第1話
第1話
湿った土の匂いが、鼻腔の奥に鉄錆の味を連れてきた。
午前三時十二分。錆びた鉄柵の向こうで、廃アパートは空洞のように黒く立っている。私は取材ノートを握り直した。掌に食い込んだペンの金具が、じわりと冷たい汗を吸っている。ICレコーダーの録音ランプは、赤く点いたまま、もう二十分、誰の声も拾っていない。液晶の緑がかった光だけが、私の指の腹を薄く照らす。時間表示の秒の部分が、一桁ずつ、無表情に数字を入れ替えていく。その規則正しさが、今夜の静けさをいっそう不気味にしていた。
「四ツ辻で振り向くと、女が消える」
この地区に三ヶ月前から流れはじめた噂だ。七件の目撃証言、三件の失踪未遂。警察発表はゼロ。フリーライター五年目の私、藤咲詩織にとっては、値段のつく取材対象だった。怪談じみた噂ほど、三十行の誌面に変わる。編集長の机に原稿を滑らせれば、一枚二万、運がよければ三万。家賃の半分。妹への仕送り。私の生活を支えているのは、誰かの恐怖を値段に換える作業だった。
──値段、と考えた自分に、喉の奥で苦いものがせり上がる。
三日前、最初に会った取材相手──二十代の男子大学生は、LINEの既読が止まったままだ。約束していた二回目の面会に現れなかった。家族の誰とも連絡が取れない。編集長は「いつものバックレでしょ」と笑ったが、私の耳の奥には、別れ際の彼の声が残っていた。コーヒーショップの窓際、彼は紙コップの縁を親指でこすりながら、ずっと一方向の──私の左後ろのガラスを見ていた。まるで、そこに映るものを数えるようにして。
──詩織さん、四ツ辻では、絶対に振り向かないでください。
あの声の、喉の奥の掠れ方。あれは嘘を言う人間の声ではなかった。
風はない。にもかかわらず、塀際の雑草が、右から左へ、一斉に一度だけ、ざわりと揺れた。草の葉の先が、互いに触れ合って、短い、息を呑むような音を立てた。風鈴の舌のような、乾いた擦過音。私はその一点を、三秒だけ見つめた。葉は、もう動かなかった。
私は足を踏み出した。スニーカーの底が、コンクリートの粉を噛む乾いた音を立てる。その音が、やけに大きい。自分の体重が、普段の倍あるように感じる。膝の裏に、汗とも粟立ちともつかない冷たい粒が、いくつも並んでいた。
アパートの入り口には、古い郵便受けが十二個、歯抜けに並んでいた。半分以上、名札が剝がれている。残った名札も、油性ペンの文字がにじみ、判読できるのは二つか三つ。一番上の段、左から三番目だけが、やけに新しいテープで補強されていた。まるで、つい最近、誰かが名前を貼り直し、そしてまたすぐに剝がしたかのように。指先を近づけると、金属面にうっすら、湿った指紋が浮いていた。温度のない、誰のものとも知れない指紋が。
私のものではない。
ペンライトの光を取材メモに当てる。光の輪の中で、私の字が、普段より小さく縮こまって見えた。「被害者の多くは深夜三時前後、四ツ辻側の路地で目撃」「目撃直後、本人は一度だけ振り返る」「振り返った瞬間、女は消える──と、本人は証言する」。全員、二度と同じ話はしなかった。二度と会えなかった者もいる。最後のページの余白に、私は昨日、赤いボールペンで小さく書き込んでいた。──「これ、取材していいやつですか」。自分への問いかけに、まだ答えは出ていない。
私は今、四ツ辻から三メートル外れた場所に立っている。失踪未遂の三件すべてが、この建物の前から始まっていた。
耳を澄ますと、遠くでトラックが走る音がした。国道四号の方だ。生活音が、ひどく遠い。自分の呼吸が、紙を薄く破るような音を立てている。吸う息よりも、吐く息のほうが、細く、長い。過呼吸の手前だ、と頭のどこかが冷静に告げる。けれど、止め方がわからない。
ひとつ深呼吸をした。湿った土の匂いに、今度はかすかに、腐った花のような甘さが混じる。供花、と直感した。菊の茎が水に腐る、あの青臭さと、甘ったるさの重なった匂い。祖母の葬儀で嗅いだ匂いに、よく似ていた。誰が、いつ、この場所に手向けたのか。
足を踏み出す。四歩、五歩、六歩。
一歩ごとに、路面の凹凸がスニーカーの底から伝わる。アスファルトのひび割れ。小石の粒。ガムの潰れた黒い染み。足裏の感覚だけが、妙にくっきりと輪郭を持っていた。それ以外のすべてが、薄い膜の向こう側に遠ざかっていく。
七歩目で、背後の空気の密度が変わった。
比喩ではない。確かに、体感として、後ろの空気が、ひと呼吸ぶん、冷えた。うなじの、ちょうど産毛の生えている辺りだけが、細い霧吹きを当てられたように、点で冷たい。
──振り向くな。
男子大学生の声が、こめかみの裏で鳴る。私はペンを握り直し、そのまま歩幅を崩さず、四ツ辻の中央で立ち止まった。立ち止まる、という動作に、これほど勇気が要るとは知らなかった。歩き続けるほうが、よほど楽だった。
背後から、足音が一つ、近づいてきた。
ぴた、ぴた、と。濡れた布を踏むような、湿った音だ。けれど、雨は降っていない。道路は乾いている。
ぴた。
ぴた。
ぴた。
足音は、私の歩数ちょうどぶん、距離を詰めてくる。五歩、四歩、三歩。歩幅も、私と同じ。私が止まれば止まり、私が呼吸すれば呼吸を合わせる──そんな、真似をされているような不快感。
鼓動が耳の中で叫んでいる。首の後ろの皮膚が、毛穴ごと縮む感覚。手のひらの汗が、ペンを滑らせる。親指の腹で、必死にペンの側面を押さえた。落としたら、拾うために屈まなければならない。屈んだら、振り向く角度ができる。それだけは、絶対に。
噂を信じたわけではない。けれど、信じないなら、なぜ私はここにいる。なぜ、脚がこれほど震えている。信じていないふりをして、身体のほうが先に答えを知っている。取材者の顔と、逃げ遅れた獲物の顔が、私の中で、今、重なっていく。
二歩。
一歩。
音が、止まった。
私の背中と、その何かの間に、あと三十センチ。呼吸の距離だ。息が、かかってもおかしくない距離。けれど、かからない。温度のない空気の塊だけが、私の背面にぴたりと貼りついている。
そのとき。
肩に、指が触れた。
悲鳴は、喉の手前で凍りついた。
指は五本、薄いブラウス越しにはっきりと感じられた。第二関節の硬さ、爪の先のわずかな角度まで、布の上から輪郭が立ち上がる。人間の形をしていた。けれど──冷たい。冷蔵庫から出したばかりの金属のように、体温がまるでない。夏の終わりの夜に、その温度はあり得ない。
「危ない、下がって」
低い、若い男の声だった。
耳の、すぐ横で。
息はかからなかった。喋る者の吐息が、皮膚に届かない。それが何を意味するのか、考える前に、肩の指先が、私の身体をやんわりと後ろに引いた。力は強くない。けれど、逆らう余地もない。水の中で、ゆっくりと別の流れに攫われるような、そんな引き方だった。
踵が、半歩、後退する。
その瞬間、目の前一メートルのアスファルトに、上から、何かが、ぼとり、と落ちた。
黒い、ぬるりとした、塊。
鉄錆と、もっと濃い、嗅いだことのない匂いが、立ち上る。胃の底から、反射的に唾が湧いた。喉が、勝手に嚥下を拒む。
視線を上げると、街灯はまだそこにある。電柱もそのまま。けれど、落ちてきたものの出所が、どこにも見当たらない。空を見上げても、何もない。ただ黒い空が、口を開けている。星は、ひとつも見えなかった。都会の空だから、というだけでは説明のつかない、塗り潰したような黒さだった。
──下がっていなければ、あれは、私の頭の上に。
遅れて、背筋を這い上がる悪寒。同時に、私の肩の指先が、音もなく離れた。離れる瞬間の、布のかすかな戻り。そこに残った冷気だけが、触れた者の存在を証言していた。
振り返った。
誰もいなかった。
アスファルトの上に、乾いた足跡ひとつ、残っていなかった。
ただ、私の左肩のブラウスにだけ、五つの冷たい手形が、まるで霜のように、白く浮かんで、ゆっくりと消えていく。薄青い輪郭が、布の繊維の一本一本を凍らせ、それから、吐息で曇らせた鏡の曇りが引いていくように、端から溶けて、消えた。
脚の力が抜けて、膝をついた。
アスファルトの粒子が、ジーンズ越しに膝頭に食い込む。痛みは、むしろ安心だった。痛みがあるということは、私はまだ、こちら側にいる。
私は、守られた。
誰にか。
それを考える前に、もう一度、顔を上げる。黒い塊は、地面に残っていた。輪郭が、呼吸しているかのようにわずかに膨らみ、縮んでいた──気がした。見間違いだと、思いたかった。今度は、すぐそばの電柱の影から、かすかに、呼吸の音が聞こえた気がした。息ではない。息のふりをする、何か。リズムが、少しだけ、規則から外れていた。
「……あ、」
声にならない声が、自分の喉から漏れる。
そのとき、路地の奥で、乾いた足音が一つ、遠ざかっていった。
今度は、湿っていなかった。普通の、革靴のような音。硬い底が、アスファルトの目地を正確に踏んでいく、生きた人間の歩幅。
私は反射的に、その方向へ顔を向けた。遠ざかる背中の輪郭が、街灯の下で一瞬、透けた。
確かに、透けた。
背中の向こうの、壁の剝がれが、彼のシャツの柄越しに、見えていた。剝がれたモルタルの、薄いクリーム色と、グレーの下地の境目。その境目の線が、彼の肩甲骨のあたりを、まっすぐに横切っていた。
「待って──」
声は、届かなかったと思う。
届いたとしても、もう姿はなかった。
私は立ち上がり、震える指で取材ノートを開いた。何が起きたのか、忘れないうちに書き留めなければ。指先が、ページの端を三度、めくり損ねた。
けれど、開いたページの一番上には、私の字ではない筆跡で、一行だけ、走り書きが残っていた。
──今夜は、ここまで。
インクは、まだ、濡れていた。