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灰の館、七つの鐘

第2話 第2話

第2話

第2話

あの夜、私はほとんど眠れなかった。

居間の長いテーブルを壁際に寄せて、その下に毛布を敷いた。兄が見つけてきたものだった。毛布は厚手の羊毛で、古い押し入れの匂いがした。湿気を含んで重たく、肌に触れるとちくちくしたけれど、冷たい床の上に直接横たわるよりはずっとましだった。二階の寝室に戻る気にはなれなかった。あの部屋には得体の知れない湿り気があったし、何より廊下を引きずるあの音が——あれがまた通ったとき、あの長い廊下の途中で鉢合わせることだけは避けたかった。

暖炉の火は相変わらず揺れない。オレンジ色の光が壁に四角い影を落として、その影も微動だにしない。時計がないことに気づいたのはこのときだった。館のどこにも時計がない。今が夜なのか朝なのか、そもそも外に昼と夜の区別があるのかも分からない。窓の向こうはずっとあの黒い霧だ。時間の感覚が、少しずつ溶けていく。

兄はテーブルの反対側で壁にもたれて目を閉じていた。眠っているのかと思ったけれど、ときどき薄く目を開けて廊下の方を確認している。見張ってくれているのだ。私のために。

「兄ちゃん、寝なくて大丈夫?」

「平気だ。お前こそ寝ろ」

声がまだ掠れている。昨日よりひどくなっている気がした。喉の奥から空気が漏れるような、乾いた響き。水を探さないといけない。この館のどこかに——でも、兄が言った。ここにあるものには手を出すなと。

うとうとと浅い眠りを繰り返して、何度目かに目を開けたとき、兄が立ち上がっていた。

「探索する。じっとしていても仕方ない」

兄の声は低かったけれど、はっきりしていた。夜が明けたのかどうかも分からない。ただ、蝋燭の火が少しだけ白みを帯びた気がした。この館なりの、朝の合図なのかもしれなかった。

一階は思っていたより広かった。

居間から廊下を挟んで反対側に、食堂があった。長いテーブルに八脚の椅子。壁にかかった古い肖像画。椅子の背もたれは高く、暗い木で作られていて、座面の布地がところどころ擦り切れている。テーブルの上は綺麗に拭かれていた。埃がない。誰かが手入れをしている——昨日のティーカップと同じだ。この館には、私たちのほかに何かがいる。何かが、家の形を保とうとしている。

食堂の奥にキッチンがあった。銅の鍋が壁に並び、木のまな板がカウンターに置かれている。蛇口をひねると、赤茶けた水がしばらく出て、やがて透明になった。兄は黙ってそれを見ていたが、やがて手で水を掬って匂いを嗅いだ。

「……鉄の匂いがする」

飲まない方がいい、と言おうとして、やめた。喉が干上がっている。兄の唇はさっきより白くなっていた。

食堂を出て、さらに奥へ進む。書斎、客間、小さな化粧室。すべての部屋が同じように古く、同じように整えられていた。書斎の机の上にはインク壺とペンが置かれていて、壺の中にはまだ乾いていない黒いインクが光っていた。誰が、いつ、何を書いたのか。考えたくなかった。そしてすべての窓が——同じだった。

黒い霧。

どの窓から見ても、外はあの黒い霧に覆われている。ある部屋の窓は観音開きの木枠で、別の部屋は上げ下げ式のサッシだった。形も大きさも違うのに、外の景色だけが判で押したように同じだった。窓ガラスに触れると、あのぬるい温度。生き物の体温みたいな不快な温かさが、どの窓からも同じように返ってくる。

兄は黙々と歩きながら、すべての窓を試していた。鍵を外し、取っ手を引き、押し、持ち上げ——どれも開かない。鍵は回るのに、窓枠が壁と一体化したように動かないのだ。

玄関はもっとひどかった。

廊下の突き当たりにある重い木の扉。両開きのその扉は、内側から——溶接という言葉が浮かんだ。扉と枠の隙間が、黒っぽい何かで完全に塞がれている。蝋のようにも見えるし、樹脂のようにも見える。兄が爪で削ろうとしたが、硬くて歯が立たなかった。扉自体も、押しても引いても体当たりしてもびくともしない。

「くそっ」

兄が廊下の壁を拳で殴った。乾いた音が廊下に響いて、長い残響を引いた。

それから兄は一番近い窓に向かった。腰の高さにある、少し大きめの窓。兄は拳を引いて、躊躇なくガラスを殴った。

鈍い音がした。ガラスは割れなかった。

もう一度。もう一度。三度、四度。兄の拳がガラスにぶつかるたびに、鈍く平坦な音が返ってくる。ガラスに罅ひとつ入らない。まるで壁を殴っているのと変わらない、手応えのない抵抗だった。五度目を打った後、兄は息を荒げて拳を下ろした。

「——兄ちゃん、手」

私は兄の右手を見ていた。関節の皮が剥けて血が滲んでいる。昨日の赤みの上にさらに傷が重なって、赤黒くなっている。でも、私の目が釘付けになったのは、そこではなかった。

拳の甲から手首にかけて——灰色が広がっていた。

最初は薄い色だった。影に見間違えそうなくらいの、かすかな灰色。だけど蝋燭の灯りの下で見間違えようがなかった。殴った衝撃で内出血したとか、そういう色ではない。肌そのものの色が変わっている。毛穴も、産毛も、皮膚の皺も、すべてがそのままの形で灰色に染まっていた。まるで石になりかけているみたいだった。

「これ、何」

声が裏返った。兄の手を掴んで、灯りに近づけた。灰色は指の関節を越えて、甲全体に薄く広がっている。境界線は曖昧で、健康な肌色との間に淡いグラデーションがある。触った感触は——普通の肌だった。温かさも弾力もある。見た目だけが、おかしい。

「大したことない」

兄が手を引っ込めた。

「殴ったからだろ。内出血だ」

「内出血って、こんな色にならないよ」

「なるだろ。普通に」

兄は右手をズボンのポケットに突っ込んだ。隠すように。さりげなく、でも明確に、私の視界から遠ざけた。

「それより水を探そう。さっきのキッチンの水、しばらく流せば飲めるかもしれない」

話を逸らされた。分かっていたけれど、それ以上追及できなかった。兄の目が「やめろ」と言っていたから。怖がらせたくない、という目だった。心配させたくない、という顔だった。いつもそうだ。兄はいつも、自分のことを後回しにする。私が泣きそうになるたびに、冗談を言って笑わせようとする。今だって、あの灰色を見た私の顔が怯えていたから、だから隠したのだ。

キッチンに戻って、兄は蛇口の水を長いこと流した。赤茶の色が完全に消えるまで待って、手のひらに掬って、少しだけ口に含んだ。数秒黙って、飲み込んだ。

「……まあ、水だな」

安全だという判断なのか、諦めなのか。兄は二口目を飲んで、私にも促した。水は冷たくて、わずかに金属の味がしたけれど、干からびた喉には沁みた。

兄がカウンターの端にあったコップを取ろうとして、左手を伸ばした。コップの隣にまな板が立てかけてあった。兄の指がコップに触れたとき、肘がまな板に当たって、まな板が倒れた。角が兄の左手の甲を直撃した。木の角がぶつかる硬い音がして、私は「痛っ」と声を上げそうになった。

兄は何も言わなかった。

顔色一つ変えなかった。

まな板が当たった左手をそのまま動かして、コップを掴んで、蛇口の下に持っていった。痛みに対する反応が、一切なかった。

私は兄の左手を見た。キッチンの灯りは廊下より明るくて、はっきりと見えた。

左手の指先——中指と薬指の先端が、灰色だった。右手よりも濃い、はっきりとした灰色。そしてその灰色の部分を、まな板の角が直撃していた。あれだけの勢いでぶつかって、痛がらないのは普通じゃない。

「兄ちゃん」

「ん?」

「左手。今ぶつけたよね」

「ああ、軽く当たっただけだ」

「痛くないの」

一瞬、間があった。ほんの一瞬。コップに水を注ぐ兄の動きが、水の厚みひとつ分だけ止まった。

「痛いよ、普通に」

兄はそう言って笑った。さっきと同じ、口元だけの笑顔。でも今度は目を合わせてくれなかった。蛇口から落ちる水を見つめたまま、私の方を見ようとしなかった。

嘘だ。

痛くないのだ。灰色に変わった指先は、もう痛みを感じていない。

喉の奥で、叫び出しそうな何かを飲み込んだ。あの廊下を引きずる音の主。灰色の肌。館の僕。兄の指先が、あれと同じ色になっている。同じことが、兄の身体で始まっている。

私は兄の背中を見つめた。少し猫背になった、制服のシャツの背中。皺だらけで、汗の跡がうっすら残っている。この背中がずっと私を守ってくれていた。私が怖いと泣いたときも、廊下の闇に怯えて動けなくなったときも、この背中が先に立って歩いてくれた。

この背中が——灰色に染まっていく。

コップの水が溢れた。兄は気づかなかった。蛇口の水が透明なまま、静かにシンクに流れ落ちていた。

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