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廃墟録・聖カタリナ記念病院

第3話 第3話

第3話

第3話

三つの滴下音が、三拍子で、俺の背骨を叩いた。

一つは遠い。一つは近い。もう一つは、真上から落ちてきていた。三つの距離が、耳の中で、不規則な三角形を描いて、その三角形の、ちょうど真ん中に、俺の鼓膜が、ぶら下がっていた。

顔を上げた。天井の蛍光灯は割れて、配線だけが、黒い蔓のように垂れている。配線の先に、液体は、ついていない。ついていないのに、そこから、一定の間隔で、何かが、落ちてくる。俺の足元、リノリウムの上に、丸い染みが、三つ、等間隔に並んだ。染みの縁が、ほんの少しずつ、外側に、にじんでいく。にじむ速度は、心拍よりも、遅かった。遅いのに、一滴、一滴、確実に、面積を増やしていく。

触れなかった。

触れたら、終わる、と皮膚が言った。言葉ではない。皮膚の、毛穴のひとつひとつが、一斉に、「触れるな」と、短く、唸った。

染みは、赤黒かった。血、と呼ぶには少し粘度が高く、油、と呼ぶには匂いが生々しかった。鉄と、消毒液と、湿った布の匂い。三つの匂いが、層になって、鼻の奥に貼り付いてくる。息を吐いても、匂いは、出ていかない。吸った時より、吐いた時の方が、濃くなる気さえした。肺の内側に、薄い膜が、張られていた。

ユヅキに、もう一度、メッセージを送ろうとした。送信ボタンを押す前に、機内モードの端末が、送れるはずがない、と指が気づいた。指が気づいたあとも、俺は、送信ボタンを、何度か、押した。押すたびに、画面が、ほんの少し、沈んだ気がした。指先に、液晶の冷たさだけが、返ってくる。返信を、待っている自分の顔が、黒い画面に、ぼんやりと、映り込んでいた。その顔は、俺の知っている、黒崎理人の顔から、ほんの少しだけ、ずれていた。目の位置が、一ミリ、下にあった。

カメラの赤ランプだけが、まだ、俺を見ていた。

逃げ場を、探した。廊下の奥。ナースステーションの向こう。そのさらに奥、壁に沿って下りていく、細い階段。「B1 霊安室」と、古い金属プレートが、ぶら下がっている。一文字だけ、ひらがなで、「く」のように、掠れている。

地下に降りたら二度と戻れない。

視聴者メールの文面が、急に、忠告の重みで、頭に戻ってきた。画面で読んだときは、ただの脅かしだった。今は、違う。文字のひとつひとつが、見知らぬ誰かの、最後の息で、書かれていたように、感じられた。

それでも、足が、そちらへ、動いた。動いたのではなく、動かされた、という方が、正確かもしれない。背後の気配が、ゆっくりと、歩幅を詰めてくる。衣擦れ。遠い滴下。近い滴下。真上の滴下。四つ目の音が、加わるのは、時間の問題だった。

階段に、足を、乗せた。

一段目で、空気の温度が、一度、下がった。頬に、冷たい膜が、貼り付いた。

二段目で、もう一度、下がった。吐いた息が、うっすらと、白く、ほどけた。四月の廃病院で、見える、はずのない、色だった。

三段目で、耳の奥の圧が、変わった。飛行機の離陸のように、ぽんっ、と、鼓膜の内側を、誰かが掌で、軽く叩いた。叩かれたあと、外の音が、少しだけ、遠くなった。自分の、呼吸の音だけが、不自然に、近くに、戻ってきた。

壁に、掌をついた。ついた掌の下で、何かが、ざらついた。紙やすりの上に、さらに、乾いたかさぶたを、無理に、塗り重ねたような、不均一な、硬さ。

スマホのライトを、壁に、近づけた。

壁一面に、赤黒い文字が、書き殴られていた。

『視タ者ハ喰ワレル』

一文字ごとに、筆跡が、違っていた。金釘流の雑な字。几帳面な楷書。震える老人の字。子供の、まだ鏡文字の混じった字。同じ言葉を、違う人間が、何十人も、壁に、重ねて、書いていた。誰もが、同じ言葉を、遺していた。年代も、背丈も、筆圧も、全部、違う。違うのに、選んだ言葉だけが、一字も、違わなかった。

『視タ者ハ喰ワレル』 『視タ者ハ喰ワレル』 『視タ者ハ——』

指が、震えた。

乾いていない、と、指先が言った。

血は、いちばん上の、几帳面な楷書の文字だけ、まだ、乾いていなかった。ついさっき、書かれたばかりだった。表面に、鏡のような艶が、残っていた。爪の先で、そっと触れると、爪の縁に、赤い粒が、一つ、付いた。匂いを、嗅いだ。自分の血と、同じ匂いが、した。もう少し正確に言えば、今朝、髭を剃るときに、うっかり切った、顎の傷の、あの匂いだった。他人の血の匂いでは、なかった。

ライトを、下に向けた。

階段の下から、五段目あたりに、白いものが、立っていた。

白衣。丈の長い上着。ベルト。胸の名札。首から上は、相変わらず、俺の視界からは、欠けている。欠けているのに、肩の高さが、俺の顎の高さと、ほぼ、同じだった。一段下に立っているのに、顎の高さが、同じ。つまり、俺より、頭ひとつ、大きい。ナースステーションで振り返らなかったとき、ここまで、大きくはなかった。

大きくなっている、のではない。

近づいて、いる。

一段、近づいていた。ついさっきまで、十段下だったものが、五段下に、いた。俺が文字を読んでいる間、声を立てず、衣擦れの音すら立てず、五段、登ってきていた。登った、という動作が、俺の視界の端で、丸ごと、削除されていた。動画の、ひとコマだけを、器用に、誰かが、抜き取った後のような、滑らかな、不在。

後ずさる。

後ずさった先の壁に、肩が、触れた。触れた壁のざらつきが、掌ではなく、背中越しに、服の生地を通して、ざらり、と伝わった。生地越しなのに、皮膚に、血文字の、細い凹凸が、正確に、写った。楷書の「視」の字の、最後の止めの、尖った先端が、肩甲骨の下のあたりに、ちくりと、触れた。その瞬間——

頭の中に、他人の記憶が、流れ込んできた。

若い、男の声。「こんな廃病院、楽勝だって」。笑い声。一人の、若い声。続いて、俺と同じ、カメラの赤いランプ。ぎしり、と踏まれるリノリウム。「嘘だろ」と、掠れた、別の声。俺の声より、少し高い。俺の声より、少し、古い。古い、というのは、音質の話ではなかった。その声の持ち主が、もう、この世のどこにも、発声器官として、存在していない、という意味の、古さだった。

記憶が、途切れた。

途切れた瞬間、俺は、壁から、飛び退いていた。

肩甲骨の下に、焼けた烙印のような、鈍い痛みが、残っていた。服をめくって、確かめる余裕は、無かった。代わりに、手首の内側を、見た。

手首の、脈の走るあたりの皮膚に、赤い、小さな点が、ひとつ、浮いていた。

虫刺されではない。怪我でもない。インクを、皮膚の下に、一滴、刺した跡。点の中心が、脈打つたびに、ほんのわずかに、にじみ、にじんだ先が、すぐに、輪郭を取り直した。脈そのものが、染料を、押し広げる、小さなポンプになっていた。

それが、ゆっくりと、にじんで、文字の、形に、なろうとしていた。

「視」。

読める形に、なりかけていた。

喉の奥から、ひっ、と、ひらがなのような、短い音が、出た。自分が出した音なのに、他人の声のように、聞こえた。壁の、几帳面な楷書を書いた、あの誰かの、最後の、呼吸に、近いような気が、した。

理解した。俺は、既に、この病院の、構成要素に、編入されかけている。廃墟録・黒崎理人、という配信者が、ここに、入ってきた時点から、俺は、七不思議を、取材しに来た人間、ではなくなっていた。

俺が、七不思議の、一つに、なろうとしていた。

壁に書いた、数十人の先人たちと、同じように。同じ言葉を、同じ壁に、同じ血で、書き遺すために、ここに、呼ばれていた。呼んでいたのは、おそらく、壁自身だった。壁は、飢えていた。新しい筆跡を、新しい血を、次の、「視」の字を、待っていた。

カメラの赤ランプが、リズムを、崩した。

赤が、長く、点いたまま、しばらく、消えなかった。

白衣が、また、一段、登った。

今度は、音が、した。

革靴の底が、湿った段を踏む、ちゅ、という、粘りのある、音。

俺の、靴音と、同じ、音。

地下から、俺の歩き方を、真似る声が、階段の奥で、ゆっくりと、三度、ぎしり、ぎしり、ぎしり、と、鳴った。

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