第2話
第2話
朝の光の中でも、ノートの最後のページから目が離せなかった。
「今夜は、ここまで」──私の字ではない、けれど私の字に似た筆跡が、罫線の上で、もう乾いていた。インクの匂いだけが、昨夜たしかに濡れていた事実を、細く証言している。三時間ほどの浅い眠りから覚めたとき、シャツの肩口にはまだ、洗剤を弾くような冷たい染みが残っている気がして、私は何度も自分の左肩を撫でた。撫でた指先は、布の繊維しか拾わなかった。
午前十一時。新宿の路地裏、〈古書喫茶パージュ〉の引き戸を、両手で押した。蝶番の油の切れた音が、鼓膜を一度、軽く突く。店内には、コーヒー豆の脂と、古い紙の苦味と、昨日の煙草の残り香が、層になって沈んでいた。窓際の三人席に、ノートPCを開いた老人がひとり。カウンターの奥で、白髪の店主が、ネルで湯を細く落としている。湯気の柱が、まっすぐ天井へ立ち、途中で横に薄く折れた。
私は、一番奥のボックス席を選んだ。背中を壁につけられる席だ。昨夜から、私の背中は、何かに見られている感触を手放せないでいた。メニューを開く前に、窓の外を二度、見た。歩道のタイルの目地に、雨の名残のような濡れが薄く残っていた。今朝は、雨など降っていなかったはずなのに。
「ホットコーヒーを」
声が、思っていたより掠れた。店主は黙って頷き、湯の柱に視線を戻す。
ノートを開く。昨夜の余白の走り書きを、もう一度、指でなぞった。インクの起伏が、爪の腹に乗る。私の手の癖ではなかった。「と」の最後の払いが、私のものより、ほんの少しだけ右へ伸びている。誰かが、私の手を真似て書いた──そう感じる距離の近さが、かえって、首筋を撫でていった。爪先の冷たさが、ひざの裏まで、薄く這い下りていく。
ベルが鳴った。
入り口の引き戸が、ふた呼吸ぶん、誰かの体重で押し広げられる気配。けれど、戸のレールが軋む音は、聞こえなかった。
視線を上げると、ボックス席の向かい側に、ひとりの青年が腰を下ろすところだった。
歳は、私より少し若いだろうか。色の褪せた紺色のジャケットに、洗いざらしの白いシャツ。襟元のボタンをひとつ外した、その下の鎖骨の線まで、なぜか目が吸い寄せられる。──血の気が、ない。生気がない、というのとは違う。きちんと表情はある。眉の動きも、視線の方向も、生身の人間のそれだ。けれど、頬の下に、生きた者の体温の予感が、まったくない。息を吸う気配すら、こちらの空気を動かさない。
「すみません、相席、いいですか」
声は、低く、丁寧だった。
返事を待つ前に、もう座っていた。ジャケットの裾が、椅子の革に擦れる音はしなかった。
「……どうぞ」
私の声は、自分でも他人のもののように聞こえた。
店主が、注文を取りに来た。私の前に、白いマグを置く。湯気が、二筋、まっすぐ立った。店主の視線は、私だけを見ていた。向かいの青年に、目の端さえ向けない。注文を取る素振りもなく、エプロンの紐を結び直しながら、カウンターへ戻っていった。
青年は、何も言わなかった。けれど、彼の前にも、いつの間にか、白いマグが置かれていた。誰がいつ運んだのか、私はたしかに見ていなかった。湯気が、彼の側からも、二筋、立ち上がっている。
「……このお店、よく来るんですか」
口を開いたのは、私のほうだった。沈黙のほうが、よほど怖かった。
「いえ。今日が、はじめてです」
青年は、マグの取っ手に、長い指を絡めた。爪が、薄い桃色をしている。生きている人間の爪の色だった。けれど、その指がマグに触れた瞬間、私の手のひらに鳥肌が立った。マグの陶器が、青年の指の温度を、まったく拾わない。湯の熱が、彼の指の熱と混ざる気配が、ない。陶器の白さが、彼の指のあたりだけ、わずかに薄くなったように見えた。取っ手の曲線に沿う指の輪郭が、陶器の釉薬の下へ、半歩だけ、沈み込んでいるようでもあった。
「藤咲詩織、さんですよね」
青年が、私の名を呼んだ。
私は、名乗っていなかった。
時計の秒針が、五つ進む間、私は息を止めていた。五つ目の音が鳴り終わってから、ようやく、胸の奥で心臓が次の鼓動を打ち直したのが分かった。
「……どうして、私の名前を」
「昨夜、お会いしました。──覚えていない、ですよね。当然です」
青年は、わずかに目を伏せた。睫毛の影が、頬骨の上に薄く落ちる。その影だけが、唯一、生きた人間と同じ重さを持っていた。
「あの黒い塊、見ましたよね。アスファルトに落ちた」
私の喉が、勝手に唾を飲んだ。舌の根が、また、あの鉄の味を薄く思い出しかける。
「あれが何かは、まだ、言えません。でも、あなたが今後、四ツ辻の取材を続けるなら、何度も会うことになります。僕とも、──あれとも」
青年は、マグを口元へ運んだ。傾けた角度から、コーヒーの黒い液面が、わずかに揺れて見えた。湯気は、まだ、二筋、立ったままだった。唇が陶器の縁に触れるはずの瞬間、接する音も、啜る音も、まるで録音から抜き取られたように、私の耳へ届かなかった。
私は、自分のマグに指を回した。陶器は、もう、ぬるくなっていた。十五分も経っていない。けれど、夏の終わりの店内で、マグの熱は、案外、早く逃げる。
青年のマグを、私は見つめた。
湯気が、立っている。
立ち続けている。
私が窓の外を二度見て、ノートのページをめくり、また視線を戻しても、二筋の白い線は、まったく同じ濃さで、まっすぐ天井を目指していた。それは、湯気というより、湯気の絵に近かった。動かない、減らない、揺らがない。エアコンの送風が、私の前髪を、ほんの一度だけ、頬へ撫でつけていく。同じ風が、彼の湯気の柱を、一ミリも歪ませなかった。
「冷めない」
声に出してしまった。
青年は、私の視線の先を辿り、それから、ほんの少しだけ、笑った。困ったような、申し訳なさそうな、はにかみのような──その三つを混ぜたような、薄い笑い方だった。
「すみません。気をつけているつもりなんですが、たまに、こうなってしまって」
何が、と問う前に、店主がボックス席の脇を通った。私の水のグラスを、新しいものに替えるためだ。氷が、軽い音を立てた。店主の腕は、青年のマグの真上を、迷いなく横切る。指の関節が、ふた呼吸ぶん、青年の前髪のあたりを通過した。店主の睫毛は、瞬きひとつしなかった。
そのとき、私は、はっきりと見た。
店主の手首が、青年の鎖骨を、すうと、通り抜けた。
布の重なる音も、皮膚の触れる気配も、なかった。
ただ、白髪の老婦人が、何もないところに腕を伸ばし、グラスを取り替えて、戻っていく。歩幅も、呼吸も、何ひとつ、ためらう気配がなかった。店主にとって、そこには、最初から、誰も座っていないのだ。
私の口の中が、急に渇いた。
舌の付け根に、鉄の味が、薄くにじむ。昨夜と、同じ味だった。
「あなた、」
「はい」
「……人、ですか」
問うた自分の声が、自分の耳に、遠かった。水の中から、別の私が、喉の代わりに、言葉だけを押し上げたようだった。
青年は、すぐには答えなかった。マグを両手で包み込むように持ち、二筋の湯気を、しばらく、自分の頬の前で見つめていた。睫毛の影が、湯気の白さに重なって、一瞬、二色の縞模様になった。
「人、だった、ことは、あります」
その答えが、何の答えにもなっていないのに、私の喉の奥で、ひとつ、納得めいた音が鳴ってしまった。
窓の外で、雲が動いた。
店内の影が、テーブルの白いマグの縁を、少しだけ斜めに横切っていく。私のマグの影と、青年のマグの影が、二つ、並んで、テーブルクロスの織り目の上を、ゆっくりと進んだ。
二つとも、ある。
影は、ある。
「もう一度、お会いします」
青年は、立ち上がった。椅子は、引かれた音を、立てなかった。
「次は、雨の日に。──そのときは、足音を、数えてみてください。歩いている人間の数と、足音の数が、合っているかどうかを」
引き戸が、また、ふた呼吸ぶん、押し広げられた。レールは、軋まなかった。
私は、向かいの席に残された白いマグを、見た。
湯気が、まだ、二筋、まっすぐ立ち上っていた。
そして、私のノートの新しいページの余白に、いつ書かれたとも知れない一行が、追記されていた。
──椎名(しいな)、と、申します。
インクは、まだ、濡れていた。