第1話
第1話
缶コーヒーが、ぬるい。
鶴見陣は窓のない事務所の中で、三本目の缶を傾けた。ブラック。砂糖を入れる余裕は、金銭的にも精神的にもない。神楽坂の雑居ビル四階、六畳。窓なし。換気扇だけが低く唸っている。天井の蛍光灯は二本あるうちの一本が切れていて、部屋の右半分だけが薄暗い。壁紙は継ぎ目から剥がれかけ、前のテナントが貼ったらしいカレンダーの跡が日焼けの四角形として残っている。「鶴見探偵事務所」の看板は一階のポストに貼った手書きのテープだけだ。
デスクの上には浮気調査の報告書が広がっている。依頼主は港区在住の会社役員、対象は三十代の妻。鶴見は報告書に目を落とし、三日前の尾行記録を読み返した。
——四月十二日、午後二時十四分。対象は表参道のカフェに入店。七分後、男性が合流。年齢推定三十五から三十八歳。身長百七十二前後、痩せ型、左手首にシルバーの腕時計。髪は七三分け、右の眉尻に古い傷跡。
ここまで書いて、鶴見は一度だけ目を閉じた。瞼の裏に、あの日カフェの窓越しに見た男の顔が鮮明に浮かぶ。睫毛の本数まで数えられそうなほど、正確に。男が笑ったときに左の犬歯だけが覗いたこと、珈琲カップを持つ指の爪が深く切り揃えられていたこと——そんな情報まで、頼んでもいないのに脳が保存している。
一度見た顔は忘れない。
生まれつきの異常記憶。医者には超記憶症候群の可能性を示唆されたが、精密検査を受ける金もなかった。顔だけだ。文章や数字はすぐ忘れる。だから大学も中退した。講義ノートを取っても翌日には自分の字が何を意味しているのか分からなくなる。試験勉強は地獄だった。だが顔だけは、十年前に一度すれ違った人間でも引き出せる。
探偵には向いている。少なくとも人探しと尾行に関しては。それだけが、鶴見陣という男に残された唯一の商品価値だった。
報告書を書き終え、封筒に入れる。これで報酬の残り半額が振り込まれるはずだ。家賃三ヶ月分の滞納。電気代は今月で止まる。前の事務所は大家に鍵を換えられて追い出された。あの日、段ボール二箱分の荷物を抱えて階段を降りたときの惨めさは、顔ではないから記憶に残らない。ただ腹の底が冷たくなった感覚だけが、体のどこかにこびりついている。
探偵免許はある。実績もある。だが依頼は選べない。選べる立場にない。底辺は底辺なりに、来た仕事を片付けるだけだ。
スマホが鳴った。非通知。
「鶴見探偵事務所です」
『あの……人探しを、お願いしたいんですが』
男の声だった。四十代後半、声に疲労が滲んでいる。鼻をすする音。泣いていたのかもしれない。言葉の端が微かに震えている。電話の向こうで、何かを堪えている気配がした。
「どなたをお探しですか」
『妻です。三日前に家を出たきり、戻りません』
鶴見はペンを取った。ボールペンのインクが掠れる。振って、紙の端で試し書きしてから本題に入る。
「警察には届けましたか」
『出しました。でも——成人の家出は、捜してもらえないって。事件性がないとか』
よくある話だ。成人の失踪は本人の意思の可能性があるため、警察は積極的に動かない。そこに探偵の需要が生まれる。底辺の探偵にまで仕事が回ってくるのは、大手が断った案件か、金のない依頼主だけだが。
「写真はありますか」
『はい。最近のが何枚か……』
「では一度お会いしましょう。今日これから、来られますか」
三十分後、男が事務所に現れた。名前は安藤。四十七歳、都内の中小企業で経理をしている。スーツは量販店のもの、靴底が片側だけ減っている。左足を庇う癖。腰痛持ちか。ネクタイは緩めてあったが結び目はきちんとしていて、だらしなさではなく消耗の証に見えた。目の下の隈が濃い。三日間、ろくに眠れていないのだろう。
鶴見は安藤の顔を見た瞬間、もう忘れない。頬のほくろの位置、左目の下の小さなシミ、眉間の皺の深さ。全部、脳に刻まれる。自動的に。止められない。
安藤はスマホの画面を差し出した。画面に指紋の跡が多い。何度もこの写真を見返していたのだろう。
「妻の、直近の写真です」
三十代前半の女。整った顔立ち。黒髪のボブカット。目元が涼しい。写真は三枚——レストランでの食事中、公園での自撮り、そしてパスポート用と思われる正面写真。レストランの写真では少しだけ口角が上がっている。だが目が笑っていない。プロの探偵でなくても気づく程度の、表情の不一致。
鶴見は三枚を五秒ずつ見た。それで十分だった。光の角度が変わっても、表情が変わっても、もうこの顔を見落とすことはない。新宿の雑踏に紛れていても、帽子を被っていても、化粧を変えていても、骨格と目の間隔と耳の形が一致すれば引っかかる。
「お名前は」
「安藤美咲。旧姓は……わかりません。結婚して二年です」
旧姓を知らない。二年の結婚生活で。鶴見は眉を動かさなかった。探偵は依頼主の事情に踏み込まない。踏み込む必要がある場合は別だが、今は写真と最後の目撃情報があればいい。ただ、喉の奥に小さな引っかかりが残った。旧姓を知らないまま二年暮らせる夫婦というのは、結びつきが薄いか、あるいは妻の側に隠す理由があるか、どちらかだ。
「最後に見たのは」
「火曜の朝です。仕事に出ると言って、そのまま……。スマホは繋がりません」
「行きそうな場所、心当たりは」
安藤は少し考えてから言った。視線が宙を泳ぎ、何かを思い出そうとするように額に手を当てた。「歌舞伎町に、よく行ってたみたいです。友達と飲みに行くって」
歌舞伎町。鶴見の庭だ。十五年この街で探偵をやっている。路地の一本一本、ビルの非常階段の位置、監視カメラの死角。全部、頭に入っている。
「報酬は前払いで八万。見つかったら成功報酬で追加十二万。見つからなかった場合の返金はありません。それでよろしいですか」
安藤は財布から八万円を出した。一万円札が八枚。新札ではない。少し迷った形跡がある——角が何度か折られている。ATMから下ろして、出すか出さないか迷って、結局持ってきた。経理の人間にとっての八万円の重さを、鶴見は知っている。安くはない。だがこの男は、それでも払うことを選んだ。
「お願いします」
その一言に、安藤の声の震えが戻った。電話のときと同じ、何かを堪えている声だ。鶴見は金を受け取り、領収書を切った。
安藤が帰った後、鶴見は缶コーヒーの最後の一口を飲み干した。ぬるいを通り越して、もう常温だ。アルミ缶を指で弾くと、空洞の軽い音が事務所に響いた。
デスクの引き出しからICカードを取り出す。残高は覚えていない。数字は忘れる。顔だけだ。
安藤美咲。三十代前半。黒髪ボブ。目の間隔やや広め、鼻筋は通っているが先端がわずかに上向き。左耳の耳たぶに、ピアスの穴が三つ。右は二つ。顎のラインがシャープで、首が長い。
脳の中で、その顔が回転する。正面、斜め四十五度、横顔。光源を変える。蛍光灯の下、ネオンの下、暗がりの中。どの角度から見ても、もう見落とさない。
——あのレストランの写真。笑っているのに、笑っていなかった目。
余計なことを考えるな、と鶴見は自分を戒めた。探偵の仕事は見つけることだ。見つけた先にある事情は、依頼主の問題であって、自分の問題ではない。
鶴見はジャケットを羽織った。春先だが夜は冷える。ジャケットの内ポケットにスマホ、外ポケットにボールペン。武器はない。腕っぷしも普通だ。走るのは速い方だが、それだけだ。
事務所の鍵を閉める。安っぽい錠前が乾いた音を立てた。
階段を降りながら、鶴見は自分に言い聞かせた。八万円。家賃の足しにもならない。だが仕事は仕事だ。見つけて、報告して、残りの十二万をもらう。それだけのことだ。
外に出ると、四月の夜風が頬を撫でた。冬の名残を含んだ湿った風で、鼻の奥にアスファルトと花の混ざった匂いが届く。神楽坂の石畳を歩き、大通りに出る。タクシーには乗らない。金がもったいない。地下鉄で新宿まで十分。そこから歌舞伎町は歩いてすぐだ。
見つけられない人間はいない。
鶴見陣の探偵人生で、それだけは一度も裏切られたことのない事実だった。だが今夜、その自負が何を引きずり出すことになるのか——ホームに滑り込む電車の風圧を浴びながら、鶴見はまだ知らない。