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蛇紋島の楔

第2話 第2話「木目の染みの顔」

第2話

第2話「木目の染みの顔」

眠れなかった。

 布団の中で天井を見つめていた。古い木目の染みが、暗がりの中で人の顔のように見える。見えるだけだ。あれは染みだ。そう言い聞かせるたびに、染みの輪郭がわずかに動く気がして、まばたきを止められなくなる。目を逸らせばいいのに、逸らした先にまた別の染みがある。瞬きの合間に、それが少しだけ位置を変えたようにも思える。気のせいだ。気のせいでなければ困る。

 階下から、まだ声が聞こえていた。笑い声。怪談会は続いているらしい。時計の針は十一時を回っている。辻村の大きな声が、天井板を通して断続的に届く。言葉の意味は聞き取れない。ただ声の抑揚だけが、波のように押し寄せては引いていく。

 私は寝返りを打った。枕に押しつけた耳の中で、自分の脈拍が波のように鳴っている。敷布団の下の畳が微かに湿気を含んでいて、寝返りを打つたびに藺草の青臭い匂いが立ち上る。

 あの鈴の音を、まだ覚えている。あの甘く腐った匂いを、鼻腔がまだ覚えている。記憶というよりも、身体に刻まれた反射のようなものだ。匂いを思い出しただけで胃の奥がきゅっと縮み、指先が冷たくなる。

 能力を失ってからの二年間、世界は静かだった。見えるべきものだけが見え、聞こえるべきものだけが聞こえる。それがどれほど安らかだったか。普通であることの幸福を、私はあの二年間で初めて知った。スーパーで買い物をして、電車に乗って、夜は暗いだけの天井を見上げて眠る。それだけのことが、かつての私には許されていなかった。

 なのに今夜、あの境界がまた薄くなった気がする。

 もう一度、布団を引き上げた。眠ろう。明日の朝は早い。朝食の支度がある。魚を焼いて、味噌汁を作って、七人分の膳を並べる。それだけ考えていればいい。大根を切る手順、出汁の加減、焼き網の火の通り具合。生活の手触りだけが、私をこちら側に繋ぎ止めてくれる。

 ——だめだった。

 結局、私は布団を剥いで起き上がった。喉が渇いている。水を一杯飲めば、少しは落ち着くかもしれない。そう自分に言い訳をして、階段を下りた。裸足の足裏に廊下の冷たさが伝わる。古い板張りが、体重をかけるたびに小さく呻いた。

 台所で水を飲んでいると、囲炉裏の間の声がはっきり聞こえてきた。襖一枚隔てた向こうで、辻村がまた語っている。

「——で、その漁師がね、夜中に沖に出たんですよ。網を引き揚げたら、魚じゃなくて髪の毛が絡まってた。長い、女の髪が」

 若いカップルの女性が小さく悲鳴を上げる。誰かが笑った。

「漁師は気味が悪くなって港に戻った。ところが港に着いてみたら、さっきまで確かに網にあった髪の毛がない。代わりに——」

 辻村が声を落とした。囲炉裏の火が一瞬揺れたのか、襖に映る影がぐらりと傾いだ。

「船底に、手形がびっしり付いてた。内側から押したような手形が」

 沈黙が落ちた。囲炉裏の火が爆ぜる音がする。

「……辻村さん」

 氏家の声だった。静かだが、はっきりとした声。

「その話、いくつか確認させてください。漁師が網を降ろしたのは、『蛇の口』の沖合ですよね」

「ええ、そうです」

「蛇の口は、この島の北端の入り江の名前です。それと、漁師が戻った港——『亀裂浜』とおっしゃいましたね。この島の西側に、地元の人が『かめわれ浜』と呼ぶ浜があります。漢字で書けば亀裂です」

 辻村の声から、先ほどまでの余裕が消えた。

「……偶然じゃないですか?」

「一つなら偶然でしょう。でも辻村さん、今夜だけで三つ目ですよ」

 氏家の言葉が、台所の空気を変えた。私はコップを持ったまま動けなくなっていた。蛇口から落ちる水滴の音が、やけに大きく聞こえた。指の間でコップが滑りそうになり、慌てて両手で包み直した。水面が小さく揺れて、蛍光灯の残光を反射している。

「最初の話に出てきた『積み石の祠』は、東の岬に実在します。二つ目の話の『七尋の淵』は、島の南の断崖下の海域の古名です。そして今の『蛇の口』と『亀裂浜』。辻村さん、これらの話はどこで採集されたんですか」

「いや、それは……ネットの怪談投稿サイトとか、知り合いの体験談とか、いろいろ——」

「出典がばらばらなのに、地名だけがこの島に集中している」

 氏家の声にはもう、怪談を楽しむ調子はなかった。研究者が仮説を組み立てるときの、冷たい集中力が滲んでいた。

「牧野さん、さっき『よくある地名だ』とおっしゃいましたよね。でも『七尋の淵』は一般的な地名じゃありません。かなり限定的な、この地域固有の——」

「氏家さん」

 牧野の声は穏やかだった。

「興味深いご指摘ですが、怪談会の雰囲気を壊してしまいますよ。続きは明日、明るいうちにでも」

 その声には、何の感情も乗っていなかった。怒りも苛立ちもない。ただ、氏家の追及を正確に、滑らかに止めた。刃物を鞘に収めるような、過不足のない所作だった。

 誰かが気まずそうに咳払いをした。大学生の河合が「じゃあ次、僕が話していいですか」と場を繋ぎ、空気が緩んだ。

 だが氏家は黙ってノートに何かを書き続けていた——襖の隙間から、ペンを走らせる手元がちらりと見えた。

 私は音を立てないように台所を離れた。

 廊下に出た瞬間、また匂いがした。

 今度は仏間の方向からではなかった。玄関の方——いや、外からだ。潮風に混じって、あの甘く重い匂いが、建物の隙間から染み込んでくるように漂っている。

 玄関の引き戸に手をかけた。なぜそうしたのか、自分でもわからない。開けてはいけない、と思いながら指が動いていた。引き戸の木枠は夜気を吸って冷えきっており、触れた瞬間、指先から腕へ冷たさが走った。

 戸が軋んで開いた。

 外は闇だった。月は雲に隠れ、島の輪郭すら見えない。潮の匂いと、あの甘い匂いが混ざり合って、生温い空気となって顔に触れた。肌が粟立つのは寒さのせいではなかった。

 虫の声がしない。波音すら、遠い。

 不自然なほどの静寂の中で、私は玄関先の地面を見下ろしていた。

 濡れていた。

 雨は降っていない。なのに、玄関から続く飛び石が黒く濡れている。その水が——海水の匂いがした。潮の匂いとは違う、もっと深い場所の、底の水の匂い。光が届かない、圧力だけがある場所の水。

 濡れた跡は飛び石の上を点々と続き、玄関の框まで来て途切れていた。まるで誰かが海から上がってきて、ここまで歩いてきたような。

 だが足跡の形ではない。もっと不規則で、引きずったような——何かが這った痕。

 私は戸を閉めた。鍵をかけた。手が震えていた。

 框の上を確認した。乾いている。這った痕は、玄関の外で止まっている。中には入ってきていない。

 ——まだ。

 その言葉が頭に浮かんで、振り払った。

 廊下を戻りかけたとき、囲炉裏の間の襖が開いた。

 牧野だった。

「おや、管理人さん。まだ起きていらしたんですか」

「……水を飲みに」

「そうですか」

 牧野は廊下に出て、私の横を通り過ぎた。すれ違いざまに、彼の目が一瞬だけ玄関の方を向いた。暗がりの中でも、その視線の鋭さだけが妙にはっきりと感じ取れた。

「外、何かありましたか」

「いいえ。何も」

「そうですか」

 牧野は微かに笑って、二階への階段を上がっていった。その足音は不思議なほど軽く、古い階段がほとんど軋まなかった。まるで体重がないかのように、あるいは、この建物の構造を隅々まで知り尽くしているかのように。

 囲炉裏の間では、まだ怪談が続いていた。河合の声が聞こえる。誰かが笑う。日常の音だった。

 私は自室に戻り、布団に潜り込んだ。目を閉じる。

 氏家の言葉が頭の中で回っている。地名の一致。偶然ではないと彼女は言った。辻村がどこで集めた怪談であれ、その土地の名前がこの島と重なっている。それはつまり——この島で起きた何かが、形を変えて怪談として流通しているということか。それとも、怪談そのものがこの島に引き寄せられているのか。

 どちらにしても、答えが出る前に眠らなければならない。明日も朝は早い。

 うとうとし始めた頃、遠くで音がした。

 波音ではない。風でもない。建物の下——床下から、何かが壁を叩くような、鈍い音が規則的に響いていた。こつ、こつ、こつ。まるで、入れてくれと言うように。

 私は布団を頭まで引き上げ、耳を塞いだ。塞いだ手のひらの中で、自分の呼吸だけが荒く、熱く渦を巻いている。

 音はしばらく続いて、やがて止んだ。止んだ後の静寂は、音がしていた時よりもずっと重かった。

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