第3話
第3話
女は気づいていない。
少なくとも、鶴見はそう判断した。職安通りを渡ってから三回、女は後方確認の動作を入れた。髪を押さえる仕草、バッグの中を探るふりで半身を回す動き、ショーウィンドウの反射を使った目視。どれも教科書通りだが、鶴見は一度もその視線の射程に入っていない。
並行路地を使っている。歌舞伎町の裏側——大久保寄りの雑居ビル群は、表通りと裏通りが不規則に繋がっている。鶴見はその接続点を全部知っていた。十四年この街で飯を食っている。浮気調査、家出人捜索、素行調査——歌舞伎町とその周辺の路地は、鶴見にとって自分の事務所の間取りと同じだ。女が表通りを五十メートル進む間に、裏路地を走り、次の交差点で視認し、また裏に消える。息が上がる。だが足音は殺す。スニーカーのゴム底が湿ったアスファルトを噛む感触だけが、足の裏から伝わってくる。
女の動きに変化が出た。
歩調が落ちた。目的地が近い。鶴見は裏路地の非常階段の影に身を寄せ、通りの向こう側を窺った。錆びた鉄骨の冷たさが肩甲骨に触れる。排水溝から立ちのぼる下水の臭いが鼻をついたが、意識の外に追いやった。女が立ち止まったのは、雑居ビルの間に挟まれた幅二メートルほどの路地の入口だ。看板はない。街灯の光が届かず、奥は完全な闇。ビルの壁面にこびりついた古いチラシの残骸が、夜風にかすかに揺れている。
女は立ち止まったまま、十秒ほど動かなかった。周囲を確認している——のとは違う。待っている。呼吸すら一定のリズムで、焦りの気配が微塵もない。肩の力が抜けているのに、体幹には芯が通っている。訓練された人間の待ち方だった。
闇の奥から、人影が現れた。
男だ。身長百七十五前後。がっしりした体躯。黒いジャケットにスラックス。顔は——路地の暗がりで、まだ見えない。女が二歩、路地の中に踏み込んだ。男も一歩出てきた。通りの向かい側にあるパチンコ店のネオンが、一瞬だけ男の顔の右半分を照らした。赤と青の光が交互に明滅し、その合間の一瞬——赤の光が男の頬骨から顎にかけてを舐めるように浮かび上がらせた。
鶴見の脳が、発火した。
こめかみの奥で何かが弾け、視界が一瞬だけ白くなる。非常階段の手すりを掴んでいた手に力が入り、錆が掌に食い込んだ。痛みすら遅れて届く。網膜に焼きついた男の顔が、脳内のアーカイブと猛烈な速度で照合される。眉間の幅。頬骨の角度。顎のライン。左目尻の傷跡。鼻梁がわずかに右に曲がっている——過去の骨折痕。
一致。
三年前。テレビのニュース映像。鶴見は当時、別の浮気調査の報告書を書きながら、つけっぱなしのテレビでそのニュースを見ていた。六畳の事務所、缶コーヒーの空き缶が三つ並んだデスク。キーボードを叩く指を止めて、画面に目をやった。たいした関心があったわけではない。だが画面の中の男の顔を、頼んでもいないのに脳が保存した。いつものように。この厄介な記憶力——一度見た顔を忘れられない体質が、探偵としての鶴見を底辺から一段だけ引き上げている唯一の武器だった。
広域暴力団・黒瀬組。組長、黒瀬虎之介。当時五十二歳。
組織内の抗争で射殺。遺体は側近が発見。葬儀は組の内部で非公開に執り行われた。警視庁組織犯罪対策部が捜査に乗り出したが、実行犯の特定には至らなかった——そういうニュースだったはずだ。
死んだはずの男が、歌舞伎町の裏路地に立っている。
鶴見は壁に背をつけたまま、呼吸を整えた。心拍が跳ね上がっている。掌に汗が滲む。さっき掴んだ錆の鉄臭さと汗が混じって、指先がぬるつく。だが視線は外さない。外せない。
女と男は、路地の入口から三メートルほどの位置で向き合っていた。声は聞こえない。鶴見との距離は約三十メートル、その間にはパチンコ店の騒音がある。スロットの電子音、客の怒声、換気扇の唸り——すべてが二人の間の空気を遮断している。会話の内容は拾えない。
だが二人の身体言語は読める。
女の姿勢が変わった。歌舞伎町で見せていた一般人の擬態が完全に剥がれている。背筋が伸び、重心が低い。両足は肩幅に開き、いつでも動ける構え。男を見上げる視線に緊張はない。信頼——いや、もっと強い。従属でもない。対等な関係者同士の、業務的な空気。
この女は護衛だ。
鶴見の直感が確信に変わった。安藤美咲は、黒瀬虎之介の護衛だ。経理マンの妻などではない。身分も名前も偽装。あの安藤という男は——何者だ。
男が路地の奥を振り返り、手招きした。闇の中からもう一つの人影が現れる。小柄な男。スーツ。顔は見えない。三人は路地のさらに奥へと消えていった。三つの足音が遠ざかり、やがて歌舞伎町の喧騒に飲まれて聞こえなくなった。
追うか。
鶴見の足が止まった。路地は一本道だ。入れば逃げ場がない。あの女の動きは訓練された人間のものだ。相手は死んだはずの暴力団組長。裏路地の闇の中に、六畳の事務所しか持たない底辺探偵が踏み込む場所ではない。
追わない。
鶴見は踵を返し、来た道を戻り始めた。足早に。だが走らない。走れば音が出る。音が出れば気づかれる。歯を食いしばり、歩幅を抑え、裏路地の闇に紛れる。背後が気になる。振り返りたい衝動を、首の筋肉で押さえつけた。視界の端を、居酒屋の裏口から漏れる黄色い光が横切る。酔客の笑い声が遠くで弾けた。この街は何も知らない。いつも通りの深夜を過ごしている。
百メートル離れたところで、ようやく息を吐いた。背中のシャツが汗で張りついている。四月の夜風が冷たい。汗が急速に冷えて、背筋に悪寒が走る。体が震えているのか、それとも夜風のせいなのか、自分でも判別がつかなかった。
ここまでだ。仕事は終わった。女を見つけた。居場所は歌舞伎町の裏手。以上。依頼主に報告して、残りの十二万をもらう。それだけだ。
——本当にそれだけか。
黒瀬虎之介は死んでいるはずだ。三年前に。警視庁が捜査し、メディアが報じ、組は事実上解体された。その男が生きていて、歌舞伎町の裏路地で護衛つきで誰かと会っている。
報告すべき相手は安藤ではない。
だが鶴見は探偵だ。警察ではない。正義の味方でもない。缶コーヒーとぬるい事務所と滞納した家賃。それが自分の世界だ。死んだはずの暴力団組長の生存なんて、自分の手に負える話じゃない。見なかったことにしろ。脳がそう命じている。だが網膜に焼きついたあの顔が消えない。頼んでもいないのに保存された記憶が、こめかみの裏側でじくじくと疼いている。
鶴見は職安通りまで戻り、コンビニの明るい照明の下に立った。蛍光灯の白い光が目に刺さる。瞳孔が急激に収縮し、涙が滲んだ。自動ドアが開閉するたびに、消毒液の匂いが漂ってくる。深夜のコンビニは、歌舞伎町の裏路地とは別の世界だ。レジの店員が欠伸をしている。棚の商品が整然と並んでいる。世界は正常だ。少なくとも、ここでは。
スマホを取り出す。安藤に電話しようとした。報告して、終わらせる。指先がまだかすかに震えていて、ロック解除に二回失敗した。三回目で画面が開く。電話帳を呼び出そうとした、その指が止まった。
画面が光った。
メッセージ。安藤からだ。
『もう調査は結構です。今すぐ忘れてください』
鶴見は画面を見つめた。指が止まる。コンビニの自動ドアが開いて、酔った男が千鳥足で出てきた。鶴見の横を通り過ぎる。コーヒーの焦げた匂い。
メッセージのタイムスタンプ。午前一時十八分。たった今。
三日間妻を探してくれと泣きそうな声で頼んできた男が、深夜一時にこのメッセージを送ってきた。「結構です」じゃない。「忘れてください」。探してくれと言った人間の言葉ではない。忘れろというのは、見たものを消せという意味だ。
あの男は知っている。鶴見が何を見つけるか、最初から知っていた。知っていて依頼した。では何のために。鶴見に見せるためか。それとも——鶴見を、あの路地の近くに誘導するためか。
スマホを握る手が、微かに震えていた。画面の光が白い指を照らしている。コンビニの蛍光灯の下で、鶴見は自分が何かの輪郭の中に立っていることを理解した。まだ全体は見えない。だが底辺探偵の勘が、はっきりと告げている。
——この依頼は、最初から罠だ。