから、誰かが。
「……嘘だろ」
声が掠れた。笑おうとして、口角が引きつっただけだった。
足元のスマホを拾い上げた時、画面に映る自分の顔の、右肩の奥に、もう一度、白いものが映り込んだ。
振り返った。
誰もいない。
振り返る前だけ、そこにいる。
理屈が、先に、理解した。皮膚は、既に理解していた。心だけが、追いついていなかった。
ゆっくりと後ずさる。カウンターに腰がぶつかり、三脚が倒れる。倒れた三脚のレンズが天井を向いた瞬間、液晶に——今度は、はっきりと——白衣の女の、顎から下が、映った。
胸のあたりに、古い名札が揺れていた。
文字は、読めた。
「聖カタリナ記念病院 看護師 ——」
名前のところだけが、真っ黒に、塗り潰されていた。塗り潰し方が、新しかった。経年で剥がれた塗料ではなく、つい今しがた、誰かが油性のペンを何度も往復させたみたいな、湿った黒。
息が、吸えなかった。
吸おうとしても、喉の奥で何かが詰まっている。消毒液と、甘い腐臭と、もう一つ——近い、人の匂い。肩の、すぐ後ろ。鼻の奥に、髪の毛から立ちのぼるような、洗っていない頭皮の匂いが、たしかに混じっていた。
カメラの赤ランプが、不自然に、強く光った。
液晶の中の影が、こちらに向かって、ゆっくりと、首を、傾けた。
カウンターの向こうには、誰もいない。
振り返る勇気を、俺はもう、持っていなかった。代わりに、逃げるために、正面玄関のほうへ、首だけを向けた。来たはずの階段の手前で、何かが、静かに立ち上がる気配がした。衣擦れの音すらない。けれど、空気が、ほんの少し、押し出された。
ヤラセじゃ、なかった。
五年、百十七件。その記録が、今夜の一件で、意味を失おうとしていた。
三脚を蹴り飛ばすように拾い、カウンターを飛び越える。滴下音が、また聞こえ始めた。
今度は、二つ。
一つは、どこか遠くから。
もう一つは——俺の、真後ろから、歩幅に合わせて、規則正しく、近づいてくる。