第1話
第1話「黒い染みに広がった失敗」
能力を失った日のことを、私はまだ夢に見る。
あの女性の喉から漏れた最後の呼気。畳に広がった黒い染み。除霊の失敗——いや、失敗という言葉では足りない。私が殺したのだ。見えていたものが突然見えなくなり、掴んでいたものが指の間からすり抜けた、あの瞬間に。
真壁朔夜、三十一歳。元霊媒師。今はただの民宿の管理人。
瀬戸内海に浮かぶ蛇紋島。定期船は週に二便だけ。人口は十二人。夏でも観光客はほとんど来ない。私がこの島を選んだ理由は単純だった。誰にも会わなくて済むから。何も視なくて済むから。
潮聲荘の縁側に座り、八月の終わりの海を眺める。湿った潮風が肌に纏わりつく。蝉の声がふいに途切れて、波音だけが残った。静かだ。この静けさが、二年かけてようやく手に入れたものだった。
携帯電話が震えた。島の観光協会からのメッセージ。
『明日の便で七名到着。例の怪談イベントの参加者です。よろしくお願いします』
怪談を語り合う宿泊会。観光協会が企画した、島おこしの一環だそうだ。私は断りたかったが、管理人として雇われている身でそれは許されない。三泊四日、七人の客。それだけだ。それだけ耐えればいい。
翌朝、私は桟橋に立っていた。
十時の定期船が、白い航跡を引きながら近づいてくる。空は曇っていた。八月の末にしては妙に涼しく、海面には薄い靄がかかっている。船のエンジン音が反響して、島全体が低く唸っているように聞こえた。
タラップが降りて、客が一人ずつ姿を現す。
最初に降りてきたのは、大きなキャリーケースを引いた中年の男だった。日焼けした顔に人懐こい笑みを浮かべ、こちらに手を振る。辻村、と名乗った。「いやあ、本当に何もない島ですね。最高だ」と声が大きい。
続いて、眼鏡をかけた三十代の女性。氏家と名乗り、「民俗学をやっています」と静かに会釈した。視線が鋭い。学者特有の、観察する目だった。
三人目、四人目と続く。若いカップル。一人旅の大学生。カメラを抱えたフリーライター。それぞれが怪談好きらしい空気を纏って、桟橋の古びた板を踏みしめていく。
七人目が降りてきたとき、風が止んだ。
牧野、と名乗った男は、四十前後だろうか。短く刈った髪、薄い唇、目立たない体格。他の客たちが物珍しそうに島を見回す中、彼だけがまっすぐ前を向いていた。まるで以前にも来たことがあるような——。
その瞬間だった。
牧野の右肩の後ろに、何かが揺れた。
黒い、影のようなもの。人の形をしているようで、していない。輪郭が滲んで、潮風に溶けるように消えていく。それは影というよりも、空間そのものが裂けた傷口のようだった。裂け目の奥に、暗い何かが脈打っている——そんな錯覚を覚えた。
私は息を呑んだ。
二年間、何も視えなかった。何も感じなかった。それを望んで、この島に来たはずだった。
なのに今、視えた。
ほんの一瞬。瞬きの間に消えた。見間違いかもしれない。曇天の光が作った錯覚かもしれない。
——そうだ、気のせいだ。
私は自分にそう言い聞かせた。手のひらが汗ばんでいた。こめかみの奥で、鈍い頭痛の予感が脈を打つ。かつて視えていた頃、いつも最初に来る兆候がこれだった。
「管理人さん? 大丈夫ですか」
氏家が怪訝そうにこちらを見ていた。
「ええ、すみません。……潮聲荘まで、ご案内します」
桟橋から宿までは、細い坂道を十五分ほど歩く。客たちは思い思いに会話をしていた。辻村が声高に怪談話の持ちネタを語り、若いカップルが笑う。フリーライターがカメラを構えて、苔むした石垣を撮影している。
私はその列の最後尾を歩いた。足元の砂利を踏む音を聞きながら、何度も振り返りそうになる衝動を抑えていた。
牧野は列の中ほどを、静かに歩いていた。誰とも会話をせず、急ぐでもなく。ただ一度だけ、彼が足を止めて道の脇を見つめたのに気づいた。
そこには古い地蔵が立っていた。首のない、苔に覆われた地蔵。島の子供たちが「蛇地蔵」と呼んで近づかない場所だ。
牧野は、微かに——本当に微かに——首を傾げた。何かを確認するような、あるいは何かに挨拶をするような仕草だった。
そしてすぐに歩き出し、何事もなかったように列に戻った。
私の背中を、冷たいものが這い上がった。
潮聲荘は、築百年を超える木造二階建てだ。何度か改修されてはいるが、柱や梁には建築当時の木材がそのまま使われている。玄関を入ると、黴と潮と古い木の匂いが混ざり合った空気が鼻をついた。
「おお、すごいな。本物の古民家だ」
辻村が感嘆の声を上げた。框に腰を下ろして靴を脱ぎながら、天井の梁を見上げている。
「夜はここで車座になって怪談会ですか。雰囲気は申し分ない」
「囲炉裏の間をお使いください」と私は答えた。「奥の仏間は立ち入り禁止です。老朽化が進んでいるので」
嘘だった。
仏間に近づきたくないのは、私だ。あの部屋には、何かがある。能力を失う前から、そう感じていた。扉を閉めていても、夜になると微かに——線香とも花ともつかない甘い匂いが漂ってくることがあった。
客たちを各部屋に案内し、夕食の支度に取りかかる。魚は朝のうちに島の漁師から買ってある。米を研ぎ、出汁を引く。単純な作業の繰り返しが、私の日常を繋ぎ止めている。
包丁で大根の皮を剥きながら、ふと手が止まった。
さっきの影。
あれが本当に視えたのだとしたら、それは何を意味する? 能力が戻りかけている? それとも——。
あの夜のことが脳裏をよぎった。依頼者の女性の、凍りついた表情。私の手をすり抜けていった、黒い何か。畳に膝をついた私の耳に、最後に聞こえたのは自分自身の叫び声だった。
大根の切り口から水が滲む。私は首を振り、包丁を動かし続けた。考えるな。ここには何もない。この島には、何も。
夕食後、囲炉裏の間に七人が集まった。
障子の向こうに海鳴りが聞こえる。八月の終わりとは思えないほど、夜風が冷たかった。私は台所で片付けをしながら、襖越しに漏れてくる声を聞いていた。
「じゃあ、最初は俺から」
辻村の声だった。
「これはね、去年の夏に実際にあった話なんだけど——」
語り始めた怪談の内容は、私の耳にはほとんど入ってこなかった。食器を拭く手を動かしながら、ただ波の音と辻村の声が混じり合うのを聞いていた。
だが、ふと氏家の声が割り込んだ。
「……辻村さん。今の話に出てきた『蛇の口』という地名、この島にもありますよね」
一瞬の沈黙。
「え? そうなんですか」
「ええ。島の北端の入り江の名前です。それだけじゃない。さっきの話に出てきた『石を積んだ祠』も——」
「偶然でしょう」
低い声が遮った。牧野だった。
「怪談にはよくある地名です。気にしすぎですよ」
それだけ言って、牧野は黙った。囲炉裏の火が爆ぜる音がして、会話が再開された。
氏家は何か言いたげだったが、それ以上は追及しなかった。
私は食器を棚に戻し、台所の灯りを消した。
廊下に出た瞬間、匂いが鼻を突いた。
甘い。重い。花の——腐りかけた花の匂い。
潮の匂いとは明らかに違う。線香でもない。もっと生々しい、果肉が崩れていくような甘さが、廊下の奥から漂ってきていた。
仏間の方向だった。
足が止まる。廊下の先は暗い。天井の蛍光灯が一本切れていて、仏間の前だけが闇に沈んでいる。
匂いが、濃くなった。まるで闇そのものが発酵しているかのように、甘く重い空気が足元から這い上がってくる。
そのとき。
——りん。
鈴の音が、一つ。
仏間の中から。誰もいないはずの、あの部屋の中から。
高く、澄んだ音が廊下に響いて、消えた。
私は立ち尽くしていた。指先が冷たい。呼吸が浅くなっている。これは——これは、知っている感覚だ。能力を失う前、何度も感じた「境界が薄くなる」瞬間の、あの。
囲炉裏の間から、笑い声が聞こえてくる。客たちはまだ怪談を楽しんでいる。
鈴は、もう鳴らなかった。匂いも、潮風に紛れて消えていく。
私は自分の腕を掴んだ。指が震えていた。
気のせいだ。老朽化した建物が軋んだだけだ。鈴は風で鳴っただけだ。
——嘘だ。風は、なかった。
廊下の闇が、こちらを見ている気がした。私は目を逸らし、自室へ続く階段に足をかけた。木の段が、体重を受けて深く軋んだ。一段ごとに、背中に刺さる視線が重くなる。振り返ってはいけない。振り返れば、きっと何かが視える。もう二度と、視たくないものが。