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底辺探偵・鶴見陣

第2話 第2話

第2話

第2話

歌舞伎町の空気が変わる時間帯がある。

午後九時。サラリーマンの一次会が終わり、キャッチの声が本気になり、路地の奥から別の種類の人間が湧き出てくる。鶴見陣は靖国通りから一番街のゲートをくぐりながら、街の呼吸を読んだ。湿った空気が肌にまとわりつく。雨は上がったが、街全体がまだ水気を含んで重い。排水溝から立ち上る鉄錆びた匂いが、雨水と混ざって鼻の奥にこびりつく。

ネオンが路面を赤と青に染めている。雨上がりのアスファルトが光を反射し、歩く人間の足元に偽物の水面を作っていた。踏むたびに靴底が湿った路面を噛み、微かな水音が立つ。客引きの声、酔った笑い声、どこかのカラオケから漏れる低音。全部、ノイズだ。鶴見にとって意味があるのは顔だけだった。

安藤美咲。黒髪ボブ。目の間隔やや広め。左耳にピアス穴三つ。

脳の中にある顔データを起動させたまま、鶴見は歩き始めた。歌舞伎町を知り尽くしている。十五年の蓄積は伊達ではない。女を探すなら、まず行動パターンを推測する。「友達と飲みに行く」と夫に言っていた女。だが三日前に家を出て戻らない女が、今も歌舞伎町にいる保証はない。

いる、と鶴見の勘が言っていた。根拠はない。だが歌舞伎町は人が消える街であると同時に、消えた人間が潜む街でもある。ネットカフェ、ラブホテル、雑居ビルの上階にある名前のない店。身分証の要らない場所がいくらでもある。

まず監視カメラの配置を頭の中に展開した。

区役所通り沿いに十二台。一番街アーケード内に八台。シネシティ広場周辺に六台。花道通りに九台。これは公設のもので、位置は全部覚えている。加えて各店舗の防犯カメラ、コンビニのカメラ、ATMのカメラ。それらが作る監視の網には規則的な穴がある。鶴見はその穴——死角の地図を、頭の中に持っていた。

人探しの基本は、対象の生活動線を割り出すことだ。三日間姿を消している女が必要とするもの。食事、睡眠、金。食事はコンビニか飲食店。睡眠はネットカフェかホテル。金は手持ちか、誰かから受け取るか。

鶴見は歌舞伎町を三つのエリアに分けた。

一番街から区役所通りまでの表エリア。人通りが多く、カメラも多い。身を隠すには向かない。花道通りから職安通りにかけての裏エリア。風俗店やホストクラブが密集し、人の出入りが激しい分、紛れやすい。そしてゴールデン街から新宿五丁目にかけての端エリア。小さなバーが密集し、常連以外は入りにくいが、逆に言えば常連の顔をしていれば誰も詮索しない。

安藤美咲が「友達と飲みに行く」場所。ゴールデン街の可能性が高い。

鶴見はゴールデン街から探索を始めた。狭い路地に小さな店が密集する飲み屋街を、酔客を装って歩く。缶チューハイを一本買い、飲むふりをしながら各店の窓や暖簾の隙間から中を覗く。カウンターに座る客の顔を、一人ずつ照合していく。焼き鳥の煙が路地を漂い、炭の匂いが鼻腔を満たす。笑い声と氷の鳴る音。どの店も六席か七席で、客の顔は外から十分に確認できた。木造の壁板が湿気を吸って黒ずみ、軒先に垂れた裸電球の光がそこだけ琥珀色に滲んでいる。

一時間。収穫なし。

花道通りの裏手に移動する。風俗店の呼び込みを避けながら、ネットカフェを三軒回った。受付から見える範囲で顔を確認する。入会の振りをしてブースの通路を歩く。消毒液と汗の混じった空気が籠もっている。暗いブースの中で液晶に照らされた顔を、一つずつ脳内データと重ねていく。キーボードを叩く音が不規則に響き、時折ブースの仕切り越しに寝息が聞こえた。ここで夜を過ごす人間の気配は、どれも薄く、どれも似ている。

二時間。該当なし。

鶴見は自販機の前で立ち止まり、缶コーヒーを買った。今度はホットだ。指先が冷えている。四月の夜は油断すると体温を持っていかれる。缶の熱が掌に染み込む。その小さな温もりだけが、今の鶴見と街との接点だった。

焦るな。三日間この街にいるなら、どこかで必ず動線が重なる。

思考を切り替えた。時間帯だ。午後十一時を回っている。この時間、歌舞伎町の人の流れは二極化する。帰る人間と、これからの人間。安藤美咲が後者なら、今から姿を現す可能性がある。

鶴見はシネシティ広場のベンチに座った。ここは歌舞伎町の十字路だ。一番街、花道通り、区役所通り、セントラルロードの四方向から人が交差する。歌舞伎町を移動する人間の大半は、どこかのタイミングでこの広場を通過する。

座って、見る。

通行人の顔を片端から処理していく。脳が自動的に照合をかける。男は弾く。年齢が違う女も弾く。髪型、体型、骨格——フィルターを重ねて候補を絞る。一分間に三十人から四十人が視界を横切る。その全員の顔を、鶴見は無意識に記録している。

三十分が過ぎた。酔客がベンチの隣に座って話しかけてきたが、煙草を一本渡して追い払った。広場のネオンが一つ消え、また一つ点き、街が深夜の顔に変わっていく。

午前零時七分。

花道通りの方角から歩いてくる女。黒髪ボブ。鶴見の脳が反応した。距離約四十メートル。ネオンの逆光で顔の細部は見えない。だが骨格のシルエットが一致する。歩幅。肩の高さ。首の角度。

鶴見は息を止めた。心拍が一段上がるのを感じたが、表情は動かさない。缶コーヒーの縁に唇をつけたまま、眼球だけを動かす。こめかみの奥で血流が脈打つのが分かる。三時間の空振りで弛緩しかけていた神経が、一瞬で張り詰めた。

距離三十メートル。ドラッグストアの照明が女の顔を横から照らした。

左耳にピアス穴三つ。顎のラインがシャープ。鼻筋が通り、先端がわずかに上向き。

安藤美咲。一致率百パーセント。

鶴見は立ち上がらなかった。缶コーヒーを傾けるふりをして、視線だけで女を追う。

女は広場を横切り、区役所通り方面に向かっている。足取りは速い。酔っている様子はない。周囲を見ていないようで、実は二度、さりげなく首を回して後方を確認した。その動きは自然だった。髪をかきあげるような仕草に紛れていたが、鶴見の目は騙せない。

——三時間の捜索で見つけた。だが見つけたという安堵は、次の瞬間に消えた。

女の歩き方が、おかしい。

歩幅が一定だ。完全に一定。普通の人間は無意識に歩幅がばらつく。段差や人混みに合わせて自然に調整する。だがこの女の歩幅は、まるでメトロノームのように均等だった。そして体幹がぶれない。ヒールを履いているのに、上半身が全く揺れない。モデルの歩き方とも違う。もっと実用的な——。

鶴見は知っている。何年もこの仕事をやってきて、何百人もの歩き方を見てきた。訓練された人間の歩行には共通の特徴がある。警察官、自衛官、あるいは——。

女が不意に歩調を変えた。二歩だけ速くなり、また元に戻った。同時に右手がバッグの持ち手を握り直す。

あれは歩調変換だ。尾行を検知するための基本動作。追尾者がいれば、対象の歩調変化に無意識に合わせてしまう。訓練を受けた人間が使う技術。

友達と飲みに行く主婦の歩き方じゃない。

鶴見の腹の底で、冷たいものが広がった。胃の奥がきゅっと締まり、首の後ろに鳥肌が立つ。直感というより、十五年の経験が鳴らす警報。この女は、素人ではない。安藤美咲という名前も、経理マンの妻という肩書きも、何かの表層でしかない。

それでも追う。仕事だ。八万円を受け取った。見つけて、報告する。それだけだ。

鶴見は五十メートルの距離を保ち、女の後を歩き始めた。尾行検知を使う相手だと分かっている以上、間隔は広く取る。直線で追わない。並行する路地を使い、交差点で合流し、また離れる。歌舞伎町の地理が頭に入っている鶴見だからできる追尾法だ。

女は区役所通りを北に向かい、職安通りを渡った。大久保方面。人通りが減る。尾行の難易度が上がる。

鶴見は一本裏の路地に入り、次の交差点で先回りした。角のビルの影から覗くと、女が通りの向こう側を歩いている。街灯の光が等間隔に女の影を伸ばし、縮め、また伸ばす。その影すらも、一切の乱れなく進んでいく。

その足取りに、鶴見の背筋が粟立った。

訓練された人間が、この街で何をしている。安藤という男は、本当にこの女の夫なのか。

疑問が次々に湧くが、今は追うことだけに集中する。答えは、この女の行き先にある。

鶴見は呼吸を整え、夜の裏路地に踏み出した。湿ったコンクリートの匂いが靴底から立ち昇り、遠くで救急車のサイレンが一瞬だけ鳴って途切れた。街は何も答えない。ただ、次の角の先に女の靴音だけが残っている。

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