第3話
第3話
三日待って、三日目の夜に、雨が来た。
気象庁の予報は、夕方から小雨。けれど、東の空が暗くなり始めた五時過ぎ、最初の一粒は、私の取材ノートの裏表紙に、点のように落ちた。点は、すぐに円になり、円は、すぐに色を濃くして、革の目地へ染み込んでいった。染みが一つ増えたノートを、私は左の脇に抱え直した。
椎名、と署名された彼の筆跡は、三日のあいだ、部屋の机の隅で、私をじっと見つめていた。朝、歯を磨きながら、その一行に触れてみる。夜、風呂あがりに、また触れてみる。インクは、もう乾いていた。乾き切ってしまえば、証拠にはならない。それでも指の腹には、あの日の陶器越しの冷たさが、まだ、薄く貼り付いていた。
──足音を、数えてみてください。
彼の言葉だけが、雨音より先に、私の耳の中で鳴り続けている。
四ツ辻に近い古いアーケードの入り口で、折りたたみ傘を開いた。金具が、かちりと鳴った。アーケードの屋根の継ぎ目から、雨が細く、数本、線になって落ちている。アスファルトに当たる音は、最初は粒の音だった。すぐに、面の音に変わった。私は、足を一歩、踏み出した。
水たまりを、踏む。
靴の底が、水膜の張力を、ぷち、と破る感触。ふくらはぎの内側に、跳ねた雫が、三、四粒、薄く冷たく当たった。
二歩目の水たまりを踏む前に、私の背中側の空気が、また、ひと呼吸ぶん、冷えた。
「──隣、いいですか」
声は、傘の外から来た。
振り返らなかった。
振り返らなくても、私の左斜め後ろに、誰かが立っていた。身長は、私より頭半分ぶん、高い。呼吸の位置の高さで、測れるはずなのに、呼吸の気配は、なかった。
私は、前を向いたまま、一歩、また、踏み出した。
「どうぞ」
そう、言ったつもりだった。唇が動いたかどうか、自信がなかった。
青年は、私の左肩の、ちょうどブラウスに手形が残った位置の、半歩後ろを、歩き始めた。
私の傘の布の端が、彼の肩に、触れない。届かない。距離は、傘一本分しか空いていないのに、私の傘は、私だけを庇っている。雨が、彼の襟元に、真上から、まっすぐ落ちていく。私は、その雨の筋を、横目で追った。
雨の粒は、彼の髪に、触れる前に、消えた。
髪を濡らす気配もなく、肩で弾ける音もなく、ただ、彼の輪郭の一センチ手前で、ふっと、空気に溶けていった。溶けた雨が、どこへ行ったのか、私にはわからなかった。アスファルトに落ちる音も、聞こえなかった。
私は、足を速めた。
一歩。二歩。三歩。
自分の靴が、水たまりを踏む。ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ。
彼の足元からは、音が、しなかった。
最初は、錯覚だと思った。雨の音が厚すぎて、もう一人分の水音が、埋もれているのだと。私は、意識して、水たまりの多い路肩へ寄った。自分の左足を、深く、一度、踏み込んだ。ぱしゃん、と大きな音が上がった。右足を、踏み込んだ。ぱしゃん。左足。右足。左足。
靴下の繊維の奥まで、水が、じわりと浸み込んでいく。つま先から、くるぶしへ、くるぶしから、ふくらはぎの中ほどへ、冷たさが、階段を上るように、ゆっくりと登ってきた。それでも私は、もう一度、わざと水の深い場所を選んだ。踵を落とす。跳ね返りが、スカートの裾を、斑模様に濡らす。その音の輪郭の、ひとつ、ひとつが、やけに際立って、耳に残った。
彼の歩幅は、私と揃っている。視界の隅で、紺色のジャケットの裾が、私の歩調と同じリズムで、左右に振れていた。けれど、水の面を破る音は、私の靴の分しか、立たない。二人で歩いているのに、靴音の数が、合わない。ジャケットの肩の布目も、見るかぎり、乾いていた。雨の斜めの筋が、彼の腕の前を、平行に、通り抜けていくだけで、繊維の色が濃くなる気配はなかった。
首筋の後ろが、ちりちりと痺れた。
項の産毛が、一本ずつ、逆立っていくのがわかった。耳の後ろの皮膚が、内側から細い針で押されるように、小さく、規則的に、脈打った。
「……椎名さん」
呼びかけた声が、雨音に、呑まれた。
返事は、なかった。
私は、前を向いたまま、喉の奥の筋を、ゆっくり、ほどこうとした。問いたいことが、喉で、ひとつの塊になっている。あなたは誰なのか。昨日の夜、私の肩を引いたのは、あなたなのか。なぜ、店主にあなたが見えないのか。なぜ、雨が、あなたに届かないのか。──問えば、たぶん、彼は答える。あの、申し訳なさそうな薄い笑いで、はぐらかすかもしれないけれど、答えはくれる。
けれど、唇が、動かなかった。
舌の裏に、何かが、貼りついている。言葉になる手前の、粘り気のある膜のようなものが、舌を、上顎へ押し当てている。口を開こうとすると、その膜が、私の頬の内側を、しっとりと引き留める。
怖かった。
彼の答えではない。
問いを、口にした瞬間に、この並んで歩く時間が、終わってしまうことが、怖かった。
私は、それが、怖いと思ってしまった自分のことが、いちばん、怖かった。
雨が、強くなった。
アーケードを抜け、四ツ辻の手前、薄暗い路地の分岐に出る。街灯が、一本だけ、点いていた。光の輪は、濡れたアスファルトの上で、黄色く、にじんでいる。
「詩織さん」
不意に、彼のほうから、私の名前が来た。
初めて、彼の声が、雨音を、押しのけた。
「立ち止まらないで。──あれが、また来ています」
視線を動かさずに、息だけを止めた。
四ツ辻の向こう側、ちょうど昨夜、黒い塊が落ちた地点の、少し奥。街灯の光が届かない路地の闇の中に、輪郭の曖昧な、人の形のような、何かがあった。身長は、私より高い。けれど、肩の線が、左右で、高さが合っていない。片方の肩が、もう片方より、こぶし一つぶん、沈んでいた。頭部の輪郭も、どこか歪んでいた。右の耳のあるべき位置が、空洞のようにへこみ、代わりに、首筋の側面が、不自然に膨らんでいる。ひとの形をしているのに、ひとの設計図から、二、三箇所、寸法を間違えて組み上げたような、その、ずれ。
雨が、そいつの頭にも、落ちている、はず、だった。
けれど、そいつの髪の位置にも、雨の粒は、届いていなかった。
──椎名と、同じだ。
気づいた瞬間、足首の内側が、冷たくなった。水の冷たさではなかった。血が、引いていく温度だった。指先の感覚が、傘の柄の木目から、ひと呼吸ぶん、遠のいた。握っているはずなのに、握っている実感が、薄い。
「歩いてください。ゆっくりで、いいです。振り向かないで」
椎名の声は、低く、けれど、芯があった。陶器越しの冷たさとは違う、強く張った糸のような、硬さのある声だった。
私は、歩いた。
水たまりを、踏む。ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ。
私の音だけが、四ツ辻を、横切っていく。
影は、動かなかった──ように、見えた。けれど、私の視界の端で、その輪郭のうち、低いほうの肩の位置が、ほんの数センチ、こちらへ傾ぐ気配があった。首を、伸ばしてきたのだ。雨の向こうで、私の歩幅を、測るように。
「大丈夫。あれは、今夜は、まだ、越えてきません」
椎名の声が、私の左耳のすぐそばで、言った。
息は、かからない。
けれど、声の温度だけは、不思議と、あたたかかった。母の声でもなく、恋人の声でもない、──何か、もっと古い、たとえば、子どもの頃に一度だけ握ってもらった、誰かの手の体温に、似ていた。
路地を抜けて、広い通りに出た瞬間、雨音が、急に遠くなった。アスファルトの反響が、変わったのだ。けれど、私の耳の奥には、まだ、四ツ辻の水音の欠け方が、残っていた。二人ぶんの歩幅で、一人ぶんの足音。その、欠けた半分を、私は、確かに、聞いてしまった。
コンビニの軒下で、私は、ようやく、立ち止まった。
振り返った。
椎名は、半歩後ろに、立っていた。
紺色のジャケットは、濡れていなかった。髪の一筋も、乱れていなかった。私の傘の外に、彼は、ずっといたはずなのに、水の痕は、袖口にも、肩にも、靴にも、ひとつも、なかった。
「……今夜のこと、書いても、いいですか」
やっと、声が出た。
彼は、少しだけ、目を伏せた。あの、申し訳なさそうな、薄い笑い。
「書いてください。ただ、──明日の朝、ノートを開いたときに、書いた通りの文字が、残っているとは、限りません」
そして、彼は、視線を、私の背後の、濡れたガラス窓へ、向けた。
コンビニの自動ドアの、磨りガラスに近いほうの、曇った窓。そこに、私ひとりの輪郭だけが、ぼんやりと、映っていた。
隣に、誰も、いなかった。
雨の夜の光の中、私の肩の横には、ただ、傘の柄を握った、私の手の影があるだけだった。
私は、ガラスの中の私と、目を合わせた。
ガラスの中の私も、私を見ていた。
けれど、その瞳の奥だけが、ほんの一瞬、私より、半秒だけ、遅れて、瞬きをした。