第2話
第2話
一週間は、奇妙なほど静かに過ぎた。
月曜から金曜まで、いつもと同じ教室、同じ透明な時間。誰にも話しかけず、誰からも話しかけられず、黒板の文字をノートに写し、チャイムが鳴るたびに次の授業を待つ。その繰り返し。でも、毎晩布団に入ると、瞼の裏に階段が浮かんだ。コンクリートの段差が一つずつ闇に沈んでいく、あの光景。五段目から先の、光が届かない場所。
匿名DMの送り主には、結局返信しなかった。何度か文面を打っては消し、打っては消し、最後にはスマートフォンをそっと伏せた。聞きたいことはある。でも、誰かの言葉に背中を押されて行くのは違う気がした。あの階段は、僕自身の問題だ。三度拒まれて、それでもまだ気になっているのは、僕の中の何かがあの場所と結びついているからだ。
土曜日が来た。
日没を待った。鶴見療養所には昼間も入れるけれど、今回は夜でなければならないと思った。根拠はない。ただ、前の三回はすべて日中だった。条件を変えるなら、まずそこだろうという、理屈とも直感ともつかない判断だった。
午後十時。母親は夜勤に出た後だ。リュックに懐中電灯、予備の電池、ペットボトルの水を入れて、玄関を出る。四月の夜風はまだ冷たくて、パーカーのジッパーを喉元まで上げた。自転車のライトを点けると、足元のアスファルトに白い円が揺れる。住宅街を抜け、川沿いの道に出ると、街灯の間隔が広くなっていく。光と光のあいだの闇が少しずつ長くなる。その闇を漕いで進むたびに、胸の奥で何かが低く脈動する。
恐怖じゃない。もっと静かな、水面の下で何かが動いているような予感だった。
鶴見療養所は、丘陵地の東端にある。市の境界線にかかる中途半端な立地のせいか、取り壊しも再開発も進まないまま放置されている。外周フェンスは錆びて傾き、「立入禁止」の看板はとうに文字が読めない。三階建ての本館は蔦に覆われ、月明かりの下では巨大な何かの死骸のように見える。ここに来るのは四度目だから、フェンスのどこが切れているかは体が覚えている。自転車を茂みの陰に停め、リュックを背負い直して、切れ目から敷地に入った。
靴底が砂利を踏む音だけが、やけにはっきり聞こえた。
正面入口は板で塞がれている。いつもは東側の通用口から入る。ドアは蝶番が外れていて、押せば開く。懐中電灯の光を向けながら、錆びた鉄扉に手をかけた。ぎい、と低い音がして、暗闇が口を開ける。消毒液の残り香はもうない。湿ったコンクリートの匂い、それと——何だろう。前に来た時には感じなかった、微かな甘さ。気のせいかもしれない。
中に入る。通用口から受付カウンターまでの廊下は、記憶の通りだった。天井の蛍光灯はとうに切れているけれど、カバーの残骸がまだぶら下がっている。懐中電灯の光が当たるとプラスチックが鈍く反射して、まるで目を閉じた顔のように見えた。壁面のペンキは所々剥がれて、下地のコンクリートが露出している。足元にはガラス片や天井材の破片が散らばっていて、一歩ごとに微かな音が立つ。
ぱきり。
自分の足音だとわかっていても、暗闇の中で聞くと心臓がわずかに跳ねた。
受付を過ぎて、右に折れる。ここから先が地下への階段につながる廊下だ。前回まではここを歩いている時点では何も感じなかった。吐き気は、階段の前に立った瞬間に来た。唐突に、前触れなく。
一度目は去年の十月だった。
廃墟撮影を始めて半年ほど経った頃で、鶴見療養所の存在はネットで知った。心霊スポットとして有名だとか、そんな話題には興味がなかった。僕が惹かれたのは、古い航空写真に写る建物の形だった。本館の北西に不自然な増築部分があって、そこから地下に降りる構造になっている。療養所としては珍しい造りで、建築としての好奇心が先に立った。
実際に訪れてみると、地上階は期待通りだった。広い病室、タイル張りの浴室、ナースステーションの残骸。どれも絵になる被写体で、二時間近く夢中でシャッターを切った。問題は、地下への階段に辿り着いた時だった。
北西棟の突き当たり。重い防火扉が半開きになっていて、その向こうにコンクリートの階段が下に向かって伸びていた。懐中電灯の光を向けた瞬間、胃の底からぐっと何かがせり上がってきた。食べすぎた時の吐き気とは違う。もっと深い場所から、内臓ごと押し上げられるような感覚。反射的に口を手で押さえて、二歩下がった。光の先には、何も見えない。何もないのに、体が拒絶している。
二度目は十一月。三度目は一月。条件を変えた。時間帯を変え、アプローチする経路を変え、心構えも変えた。結果は同じだった。階段の前に立つと吐き気が来て、足が動かなくなる。三度目に至っては、階段から五メートルの距離で既に唾液が口の中に溢れ始め、視界の端がじわりと歪んだ。壁の走り書きらしきものが一瞬見えた気がしたけれど、確認する余裕はなかった。
あの日から三ヶ月。
四度目の今日、僕はまた同じ廊下を歩いている。懐中電灯の光が壁を舐めるように這い、影が背後で蠢く。靴底が破片を踏むたびに、ぱきり、ぱきり、と乾いた音が廊下に落ちて消える。
北西棟に入った。空気の質が変わる。ここから先は増築部分で、天井が低い。本館との境目に段差があって、それを越えると懐中電灯の光が妙に通らなくなる。光が、粘度のある空気に阻まれているような。
壁の質感が変わった。ペンキではなく、直接コンクリートが剥き出しになっている部分が増える。ところどころ水染みが黒い模様を作っていて、それが懐中電灯の光を受けると、かすかにてらてらと光った。天井の配管から凝結した水滴が、ぽたり、と一定のリズムで落ちている。
突き当たりが見えた。
防火扉。錆びた鉄の表面。半開きの隙間から、下へ続く闇。前回と何も変わらない光景のはずだ。
——来る。
僕は足を止めて、自分の体の反応を待った。胃の底を探るように意識を向ける。いつもなら、もうこの距離で唾液が湧いてきて、視界が揺らいでいるはずだ。
何も来ない。
もう三歩、近づく。防火扉まで数メートル。懐中電灯の光が鉄の表面を照らし、その隙間から階段の一段目が見えた。
吐き気は、来なかった。
代わりに——匂いがした。
甘い。甘くて、重くて、粘りつくような匂い。通用口で感じた微かな甘さが、ここでは露骨な濃度になっていた。腐った果実に似ている。でも、果実にしては重すぎる。何か有機的なもの、かつて生きていたものが、長い時間をかけて分解されていく過程で放つ甘さ。腐臭、と呼ぶべきなのかもしれない。けれど不快ではなかった。むしろ、その匂いに引き寄せられるように、足がもう一歩前に出た。
防火扉の前に立った。
三度拒まれた場所に、今、何の抵抗もなく立っている。体は平静だった。心拍は少し速いけれど、それは緊張であって拒絶ではない。あの理不尽な吐き気、内臓を掴まれて引き上げられるような感覚は、跡形もなく消えていた。まるで、扉が開かれたかのように。
僕は懐中電灯を階段の奥に向けた。
一段目。コンクリートに亀裂が走っている。二段目。壁面に水染み。三段目、四段目。光が薄くなっていく。五段目——前回はここで完全に闇に呑まれた。
今夜は違う。五段目の先にも段があるのが見えた。六段目、七段目。踊り場があって、そこで折り返している。踊り場の壁に、何か文字が刻まれていた。遠すぎて読めないけれど、前回ちらりと見えた走り書きは、あれだったのかもしれない。
甘い腐臭が、階段の下から密度を増して立ち上ってくる。まるで息のように。吸って、吐いて、吸って——そのリズムに合わせるように、匂いの濃淡が波打っている。気のせいかもしれない。でも、一度そう感じてしまうと、その呼吸のリズムが意識から離れなくなる。
僕は一段目に足を乗せた。
コンクリートが冷たい。スニーカーの底を通して、温度が足裏に伝わってくる。二段目。三段目。壁面に手を添えると、指先が微かに湿った。四段目。甘い匂いがさらに濃くなり、鼻腔の奥がしびれるような感覚がある。五段目。前回の限界地点を、僕はあっけなく越えた。
六段目。懐中電灯の光が弱くなった気がする。電池を換えたばかりなのに。七段目。踊り場まであと少し。壁の走り書きが光に浮かび上がった。黒いマーカーで殴り書きされた文字。
「もどれ」
達筆ではない。むしろ、震えた手で急いで書いたような、歪んだ字だった。
僕は一瞬立ち止まって、その文字を見つめた。いつ、誰が書いたのか。僕と同じように降りてきた誰かが、何かを見て、慌てて書き残したのか。その人は、戻れたのだろうか。
踊り場に立つ。ここで階段は百八十度折り返し、さらに下へ続いていた。地下二階。匿名DMが指定した場所。懐中電灯の光を下に向けると、闇が光を吸い込むように薄めて、数メートル先で完全に途切れた。
甘い腐臭が、もう空気そのものになっていた。吸い込むたびに舌の上に味を感じるほどの濃度。甘くて、重くて、どこか温かい。この匂いは、建物のどこから来ているのだろう。配管の奥か、壁の中か、それとも——もっと下か。
僕は階段を降り始めた。
踊り場の先は、上の階段より段差が深かった。一段降りるたびに、空気の温度が変わるのがわかる。外は四月の夜だというのに、ここは温い。人肌より少し低いくらいの温度で、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。
最後の一段を降りると、廊下が左右に伸びていた。地下二階。天井は低く、懐中電灯の光が壁と天井を同時に照らす。両側の壁には等間隔でドアが並んでいるけれど、すべて閉じている。
足元に、光が落ちていた。自分の懐中電灯ではない。廊下の奥、左に曲がった先から、青白い光が微かに漏れている。
蛍光灯だ。
地下二階の蛍光灯が、まだ生きている。ちかちかと明滅を繰り返しながら、弱々しい光を廊下に投げかけている。廃墟の、電気が通っているはずのない地下で。
僕は懐中電灯を握り直して、その光に向かって歩き出した。