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灰の館、七つの鐘

第3話 第3話

第3話

第3話

地下への階段を見つけたのは、偶然だった。

キッチンの奥、食料庫に使われていたらしい小さな部屋。棚には空の瓶が整然と並び、乾燥したハーブの束が天井から吊るされていた。もう香りはほとんどなくて、触れれば崩れそうなほど脆い。指先がかすめただけで、茶色い葉の欠片がぱらぱらと落ちた。兄がその奥の壁を調べているとき、棚の裏側に不自然な隙間があることに気づいた。

「ミナ、ちょっと手伝え」

二人で棚を動かした。木の脚が石の床を擦る音が、静かな食料庫に不釣り合いなほど大きく響いた。兄は右手だけで力を入れていた。左手はポケットに入れたまま——いや、左手では力が入らないのだ。昨日から何度かそういう場面があった。物を持つとき、扉を押すとき、必ず右手を使う。左手を庇っているのではなく、左手ではもう足りないのだと、私は気づいていた。気づいていて、何も言えなかった。

棚の裏に、扉があった。木製の古い扉で、他の部屋のものより一回り小さい。取っ手は黒い鉄でできていて、触れると冷たかった。この館で初めて感じるまともな冷たさだった。窓のあのぬるい温度でも、暖炉の揺れない火でもない、ただの金属の冷たさ。それだけで少し安心してしまう自分が嫌だった。

扉の向こうに、下りの階段があった。

石造りの段が闇の中に消えている。壁に取りつけられた燭台にも蝋燭が灯っていて、ここも他と同じように誰かが——何かが——整えた空間だった。階段を覗き込むと、地下から冷たい空気が上がってくる。湿っていて重い空気。地下室特有の、土と石の匂い。あの甘い腐臭もわずかに混じっているけれど、一階より薄かった。

「行くぞ」

兄が先に降りた。私はその背中についていく。階段は思ったより長く、二十段ほど数えたところで踊り場があり、さらに十段ほど下った先に、広い空間が開けた。

礼拝堂だった。

天井が高い。一階の居間よりもずっと高い。地下なのに、上を見上げるとアーチ型の天井が暗がりの中に消えている。壁は粗い石積みで、等間隔に嵌め込まれた燭台の灯りが石の凹凸に複雑な影を落としていた。正面の壁に大きな十字架のような形の装飾があるが、よく見ると十字架ではない。縦の線が途中で二つに枝分かれし、根のように下へ広がっている。樹だ。逆さまの樹。根を天に向け、枝を地に這わせた樹の彫刻。その幹の部分に、文字が刻まれていた。

「碑文だ」

兄が壁に近づいた。蝋燭の灯りだけでは暗くて、目を凝らさないと読めない。彫りは深いが、文字は小さかった。日本語だった。旧字体の、少し角張った文字。

「七つの鐘が——鳴り終わるまでに」

兄が声に出して読んだ。掠れた声が石の壁に反響して、何重にも重なって返ってくる。

「出口を見つけよ。さもなくば——」

兄は言葉を切った。次の一文を読んで、黙った。

私は兄の横に立って、自分の目で文字を追った。

——七つの鐘が鳴り終わるまでに出口を見つけよ。さもなくば、館の僕となる。

館の僕。

あの音が脳裏によみがえった。ずるり、ずるり。廊下の闇の奥を、足を引きずって移動する何か。灰色の肌をした、かつて人だったかもしれないもの。あれが、鐘が鳴り終わるまでに出口を見つけられなかった者の成れの果てだというのか。

兄の左手に目がいった。ポケットから少しだけ覗いた指先の灰色。あの色が、全身に広がったら。兄も、あの廊下を引きずって歩く「僕」になるのか。胃の底がきゅっと縮んだ。想像するだけで、視界の端が暗くなる。

「七つって何だ。鐘はどこにある」

兄が碑文の周囲を調べ始めた。逆さの樹の周りにも、さらに細かい文字や模様が刻まれていた。同心円のような渦巻き、その間に挟まれた記号。すべてを読み取るには暗すぎたけれど、碑文の下に一文が追記されていた。彫りが浅く、本文より後から加えられたように見える。

——根に至れ。ただし順を誤るなかれ。

「根に至れ、か」

兄が逆さの樹を見上げた。地面に向かって伸びる枝。その先端が、七つに分かれている。七つの枝の根元にそれぞれ小さな円が彫られていて、数字が——一から七までの数字が振られていた。

「七つの鐘と、七つの枝。何かを正しい順番で辿れってことか」

「扉かもしれない」

自分でも驚くほど冷静な声が出た。この館に来てから、何度も見かけた。閉じた扉、開かない窓、溶接されたような玄関。でもそのすべてが「出られない」のではなく、「正しい方法で開けていない」だけなのかもしれない。七つの鐘が鳴り終わるまでに、七つの——扉を開ける。

「封印された扉が七つあるんだと思う。それを順番通りに開けていけば、出口に繋がる」

「根拠は」

「根拠なんてない。でも、碑文がわざわざ順番を指定してる。それに鐘の数と枝の数が同じで、枝には番号がある。鐘が一つ鳴るごとに制限時間が減る。時間切れになったら——」

言葉が詰まった。その先を声にするのが怖かった。

兄は私の顔を見て、少しだけ表情を緩めた。

「お前、しっかりしてきたな」

「……そんなことない」

「いや。最初に目が覚めたとき、お前泣きそうだったろ。今は碑文を読み解いてる。大したもんだ」

兄が右手で私の頭を一度だけ撫でた。乱暴で、ぶっきらぼうで、でも温かい手だった。硬い指の腹が髪を掻き分ける感触。こんなときにそんなことを言う兄が、少しだけ憎たらしくて、同時にひどく愛おしかった。

そのとき、空気が変わった。

礼拝堂の空気そのものが、振動した。音が来る——と感じた瞬間、それは来た。

鐘が鳴った。

低く、重く、腹の底を揺さぶる音。礼拝堂だけではない。足元の石が、壁が、天井が、館全体が共鳴している。振動が体を貫通して、骨まで響いた。歯がかちかちと鳴る。鐘の音は単一の音ではなく、いくつもの倍音が折り重なった、うねるような響きだった。耳を塞いでも無駄だった。音は空気を通して来ているのではなく、館そのものが鳴っている。

音が止んだのは、たぶん十秒後だった。体感では永遠だった。残響が石の壁の間を行き来して、ゆっくりと消えていく。その余韻の中で、兄が咳き込んだ。

一度、二度。乾いた咳。それが三度目に湿った音に変わった。

兄は口元を手で覆っていた。右手で。肩が揺れて、喉の奥から何かを吐き出すような音がした。

「兄ちゃん」

返事はなかった。咳が止まらない。背中を丸めて、膝に手をついている。石の床に唾液が落ちた。私は兄の背中に手を伸ばしかけて、途中で止めた。触れたら何かが決定的になる気がして、怖かった。

私は燭台から蝋燭を外して、兄の顔の近くに寄せた。蝋燭の炎が私の手の震えに合わせて揺れ、兄の顔に橙色の光と影が交互に走った。

兄の口元を覆う右手の隙間から、唾液が糸を引いて垂れている。蝋燭の灯りに照らされたそれは——透明ではなかった。

黒い筋が混じっていた。

唾液の中に、墨を一滴垂らしたような黒い線が走っている。兄の唇の端にも、その黒が付着していた。

七つの鐘の、一つ目。

あと六回。

兄がようやく顔を上げた。目が潤んでいて、咳のせいか、それとも別の理由か、瞳が赤く充血していた。口元を袖で拭って、黒い筋をごまかすように擦り取った。私はその袖に残った染みから目を逸らした。

「大丈夫だ」

その声がまた掠れていた。今度は昨日までの掠れとは違う、喉の奥で何かが詰まっているような、粘りのある音だった。

大丈夫じゃない。何一つ大丈夫じゃない。

けれど私は頷いた。今ここで泣き崩れたら、兄はまた笑って「大したことない」と言う。自分のことを隠して、私を安心させようとする。それをさせたくなかった。だからこそ、唇を噛んで、目の奥に溜まったものを飲み込んだ。

「急ごう。扉を探そう」

私は自分の声が震えていないことを確かめながら、そう言った。碑文を背にして、階段を見上げた。一階のどこかに、最初の封印された扉がある。七つの鐘が鳴り終わる前に、見つけなければならない。

兄が背後にいる気配を感じながら、私は階段を上り始めた。振り返らなかった。振り返れば、また兄の手の灰色が目に入る。唾液に混じった黒い筋を思い出す。そうしたら、足が止まってしまう。

だから前だけを見て、一段ずつ、石の階段を踏みしめた。

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