第2話
第2話
書庫の扉を押した瞬間、埃の匂いが喉を刺した。
夜明け前の鐘が鳴って二刻。他の子どもたちはまだ寝台で身じろぎもしていない。私は枕の下から昨夜の本を抜き、足音を殺して廊下を渡った。この身体は床板を踏むだけで軋みを立てる——体重が軽い代わりに体幹の筋力がない。親指の付け根で重心を運ぶ歩法はかろうじて再現できるが、前世で殺人犯を追った三十二年の経験に比べれば、赤子の真似事だ。
書庫は北棟の端にある。磨りガラスの窓、腰高の棚が五列。司書はいない。鍵もない。子どもに取られて困る本は初めから置かないという運用だろう。棚の端から順に背表紙の字体を目で舐めた。活字は不揃いで、手写本が半分混じっている。紙は麻の綴じ糸で止められ、漉きは帝都のものに劣らない——この世界にも製紙業と製本業が存在し、一定以上の文化水準にある。事実の確認から始める。推論はその後だ。
持ってきた本を窓辺の机に置き、余白の二つの記号を改めて目に焼きつけた。かすれたインクの曲線。昨夜の月明かりで見たものと、朝の光で見たもの、筆跡の特徴は一致する。同じ人間が書いた。
棚から三冊を抜いた。『薬草概略』『王国法典要綱』『魔素基礎』。魔素、という語は初見だった。
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最初に『魔素基礎』を開いた。
〈魔素とは大気中に遍在する微粒の能動要素であり、触媒を介して術者の意図により形を与えられる〉
触媒、という単語で手が止まった。
前世にも「媒介」の概念はあった。毒物学における反応媒体、あるいは錬金術の触媒——硫酸銅、水銀、塩化ナトリウム。物質Aと物質Bを結びつけ、単独では起きない反応を起こすもの。この世界における「触媒」は、どうやら物質と意図の橋渡しをする役割らしい。物質が物質でないものに作用する接点として機能する。
毒殺犯が触媒の知識を持っていれば、毒の作用を増幅したり遅延させたりできる可能性がある。前世の連続毒殺事件——爪の青黒い変色、唇の左側だけの痙攣、二日かけての遅効——あの毒は既知の薬草では再現できなかった。もしあの事件に「触媒」が関与していたなら。
仮説に過ぎない。だが仮説は新しい仮説の母体になる。
『薬草概略』に移った。ページをめくる指先に粉のような埃が溜まる。この世界の薬草の名前は前世と異なっているが、薬理作用の分類は驚くほど似ていた。鎮静作用を持つ葉、止血作用を持つ根、解熱作用を持つ花。違うのは、ある種の薬草が「魔素との親和性」という項目で分類されていることだった。親和性の高い薬草は、触媒として機能する。親和性の低い薬草は、純粋な薬理作用のみを持つ。
つまり、この世界の毒物学は前世よりも変数が一つ多い。毒そのもの、被毒者の体質、そして触媒。三つの変数の組み合わせで、症状の出方が無限に変わる。
紙の端で指の腹が切れた。血の珠が浮く。前世と同じ赤だ。血液は世界が変わっても赤い。この事実が、妙に安心感を与えた。
『王国法典要綱』を開いた。身分制度の項目——王族、貴族(伯爵以上を高位、子爵以下を下位)、騎士身分、市民、隷属民、そして孤児は「無籍民」として市民扱いの半歩手前に置かれている。証言能力は限定的。告発権は制限されている。十二歳の孤児が誰かを犯罪者として告発しても、受理される可能性は低い。
肩の力が抜けた。帝都も似たようなものだった。名探偵として名を上げる前、新米の刑事時代、下層民の証言は何度も握り潰された。法制度は、身分を跨ぐ告発を歓迎しない。この規則はおそらく、どの世界でも同じだ。
例の二つの記号を本文に当てはめてみた。この世界の文字体系は前世の帝国文字と異なる音素を持ち、表音文字と表意文字が混在している。記号のうち片方は、確かにこの世界の古い表意文字に近い形をしている。だがもう片方は、該当するものがない。処刑台の石壁で見た残りの四つの記号も、脳裏で照合した。一致する字形は、ない。
つまり——あの暗号の作者は、どちらの世界の文字体系にも完全には属していない。両方の知識を持ち、独自の法則で混ぜている。
背後で扉の軋む音がした。
「レイン、なにしてんの」
年下のミラだ。赤毛の八歳、鼻の頭にそばかす。手に粥の椀を持っている。
「本を読んでる」 「ふぅん。朝ごはん、冷めるよ」 「すぐ行く」
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本を棚の奥に隠してから食堂に向かった途中、シスター・ブリギッテが慌ただしく廊下を横切った。
「全員、広間へ! ヴェルナー様がお見えになります!」
食堂に駆け込んで冷めた粥を三口で飲み下し、他の子どもたちに混じって広間に並んだ。三十人ほどの孤児が年齢順に整列する。年長者は背後に、年少者は前列に。シスターは入口を見つめたまま、胸元のロザリオを指で絞るように握っていた。五十代半ばの修道女、青白い頬、乾いた唇。貧しい孤児院を切り盛りする人間の典型的な疲労が、背中の線に出ている。
扉が開いた。
背の高い男が入ってきた。歳は五十前後。仕立ての良い濃紺の外套、白髪の混じる髭、胸元には銀の懐中時計の鎖。これがヴェルナー商会の主人か——前世の観察癖が自動で走査を始める。身長百七十五前後、肩幅広く、姿勢は正しい。だが歩幅がやや狭い。疲労か、足に軽い故障か。
「子どもたち、元気にしているか」
声は低く、穏やかだった。悪意は感じない。シスター・ブリギッテが深く頭を下げた。
「ヴェルナー様、いつもながらの御厚志、感謝申し上げます」
男は手袋を外して小脇に抱え、子どもたちの顔を順に見渡した。私の番が来た。目が合った時間は一秒ほど。ヴェルナー氏は微かに頷いて、隣の少女に視線を移した。
その一秒で、私は三つの情報を拾っていた。
一つ、瞳孔の反応が若干遅い。室内の照度に合わせた収縮がコンマ数秒遅れた。加齢か、あるいは何らかの薬剤の影響。
二つ、左手の甲にうっすらと黄色い染みが浮いている。肝機能の低下を示す徴候——前世で肝臓病の患者を何人も見た。
三つ、そして最も気になったのは右手の指先だった。
懐中時計の鎖を整える仕草の中で、人差し指と中指が微かに震えていた。震幅は一ミリ以下。意識しなければ見逃す程度。だが規則的な神経性振戦ではなく、断続的な、抑制されきれていない震え方だった。二秒ほどの間に三度。二度目と三度目の間隔が、一度目と二度目より短い。
ヴェルナー氏は懐から革袋を取り出し、シスター・ブリギッテに渡した。
「今期の寄付だ。本と食糧、それから冬支度の毛布も別便で届く」 「重ね重ね、ありがとうございます」 「子どもたちを頼む」
男は軽く手を上げ、踵を返した。短い訪問だった。五分もなかった。
扉が閉まり、子どもたちが散り始めた頃、私はシスターの脇に進み出た。
「シスター。一つだけ、よろしいですか」 「どうしたの、レイン」 「ヴェルナー様は、いつもあんなにお急ぎなのですか」
シスターは少し視線を落とした。ロザリオを握る指の力が、わずかに緩む。
「商会のお仕事で、お忙しいのよ。それに、最近は少しお体の調子が……」 「お体の調子?」 「風邪が抜けないとおっしゃっていたわ。あなたは気にしなくていいのよ。さ、畑仕事の時間ですよ」
私は頷いて、広間を出た。風邪。指の震えを説明するには弱い。だが、弱いというだけだ。広間の暖炉の火が朝はまだ弱かった。寒さのせいかもしれない。加齢による手の震えは珍しくない。
推論の材料が足りない。現段階で仮説を立てるのは早計だ。今日の優先順位は、記号の解読と、この世界の薬草学の深堀り。ヴェルナー氏の指の震えは、記憶の片隅に置いておくだけで十分だ。
そう、判断した。
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夜、寝台に横たわって天井を見ていた。
外で犬が吠えている。月は半分まで満ちていた。隣の寝台では年下の男の子が小さな寝息を立てている。前世の帝都の夜は、この時間でもまだ馬車が走り、酒場の喧騒が路地に漏れていた。この世界の王都は、日が落ちれば眠る。
枕の下に『薬草概略』を忍ばせてある。明日も書庫に通う。
目を閉じる直前、記憶の中でヴェルナー氏の右手がまた震えた。震えの間隔を、思い出せる限り正確に再現する。二秒の間に三度。間隔の揺らぎ方は、特定の薬物の代謝過程で見られる振戦のパターンに、近い気がする。だが、どの薬物かまでは絞り込めない。
気のせいかもしれない。一秒の観察で拾った情報に、重みを付けすぎている可能性がある。
そう自分に言い聞かせて、瞼を閉じた。
だが瞼の裏で、あの男の右手の指先は、微かに、規則を逸した揺らぎ方で、震え続けていた。