Novelis
← 目次

灰の館、七つの鐘

第1話 第1話

第1話

第1話

知らない天井だった。

薄暗い。それだけが最初に分かったことで、自分がどこにいるのか、なぜここにいるのかは何一つ分からなかった。頭の奥がぼんやりと重い。まるで深い水の底から引き上げられたばかりのように、意識の輪郭がぐずぐずと溶けている。瞼の裏に残っている光の残像すらなく、自分がどれだけの時間眠っていたのかも見当がつかなかった。

私は上体を起こした。古びたベッドの上だった。白いシーツは黄ばんで、かすかに湿っている。指先で触れると、冷たくて、少しだけぬめるような感触がした。汗なのか、それともこの部屋自体が含んでいる湿気なのか分からない。部屋の輪郭が暗がりの中で少しずつ浮かび上がる。高い天井、壁に掛けられた額縁、重厚な木の調度品。洋館の一室だった。見覚えは、ない。額縁の中身は暗くてよく見えなかったけれど、油絵のようだった。何かの風景画——いや、人物画かもしれない。暗がりの中で、絵の中の誰かがこちらを見ているような気がして、すぐに目を逸らした。

「……ミナ」

声がして、心臓が跳ねた。ベッドの横の床に、兄が座っていた。

「ユウト、兄ちゃん」

兄の顔を見た瞬間、張り詰めていた何かが少しだけ緩んだ。目の奥が熱くなって、泣きそうになるのを必死にこらえた。ユウトは壁にもたれて、疲れた顔で私を見上げていた。十七歳の兄は私より頭一つ分大きくて、いつもなら頼りになる。けれど今、その目の下には濃い隈があって、唇の色が薄かった。制服のシャツが皺だらけで、襟元が歪んでいる。どれだけの時間、あの姿勢のまま私の傍にいてくれたのだろう。

「大丈夫か。ずっと寝てた」

「ここ、どこ」

「分からない。俺も気がついたらここにいた」

兄の声が、少しだけ掠れている。風邪を引いたときみたいな、喉の奥に何かが引っかかったような音だった。水を飲んでいないのかもしれない。唇の端が白く乾いて、皮が薄く剥けていた。

私は記憶を辿った。最後に覚えているのは、祖母の葬儀だ。お棺に手を合わせて、親戚の人たちに挨拶をして、それから——実家の長い廊下を歩いていた。裸足で、畳の冷たさを感じていた。あの冷たさだけがやけに鮮明に残っている。足の裏が畳の目を一つ一つ踏んでいく感触。それなのに、その先の記憶がない。そこで記憶が途切れている。まるで映像を途中でぶつりと切ったように、その先が何もない。思い出そうとすると、頭の奥で霧がかかったように白くなる。記憶が消えたのではなく、最初からそこには何も記録されていなかったかのようだった。

窓に目をやって、息が止まった。

ガラスの向こうが、真っ黒だった。夜の闇ではない。黒い霧のようなものが窓の外にぴったりと張りついて、何も見えない。庭も空も、何もかもが黒い靄に呑まれていた。窓ガラスに近づくと、黒い靄がかすかに蠢いているのが分かった。生き物の呼吸のように、ゆっくりと濃淡を変えている。ガラスに指を触れると、外気の冷たさではない、ぬるい温度が伝わってきた。体温に近い、不快な温かさだった。

「——外、出られないの」

「試した。窓も扉も、全部だめだ」

兄は静かにそう言った。その声の平坦さが、逆に怖かった。もう何度も試した後なのだと分かった。兄の拳を見ると、右手の関節が赤くなっている。殴ったのだ。窓を、あるいは扉を。何度も何度も。それでも開かなかったのだ。

部屋を出ると、長い廊下が続いていた。壁紙は花模様の古い意匠で、等間隔に並んだ燭台に蝋燭が灯っている。蝋燭の火は微動だにしない。風がないのだ。密閉された空間に、空気の流れが一切ない。誰が火を点けたのか——そんなことを考えて、背筋が冷たくなった。

匂いがした。

甘い匂い。花が腐りかけたときの、あの甘さ。百合の花束を水を替えずに放置した、あの吐き気を催すような甘さに似ている。それが館全体に染みついているみたいに、どこにいても鼻の奥にまとわりつく。口で呼吸しても、舌の上に匂いの粒子が降りてくるようだった。何かが、この場所で長い時間をかけて朽ちている。そんな匂いだった。

「こっちだ。さっき一階を少し見て回った」

兄が先に立って歩き出す。私はその背中を追った。廊下は広く、天井が高い。足音が響くたびに、館がそれを吸い込んで、少し遅れて返してくる。自分たちの足音なのに、まるで誰かがついてきているみたいだった。振り返りたい衝動を何度もこらえた。振り返ったら、何かがいる気がした。何もいないと確かめるのが怖いのではない。何かがいたとき、それと目が合うのが怖かった。

一階には居間らしい広い部屋があった。暖炉、長いテーブル、埃をかぶった本棚。すべてが古く、すべてが重い。けれど荒らされた様子はなく、むしろ丁寧に整えられている。椅子はテーブルにきちんと収められ、本棚の本は背表紙を揃えて並んでいる。暖炉には薪がくべられていて、小さな火が静かに燃えていた。暖炉の火も蝋燭と同じで、揺らぎがない。炎の形をした何か別のもののように、オレンジ色の光を一定に放っている。誰かがついさっきまでここで暮らしていたような——いや、誰かが今も暮らしているような、そんな気配がある。

「兄ちゃん、これ」

テーブルの上に、ティーカップが二つ置かれていた。白い磁器に、まだぬるい紅茶が入っている。湯気はもう出ていないけれど、完全に冷めてもいない。カップの縁には小さな花の模様が描かれていて、ソーサーの上にはティースプーンまで添えられていた。二つのカップは、テーブルの向かい合う位置にきちんと置かれている。

誰かが、私たちのために用意した。

私たちがここに来ることを知っていて、二人分の紅茶を淹れて、待っていた。

その事実が、言葉にならない恐怖になって喉元まで込み上げた。

「触るな」

兄がぴしゃりと言った。私はカップに伸ばしかけた手を引っ込めた。

「飲むな、食べるな。ここにあるものには何も手を出すな。分かったな」

「……うん」

兄の声は厳しかったけれど、震えてはいなかった。震えていたのは私の方だった。膝の裏が冷たくなって、歯の根が合わない。噛み締めても止まらなくて、唇を引き結んだ。

そのとき、音がした。

——ずるり。

遠く、館の奥の方から。何かを床に引きずるような、重くて湿った音。

私たちは同時に動きを止めた。呼吸さえも止めた。音は、ゆっくりと、一定の間隔で近づいてくる。

ずるり。ずるり。

人が歩いている。いや、歩いているのとは違う。足を持ち上げずに、引きずっている。何かの重さに耐えかねて、あるいは足がもう足として機能していなくて——

音が近づくにつれて、あの甘い腐臭が一段と濃くなった。まるで匂いそのものが移動しているかのように、空気の質が変わっていく。暖炉の火が——あの微動だにしなかった火が、かすかに傾いだ。何かが、廊下の空気を押しのけてこちらへ向かっている。

兄の手が私の肩を掴んだ。声は出さず、目だけで「動くな」と言った。その目が真剣で、恐怖よりも強い何かが宿っていた。弟を守る、という意志。私たちは暖炉の横の大きな棚の影に身を隠した。兄が私を壁側に押し込み、自分がその手前に立った。何かあったとき、先に見つかるのは自分だという位置取りだった。

音が、部屋の前を通り過ぎていく。

ずるり。ずるり。ずるり。

廊下を、何かが移動している。棚の隙間から廊下側を覗こうとして、兄に頭を押さえつけられた。見るな、と。

長い時間が過ぎた。たぶん数分だったのだろうけれど、一時間にも感じた。音がようやく遠ざかり、聞こえなくなった。

「……行ったみたいだ」

兄がようやく口を開いた。私は自分の心臓の音がうるさくて、それしか聞こえなかった。こめかみのあたりで血管がどくどくと脈打っていて、耳鳴りのように頭の中に反響している。

「今の、何」

「分からない。でも、人じゃない」

兄は棚の影から出て、廊下の方を確認した。何もいない。ただ、あの甘い腐臭が先ほどより濃くなっている気がした。廊下の床を見ると、湿った筋のようなものが一本、暗がりの奥へと続いていた。何かが引きずられた痕だった。

私は兄の手を掴んだ。もう離したくなかった。

兄の手は温かかった。いつもと同じ、大きくて乾いた手。それが今はひどく貴重なものに思えた。この手だけが、この館の中で唯一確かなものだった。

指を絡ませて、強く握った。

兄も握り返してくれた。

「大丈夫。俺がいる」

そう言って、兄は笑った。暗がりの中の、少し無理をした笑顔。口元は笑っているのに、目が笑えていない。けれどそれでも、その声を聞いただけで呼吸が少し楽になった。

私はそのとき気づかなかった。

兄の左手——私が握っていないほうの手。その指先が、燭台の灯りの下で、不自然な灰色に変わり始めていたことに。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ