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蛇紋島の楔

第3話 第3話「五時四十分の障子」

第3話

第3話「五時四十分の障子」

音が止んだあと、いつ眠ったのかわからない。

 気づいたときには障子が白んでいた。灰色の光が部屋を満たしている。朝だ。首筋に汗が貼りついて冷えている。昨夜の記憶が曖昧で、あの床下の音が現実だったのか夢だったのか、もう区別がつかない。

 ——五時四十分。

 枕元の時計を確認して、私は布団から這い出した。いつも通りの時間だ。顔を洗い、髪を束ね、台所に向かう。朝食の支度をしなければならない。七人分の魚を焼いて、味噌汁を作る。日常を繰り返す。それだけが私にできることだ。

 階段を下りるとき、空気が変わったのに気づいた。

 匂いではない。温度でもない。潮聲荘の廊下に満ちている空気そのものが、昨日までとどこか違う。重い。粘度がある、と言えば近いだろうか。吸い込むと肺の底に沈殿するような、そんな重さだった。

 台所に立ち、米を研ぐ。水が冷たい。指がかじかむほど冷えているのは、この季節にしては異常だった。蛇口から出る水が妙に鉄臭い。いつもはそんなことはないのに。

 味噌汁の出汁を引き終えた頃、廊下を走る足音がした。

 どたどたと、慌てた複数の足音。若い女の悲鳴が上がった。

「誰か、誰か来て——!」

 カップルの片割れ、前田という女性の声だった。声が裏返っている。私は火を止めて廊下に出た。声は一階の奥——浴室の方から聞こえていた。

 走った。素足が冷たい廊下の板を叩く。浴室の脱衣所に前田が立っていた。顔が紙のように白い。彼女の恋人の木下が、呆然とした顔で浴室の引き戸を押さえている。

「辻村さんが——辻村さんが——」

 前田は同じ言葉を繰り返すだけだった。私は二人の間を抜けて、浴室の中を見た。

 辻村が仰向けに倒れていた。

 浴槽ではない。洗い場の床に、浅い水が溜まっていた。蛇口は閉まっている。排水口も詰まっていない。なのに、タイルの上に二十センチほどの深さの水が張っていて、辻村はその中に横たわっていた。

 溺れていた。

 水深二十センチで、大の男が溺れていた。

 顔は水面から出ていなかった。首が不自然に反り返り、背中が床に押しつけられたように平たくなっている。まるで見えない何かに上から押さえつけられたまま、水の中に沈められたかのような姿勢だった。

 目が開いていた。

 両目を大きく見開いたまま、辻村は天井を——いや、天井よりもっと遠い何かを見つめていた。瞳孔が極限まで開いている。恐怖の表情ではなかった。もっと悪い。驚愕だった。この世のものではない何かを、死の間際に見てしまった人間の顔だった。

 私は膝をついた。水が脛を浸した。異様に冷たかった。八月の終わりに、この水温はありえない。海の底——光も届かない深い場所の水に触れているような冷たさだった。昨夜、玄関の飛び石を濡らしていたあの水と同じ匂いがする。

 辻村の首筋に手を伸ばした。脈はない。皮膚は蝋のように冷たく、硬くなり始めていた。死後数時間は経っている。

 そのとき、指先に異物感があった。

 首の右側、顎の下から鎖骨にかけて。皮膚の表面に、模様があった。

 最初は痣かと思った。だが違う。それは皮膚の上に浮き出した紋様だった。暗い青紫色の、細い線が絡み合うように走っている。線の一本一本が微かに隆起していて、触れると湿っている。

 海藻だった。

 海藻のように枝分かれし、海藻のように揺らめく形をした紋様が、辻村の首筋に——まるで内側から浮き上がってきたように——刻まれていた。

 私は手を引いた。指先に残った水分が、ぬるりと糸を引いた。

「管理人さん、これ——」

 木下の声が震えていた。

「警察を、呼ばないと」

 呼ばなければならない。当然だ。だが私の目は辻村の首筋から離れなかった。この紋様を、私は知っている。島の東の岬にある祠の——あの石の表面に刻まれた紋様と、同じ形をしている。

 私は立ち上がった。水が足首から滴り落ちる。

「衛星電話を持ってきます。部屋に戻って——いえ、皆さんを起こしてください。全員、囲炉裏の間に」

 客室の並ぶ廊下を早足で進みながら、管理人室の棚から衛星電話を引っ張り出した。電源を入れる。画面が点灯し、アンテナマークを探す。

 圏外。

 窓際に移動した。屋根の上に向けた。玄関の外に出て、空に向かって腕を伸ばした。

 圏外。

 三十分前まで曇っていた空は、今は晴れていた。雲は薄く、衛星の電波を遮るものは何もないはずだった。なのに、信号を拾わない。この電話は先月点検したばかりだ。バッテリーも充分にある。

 嫌な予感が、確信に変わっていく。

 囲炉裏の間に客たちが集まった。前田が木下にしがみついている。フリーライターの桐島がカメラを構えようとして、河合に止められていた。氏家は無言でノートを膝に載せ、ペンを持ったまま動かない。

 牧野は部屋の隅に立っていた。壁に背を預け、腕を組んでいる。辻村の死を聞いても、その表情は変わらなかった。

「定期船は、いつ来るんですか」

 河合が訊いた。唇が乾いている。

「——三日後です」

 沈黙が落ちた。

 囲炉裏の灰が白く冷えている。火は入れていない。なのに灰の表面が微かに揺れた気がして、私は目をそらした。

「三日」

 桐島が呟いた。

「三日間、この島から出られないってことですか。人が死んでるのに」

「衛星電話が繋がりません。島の住民の船は——」

「漁師のおっちゃんたちに頼めないの」

「この時期、島の漁師は全員本土の市場に出ています。島にいるのは高齢の住民だけで、船を出せる人間は——」

「いない、ってこと?」

 前田の声が甲高くなった。木下が彼女の肩を抱く。

「辻村さんは、どうやって死んだんですか」

 氏家が静かに訊いた。全員の視線が私に集まった。

「浴室の洗い場で……溺死、だと思います」

「洗い場で?」

「水深二十センチほどの水が溜まっていて、その中で」

 誰も何も言わなかった。水深二十センチという言葉の異常さが、じわりと全員に染み込んでいくのがわかった。

「事故じゃない」

 河合が言った。

「そんな浅い水で溺れるなんて、ありえない。誰かが——」

「待って」前田が遮った。「誰かって、誰が。ここにいる人間の中に——」

 空気が軋んだ。疑惑の視線が交差する。河合が前田を見る。前田が氏家を見る。桐島が牧野を見る。一秒ごとに、この部屋の空気から酸素が減っていく。

「首に紋様がありました」

 私は自分でも驚くほど平坦な声で言った。視線が私に戻る。

「海藻のような形の、紋様です。痣とは違います。そしてあの水は——この島の水道水ではありません」

 氏家のペンが動いた。

「どういう意味ですか」

「わかりません。ただ——」

 言いかけて、口を閉じた。祠の紋様のことは、まだ言えない。能力のことも、昨夜の異変のことも。言えば、この場の恐怖がさらに膨れ上がる。それが何を引き寄せるのか、私にはわからない。

「とにかく、遺体を動かさないでください。浴室には誰も近づかないように。定期船が来るまで——」

「三日間、死体と一緒にこの島にいろって言うんですか」

 桐島の声が裏返った。

 牧野が、初めて口を開いた。

「管理人さんの言う通りにしましょう」

 穏やかな声だった。この状況にそぐわないほど落ち着いた声。全員が牧野を見た。

「騒いでも船は来ません。今できることをしましょう」

 その言葉で、場がわずかに凪いだ。だが私は牧野の目を見ていた。囲炉裏の間の薄暗がりの中で、その瞳は妙に澄んでいた。恐怖の色がない。驚きの色もない。まるで——これが起きることを、知っていたかのように。

 客たちが散り散りに部屋へ戻っていく。私は囲炉裏の間に残り、冷えた灰を見つめていた。

 辻村の見開かれた目が、まだ網膜に焼きついている。あの瞳が最後に映したものは何だったのか。水深二十センチの水の底に、何が見えたのか。

 台所に戻ると、朝食の支度が途中のまま残されていた。流しの水が、一滴ずつ落ちている。

 その水滴の音が、昨夜の床下の音と同じリズムを刻んでいるように聞こえて——私は蛇口を強く締めた。

 手のひらが、まだ辻村の首筋に触れた感触を覚えていた。湿って、冷たく、ぬめる感触を。あの紋様は、どこから来たのか。この島の何が、辻村を殺したのか。

 窓の外で波が寄せている。穏やかな波だった。この海の底に、何が沈んでいるのか。昨夜這い上がってきたものは、今どこにいるのか。

 時計が七時を指していた。定期船まで、あと三日。

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