第1話
第1話
刃が落ちる三秒前、私の目は壁を見ていた。
断頭台の石壁。灰色の表面に、誰かが鋭利な刃物で刻んだ痕跡がある。六つの記号と、三つの数字。規則的な配列。これは暗号だ——名探偵アルベルト・グレイとしての三十二年の人生で培った直観ではなく、論理がそう告げていた。記号の間隔が等しい。数字が区切りとして機能している。つまり作為的な配列であり、意味がある。
だが、もう遅い。
群衆のざわめきが遠くなっていく。連続毒殺事件の犯人として、帝都中の人間が私の死を望んだ。六人の被害者。全員が同じ症状で死んだ。爪の青黒い変色、唇の左側だけに残る痙攣の痕、そして二日かけてゆっくりと心臓を止める遅効性の毒。私はその毒の正体を突き止められなかった。突き止める前に、七人目の被害者の寝室から私の手袋が発見された。
あの手袋を置いたのは誰だ。
私を嵌めたのは誰だ。
執行人の手が動く気配がした。首の後ろに冷たい風が触れる。石壁の暗号が、視界の中心で揺れている。六つの記号。三つの数字。焼きつけろ。この配列を、一文字残らず——
刃が落ちた。
世界が暗転した。
---
背中に硬いものが当たっている。石畳だ。
目を開けると、見知らぬ空が広がっていた。帝都の空ではない。空気の匂いが違う。煤と馬糞の混じった帝都の空気ではなく、もっと乾いた、土と香草が入り混じった匂い。遠くに鳥の鳴き声がする。帝都では聞いたことのない、甲高く短い鳴き声だ。空の色も違う。帝都の空は工場の煙でいつも薄く濁っていたが、ここの空は高く澄んで、夕焼けの橙が地平線から滲むように広がっていた。
私は上体を起こした。身体が軽い。妙に軽い。両手を見下ろして、息が止まった。小さい。指が細く短い。大人の手ではない。子どもの——おそらく十二歳前後の少年の手だ。
裏路地だった。赤茶けた煉瓦の壁に挟まれた狭い通路。壁の表面にはところどころ苔が生え、足元の石畳の隙間から雑草が伸びている。遠くから荷馬車の轍の音と、聞き取れない言語の喧騒が聞こえる。いや、違う。数秒耳を澄ませると、言葉の意味が流れ込んできた。知らない言語なのに理解できる。この身体が元から持っていた知識だろう。
「——おい、またお前か。レイン」
路地の入口から、太った中年の男が顔を覗かせた。エプロンをつけている。小麦粉の白い痕がところどころについた、使い込まれたエプロンだ。パン屋か、あるいは食堂の主人か。
「孤児院の門限はとっくに過ぎてるぞ。シスター・ブリギッテに見つかったら晩飯抜きだ」
レイン。それがこの身体の名前らしい。記憶を探ると、断片的な情報が浮かぶ。王都の孤児院で暮らす少年。両親はいない。読み書きは孤児院の書庫で独学した。目立たない子ども。
「……ああ。すぐ戻る」
自分の声が高い。少年の声だ。違和感が全身を駆け抜けたが、顔には出さなかった。パン屋の男は「まったく」と呟いて引っ込んでいった。
私は壁に手をついて立ち上がった。膝が震えている。恐怖ではない。情報の過負荷だ。名探偵アルベルト・グレイは死んだ。断頭台で首を落とされた。だが意識は途切れず、異なる身体の中で継続している。この現象を何と呼ぶべきかは分からないが、事実は事実として受け入れるしかない。私は昔からそうしてきた。感情より先に、事実を整理する。
事実。私は死んだ。 事実。私は別の身体で目を覚ました。 事実。前世の記憶は完全に残っている。 事実。あの暗号も。
目を閉じると、石壁に刻まれた記号が鮮明に浮かんだ。六つの記号と三つの数字。処刑台の壁に、なぜ暗号が刻まれていたのか。誰が、何のために。あの暗号は私に向けたものだったのか、それとも偶然目に入っただけなのか。
分からない。情報が足りない。
だが一つだけ確かなことがある。私は冤罪で死んだ。真犯人は今も生きている。六人を毒殺し、七人目の罪を私に着せた何者か。あの手袋を寝室に置いた人間。法廷で私の弁明を聞きながら、おそらく笑っていた人間。
孤児院への道を歩きながら、私は右手を握った。小さな拳だった。この手では剣も持てない。権力もない。地位もない。帝都の知恵袋と呼ばれた名声も、ここでは何の意味もない。
だが、頭は動く。
石畳を踏む足音が、夕暮れの路地に響いた。この世界の空は帝都より広い。星が一つ、もう見え始めていた。
---
孤児院に戻ると、夕食の時間はとうに過ぎていた。食堂には誰もいない。テーブルの端に、冷めたスープの椀が一つだけ置かれている。誰かが私のぶんを残しておいてくれたのだろう。椀の周りにはパンの屑が散っていて、他の子どもたちが慌ただしく食事を終えた気配がある。
席について、匙を取った。薄い豆のスープ。口に含むと、舌の上で微かに苦味が広がった。この苦味には覚えがある。前世の薬学知識が自動的に反応する。ミルクシスルに似た肝臓保護作用のある薬草だ。孤児院の食事に薬草を混ぜている——子どもの栄養状態を考えた処置だろう。スープは冷め切っていたが、空腹の身体には沁みた。この身体はおそらく、今日ろくに食事を摂っていない。
この世界にも薬草がある。毒草もあるはずだ。そして毒があるところに、毒殺がある。
スープを飲み終えて椀を置いた瞬間、不意に右手が震えた。
あの暗号が頭の中で明滅する。六つの記号。三つの数字。視覚記憶として完璧に保存されているが、解読の手がかりがない。前世の暗号体系——帝都で使われていたシーザー暗号やヴィジュネル式の変形——はすべて試した。一致するものはなかった。だとすれば、この暗号は前世の体系に属していない可能性がある。
もし、この世界の体系に属しているとしたら。
処刑台に刻まれた暗号が、前世ではなく今いるこの世界の言語体系で書かれていたとしたら——それは何を意味する。前世の世界と、この世界を知る誰かが、あの暗号を残した。
考えすぎだ、と自分を制した。まだ推論の土台が薄い。この世界の文字体系すら把握していない段階で、仮説を積み上げるのは危険だ。
だが脳は勝手に動き続ける。
孤児院の書庫には本がある。レインの記憶にそれはあった。古い教本や寄贈された書物が埃を被って並んでいる。明日からそこに通おう。この世界の文字を学び、薬草学を学び、法制度を学ぶ。名探偵アルベルト・グレイの知識体系を、この世界の座標に変換する。
そうしなければ——暗号は永遠に解けない。そして真犯人は、どちらの世界であれ、野放しのままだ。
食堂を出て、寄宿舎の廊下を歩いた。他の子どもたちの寝息が薄い壁越しに聞こえる。窓から差し込む月明かりの中、自分の影が壁に映った。小さな影だ。三十二年分の経験を持つ人間のものとは思えない、頼りない輪郭。
部屋に入り、寝台に腰を下ろす。枕元に、書庫から借りたまま返していなかった一冊の本があった。レインが読みかけていた本だ。革の表紙は角が擦り切れ、何人もの手を渡ってきたことが分かる。表紙を開くと、文字が並んでいる。読める。この身体の記憶が、文字の読み方を知っている。
ページをめくる手が止まった。
本の余白に、前の持ち主が書き残したらしい落書き。かすれたインクで描かれた記号が二つ。
見覚えがある。
処刑台の石壁に刻まれていた六つの記号のうち、最初の二つと同じ形だった。
心臓が跳ねた。指先が冷たくなり、背筋に電流のようなものが走る。偶然か。だが私は偶然という言葉を信じない。偶然とは、まだ因果が見えていない状態に貼る仮のラベルに過ぎない。
本を裏返した。背表紙の内側に、寄贈者の名前が小さく書かれている。
「ヴェルナー商会」
知らない名前だ。だが、レインの記憶の隅に微かに引っかかるものがある。孤児院の後援者。年に数回、寄付金と物資を届けに来る商会の主人。顔は覚えていない。レインにとっては、遠い世界の大人の一人に過ぎなかったのだろう。
私は本を閉じ、枕の下に滑り込ませた。
明日、書庫でこの記号を調べる。そしてヴェルナー商会について、知れることは全て知る。
天井を見上げた。暗号の六つの記号が、暗闘の中でなお光っている。前世の私を殺した謎と、この世界の片隅にある古い本の落書き。二つの点が線になるかどうかは、まだ分からない。
だが、手がかりは増えた。一つだった点が、二つになった。
これは、始まりだ。